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第壱部-Ⅴ:小さな箱庭から

61.紫鷹 二人一緒に

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白い小さな手が、俺の袖を掴んで離さない。
小さな体のどこにそんな力があるのか不思議になるくらい強い力で、俺を逃すまいと捕まえていた。

「ひなのこれを離すわけにはいかないだろ、」
「悪い、」
「いいよ。どうせお前に皺寄せが来るだけだから。」

俺を迎えに来たはずの友人が、今日は珍しく聞き分けが良かった。
多分、俺が学院や宮城を休むほど、皺寄せは藤夜にもくる。どんな苦労があるのか、藤夜は決して言わないから、俺は知らない。知らなくていいと、鉄仮面は無言で言うから、俺はただ感謝した。

「あんまり時間をかけるなよ。さっさと覚悟決めて、戻れ、」
「善処する、」

去り際、藤夜は俺の腕で眠る日向の水色の頭を撫でた。
鉄仮面が解けて、安心するような苦しいような泣きだすような顔になるのを見て、そういえば、この男が泣いたのを見たのはいつぶりだったかなんてことを考えた。

何となく、藤夜は心を定めたのだと思う。
それがどんな覚悟であるかは知らないが。

俺は、どうだろうか。






日向をベッドに寝かせても、小さな手は離れなかった。
その手はそのままに、寄り添う形でベッドに腰かけ、この数日で痩せた頬をなでる。
こんな風に、つらい思いをさせたいわけではなかった。なんの不安もなく、ただ笑って幸せに過ごさせてあげたかった。それなのに、うまくいかない。

「一晩中、殿下を探しておられましたよ。ほとんど眠っておられません、」

萩花(はぎな)が昨晩の日向の様子を語る。
また、あの忌まわしい夢を見ていたのかと思うと、胸が痛んだ。

「…こいつは、不安が強くなると、気を失うまで眠らないんだよ、」
「ええ、身に沁みました。殿下の気配を絶たせたのは失策だったと、悔いています。」

萩花の眉が下がる。
萩花は、俺が部屋に来るとすぐに、魔力を隠す必要はないと言った。それを拒んだのは俺だ。
日向がまた魔法を制御できずに傷つくのが怖かった。

だが、朝食の席で、俺の気配がないと怯える日向に、いらない?と問われて、俺が日向を傷つけているのだと気付かされる。
魔力を解放した俺の気配を確認した日向は、そのまま糸が切れたように眠りに落ちた。



「…どうすれば、日向を守れる、」


眠ってもなお、俺の袖を離さない小さな手が、愛しくて切なかった。


「魔力を制御できないのは、体力と気力が足りていないのが原因だとは思います。回復すれば、無意識に放った魔法も、日向様自身で制御できるかもしれません。それまでは、我々が抑えます。」
「…俺はどうしたらいい?」

折れた左腕が痛む。
日向が無意識に治癒の魔法を増幅させたのは、俺が考えなしに朱華を殴り、腕を折ったからだ。癒しの魔法を増幅させたのは、俺が怒りや不安で、「泣きそう」になるから。
ならばと日向に気配を悟らせないように魔力を隠せば、日向の不安は増す。

「俺も魔力干渉ができるようになるべきか?」
「そう思われますか?」

萩花が眉を下げて笑った。
分かっていて、萩花は聞く。

思わない。

魔力干渉は、特殊な能力だ。鍛錬よりも素質が求められる。
魔法に長ける「草」ですら、魔力干渉の技をもつのは、数えるほどしかいない。
まして、干渉する側にも負荷の大きい技を、皇族である俺が扱うのは不都合があった。


結局、俺のせいで日向が魔法を使うのを、俺は止められない。


「藤夜が、俺が強くならないといけないと言った、」
「ええ、」
「魔法や剣の強さじゃないことは、わかってる、」
「そうですね、」
「だが、どうすれば強くなれるのかが、俺にはわからない、」


しおう、泣く?
日向がそう問うとき、俺の中に弱さがある。

皇子としての責務に押しつぶされそうな時、朱華への恐れと怒りで衝動に駆られる時、いいようのない不安や恐怖で前が見えなくなる時、すべてを投げ出して逃げたい時。
日向は、目ざとく気づく。

しおうが泣くは、ぎゅってする。

俺の心が壊れないように。
守るために。
日向は温もりをくれたし、癒しをくれた。

その温かさに溺れていたかった。
だが、それが日向を傷つけるというなら、俺は強くならなければならない。
それなのに、どうすれば超えられるのか、俺には答えが見えなかった。



「…日向様は、できないことばかりですね。」



何を言い出すかと、萩花を見る。
年上の友の黄色い瞳は、愛しそうに小さな主を見ていた。

「日向様は、話すことも食べることも歩くことも、人の助けを借りなければできません。殿下と同い年だというのが、未だに信じられないほど、小さくて弱い。」
「…そうだな、」
「でも、強いと、私は思います。」

友は穏やかに笑った。
そう思うでしょうと、尋ねるような視線に、そうだな、と素直にうなずく。

「できないことばかりだということは、日向様自身もわかっていらっしゃると思います。昨日の夜も、それを宇継さんに謝罪されていました。」
「そうか、」
「あまり多くは仰りませんけれど、約束を守れないことも、歩けないことも、ご自分を責めていらっしゃる気がします。」
「うん、」

約束を守れず恐慌に陥った日向が思い出される。
歩ける喜びを俺に伝えに来た日向と、歩けなくなって夢にうなされた日向も。

「だとしても、日向様は魔力の鍛錬も歩く訓練も、泣き言を言わず続けられるでしょう。日向様は、例え一人でできなくても、助けを借りることを受け入れて、自分にできる努力を重ねて成長しています。そんな日向様を、強いと私は思いますよ。」

