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第壱部-Ⅴ:小さな箱庭から

50.萩花(はぎな) 二人

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「おいで、日向。」

紫鷹(しおう)殿下の声に呼ばれて、日向様が歩き出す。
ソファから部屋の入口へのわずかな距離。
よたよたとおぼつかない足取りに、何度か冷や汗をかいた。転ぶ前に抱き留められる距離を保ちながら、私はその後ろをついていく。

もう少しだ、と懸命に不安を隠した声が、日向様を導いた。
一歩、一歩、力が抜けそうになるのを必死にこらえて歩く姿に、こちらも必死になる。
いつの間にか、あと少し、あと少しと心の内で、繰り返していた。

白い小さな手が、差し出された手に届く。
力が抜ける瞬間、私が抱き留めるよりも早く、紫鷹殿下の腕が日向様の体を抱きしめた。

「歩けたじゃないか、」
「うん、」
「すごいな、日向。本当にすごい、」

殿下が、まるで我がことのように喜ぶ。
その笑顔に、日向様の汗ばんだ顔が緩んでいった。


ああ、殿下がこんなふうに包み込むから、日向様は不安や恐怖に呑まれずに、笑っていられるのか。
殿下が日向様の幸福を喜んで、こんなにも真っすぐに全身で伝えるから。


その幸せに、思わず頬が緩んだ。





自分の足で入口までたどり着いた日向様を抱いて、紫鷹殿下が中庭へと歩む。
寒いからと、殿下が自分の上着で腕の中の日向様を包み込むから、後ろからついていく私には、日向様がかぶった毛皮の帽子が見えるだけになった。

「俺がいるんだから、ついてこなくてもいいんだが、」
「何度も言いますけど、そうはいかないでしょう。」

私と並んでついてきた藤夜(とうや)が、呆れたように言う。
ちっ、と舌打ちをする殿下の頭を、彼は心地よい音で叩いた。
この二人は、本当に仲がいい。

「ひな、紫鷹がこういうこと言っても、絶対聞いちゃダメだからな、」
「うん、わかる。これは、しおうのだだ、」
「だだ、ってなんだ、」
「お前が我が儘だってことは、ひなの方が良く分かってるんだよ。」
「うん、」

また舌打ちをする殿下を、今度は水蛟(みずち)さんが「日向様の教育にわるいから」とたしなめた。それに対してまた何かをぼやいて、さらに叱られる。
日向様の護衛についた頃は、驚いて目を丸くしたが、一月も立てばさすがに見慣れた。


2年前に、この離宮を去るときは、こんな光景が見られるとは考えもしなかったな。


成人するまでの6年間、この離宮で暮らした。
留学という名目の人質を、まだ幼い殿下と藤夜は、喜んで受け入れ、兄のように慕ってくれた。その純粋さが温かく、郷里から与えられた重責やしがらみが軽くなる気がしたのを覚えている。
その一方で、時を経るごとに、二人が様々な重責やしがらみにとらわれていくのを見てきた。

毎日のように私の寝室を訪れていたずらを仕掛け、稽古で負けてボロボロに泣く姿を見ていたから、紫鷹殿下が心を閉ざし、物事を冷酷に見るようになっていく姿は、胸が痛かった。
同じ離宮で暮らした実の兄を、腹違いの兄の策謀で奪われたときには、もう涙一つ流さなかったように思う。


それがまさか。
こんな風に笑ったりすねたり、感情のままに表情を変える姿を見られるとは。
私が離宮を去る頃は、水蛟さんとは言葉を交わしたこともなかったでしょう。
もしかすると、名前さえ知らなかったかもしれないのに。


「日向、見てみな。」
「すみれ?」

離宮の内側に小さく作られた中庭の一角。
白い小ぶりな鉢の中に、紫色の花が咲いていた。

「ニオイスミレ、って言うらしい。」
「におい、すみれ。すみれはいっぱい、ある?」
「庭師がそう言ってた。これは寒くても咲く菫。春になったらもっといろんな種類が咲くんだが、今はこれだけだって、」
「小さい、ね。」
「もっと大きいと思った?」
「形はにてるけど、絵とちがう、」
「違って残念か、」
「んーん、ちがうがわかった。すみれはいっぱいある、と、春にもっとある、がわかった。」
「そうか、それは嬉しいなあ、」
「うん、」

日向様の表情は、殿下の上着に隠れて見えない。
けれど、内側へ大事に包み込んだ頭を見下ろす殿下の瞳は、とても穏やかで優しかった。

とろけるような、甘い表情。
さすがにそんな顔は、私が離宮で暮らしていたころは一度も見たことがない。
離宮を去ってからの2年間は知りようがないけれど、おそらく日向様がそうさせたんだろうと想像できた。


「さわるは、いい?」
「少しだけな。花は触りすぎると痛むらしい。あと、抜いちゃだめだぞ。一応、母上の花だから、」
「…いい、」
「違う、違う。触るなとは言ってない。触って自分で確かめてみな、」
「んーん、こわい」
「ごめんって、日向。怖くない。大丈夫なんだよ。一本くらい抜いたって母上は許してくれる。俺も、お前に触ってほしいの、」
「んーん、」


すねたり、甘い顔をしたり、焦ったり、殿下の表情は本当に忙しい。
殿下に対して頑なな日向様を、藤夜がいとも簡単に納得させると、今度は嫉妬にまみれた顔をする。
そのくせ、日向様が菫に触れて喜べば、また我がことのように喜んで、頬をほころばせた。

上着の内側に殿下が頭を埋めると、水蛟さんが叱る。
たぶん、また日向様に口づけをしたのだろうけど、私からは見えなかったので、放っておいた。
結果、ちゃんと日向様をお守りしてください、と私まで水蛟さんに叱られる。

欲望に浮かされて暴走するなら止めるけれど。
正直、あんな風に慈しみ、全身で愛しさを伝えてくれるなら、良いのではないかと思っている。

「はぎな、みつすいは、すみれのみつもすう?」
「菫は小さいですし、低い場所に咲きますから、難しいかもしれません。蜜吸(みつすい)が蜜を吸うのは、木に咲くようなもう少し大きい花ですね、」
「だって、しおう、」
「何だ、ミツスイって、」
「鳥。すずめの仲間、」
「へえ、」

ようやく見えた水色の瞳が、嬉しそうに細くなった。
何の憂いもなく、ただひたすら幸福そうで美しい。

数日前には、立てないと恐怖し泣いていた。
それが一晩明けると、泣きもせず、黙々と治療に取り組んだ。
立てなくても歩けなくても、物言わない姿に不安にもなったが、青巫鳥(あおじ)の姿を見ると、また以前のように穏やかな表情になり安堵した。
前の晩に何があったかは、畝見(うなみ)から聞いた。


殿下の心を日向様が溶かしたように、日向様の心を殿下が溶かす。



この二人は、それでいいと、それがいいと私は思う。

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