眠る青白い顔を見下ろす。

離宮へ来たばかりの頃は、隠れ家から出ることさえできなかった。
離すことも、食べることも、自分の感情をとらえることもできなかった小さな子ども。

未だにうまく話せないことの方が多いけれど、日向はいつだって一生懸命に伝えようとする。
食事で服を汚して、着替える羽目になるのが本当は嫌なんだよな。だから、いつも俺を見て、スプーンをうまく使おうと真似ていること、知っているよ。
魔法が怖くなったこともあったな。でも、ちゃんと前を向いた。今だって、苦しいのに、鍛錬をやめない。
世界が広がるたび、怖いことだって増えているのに、震えながらも足を踏み出していく日向をずっと見てきた。

出会った頃を思えば、日向は別人のように成長した。


「…うん、強いな、日向は強い」


ふっ、と萩花が笑うのが聞こえた。
笑う場面だったろうかと、不思議に思えば、黄色い目が細く笑って俺を見ていた。


「殿下がいるからですよ、」
「は、」


「殿下や半色乃宮(はしたいろのみや)の皆さんと、一緒にいたいから、日向様は頑張るんです。殿下に会いに行きたいから、歩きたいと願われるんです。そうでなければ、日向様は、こんなにも強くいられませんよ。」

分かりますか?と黄色い目が俺を見る。

「私が初めて立ち会った最初の魔力鍛錬で、日向様ははじめて無意識の魔法を自覚されました。…おそらく、日向様にとって酷くつらいことだったと思います。それでも、ご自身の魔法に向き合われた。それができたのは、殿下が怖ければしがみついていればいいと言い、何があっても大丈夫だと、日向様を安心させたからだと思っています。」

「…あれは、燵彩(たちいろ)が、」
「師事する者がいても、訓練の技を備えた者がいても、それだけでは足りません。どんなに怖くても踏ん張れるのは、そうやって殿下が恥ずかしいくらいに愛を注ぐからですよ。」
「あ、い。」
「そう、愛です。殿下の駄々洩れの愛が、日向様の一番の助けです。」


殿下も、そうでしょう?


萩花の言葉に目を張った。
友の瞳が細く、やわらかくなる。
兄が慈しみをもって見るような、そんな視線だった。

「一朝一夕で、強くなるなんてできませんよ。殿下が甘えん坊の末っ子だってことは、私はよく知っていますから、はっきり言って無理だと思います。」
「…おい、」
「殿下の弱いところは、もう日向様にはバレてしまっているんでしょう?なら、さらけ出して、泣いたり甘えたりすればいいじゃないですか。気配で察してもらうんじゃなくて、全部さらけ出せばいい。たぶん、その方が日向様は安心するでしょう。」
「何の話だ、」


「それで、また向き合えばいいんですよ。」


魔法だって剣だって、そうでしょう?
そういって笑う萩花に、鍛錬で負けた日のような感情が沸き起こる。
一枚も二枚も上手で、勝てやしない。どんなに強がったって、萩花の前では、俺は子どもだった。

穏やかな笑顔に、黄金色の瞳が輝く。


「日向様の魔力は私たちが制御します。お体のお世話は、侍女の方々や小栗さんが精いっぱいやってくれます。殿下は、日向様の心を支えてください。それで、殿下も日向様に支えられて、強くなってください。」


母上は、日向のためにこの男を選んだのではなかっただろうか。


「水蛟さんが言ったでしょう。子どもなんだから、大人に任せなさいと。一人で強くなれとは、言いません。私たちを頼ってください。日向様に助けがいるように、殿下のできないことは私たちがします。殿下も助けられて強くなればいいんです。」


日向のために、強くならねばならない。
今すぐに、この瞬間に、と焦る。
そうでないと、萩花が言う。


「目の前に、良い御手本がいるじゃないですか。」



俺の袖を小さな手が握っていた。



この手は、俺にここにいろと、言っていた。
俺がいないと、不安なんだと。怖いんだと。

俺がいると安心できるんだと。


なあ、日向。
俺はいつもお前が心配なんだ。今もずっとお前を失ってしまうんじゃないかって不安なんだ。
でもたぶん、お前がいない方が、もっと不安で怖い。
俺が俺でいられなくなるくらい、もう俺にはお前が必要だよ。

日向も同じか?
俺が「泣く」のが嫌で、こんなにボロボロになるのに、それでも俺が傍にいる方がいい?

俺はな、自分でもよくわかってないけど、たぶん朱華が怖い。あの手段を択ばない兄が、いつ俺や俺の大事なものに矛先を向けるかが怖くてずっと怯えている。
自分の皇子という立場にも、何度も押しつぶされそうになった。
傷つかないように、心を閉ざして、自分を守ろうとした。
逃げだとわかっていて、それしかできなかった。

そういう弱さを、お前はわかってたな。

分かって、俺を溶かしてくれた。
重責も恐怖も不安も、日向といると凪いで、立ち上がる力が沸いたんだよ。

俺は弱いから、萩花が言うように明日すぐに強くなれるわけじゃない。

それでもいいだろうか。
日向の安心に俺がなれるなら。
傍にいて、一緒に強くなれるなら。



水色の髪をなでる。
眠っているのに、小さな頭が手のひらにすり寄ってくる感覚が愛しかった。


「…日向の魔力制御は、頼む。」
「ええ、承りました、」
「俺は、日向の傍を離れないよ、」
「知ってますよ。そのために、人員を増やしております。」
「そうか、」
「お任せください、殿下」
「うん、」

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