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第壱部-Ⅲ:ぼくのきれいな人たち

14.紫鷹 しおう

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「しゅみぇ、こ、しゃ、ま」
「はぅみ」
「みぅち」
「しょぁ」
「ぅぃね」
「ぅちゅぎ」
「ぉぐぃ」

「ええ、ええ、そうですよ。董子です。」
「晴海でございます。日向様に名前を呼んでいただけるとは、夢にも…ううう」
「水蛟はもう、涙がとまりません…!」
「ああああ、日向様。」
「唯理音でございます。すごいです、日向様。」
「はい、宇継です。何でございましょう、日向様」
「お、お、お、小栗の名まで…!」

驚いた。
日向は周りの人間の名前を、ちゃんと覚えていた。
長い時間傍にいたものだけでなく、数回部屋の掃除を手伝っただけの使用人や、小栗の使い走りを務めていた若い見習、日向の世話にはかかわったこともないが、母上の後ろに控えていた侍女の名前、離宮を影から守る「草」の者さえ、いい当ててしまう。

「へえ、これはすごいですね、」

隣で日向の部屋をのぞいていた藤夜も、珍しく驚嘆の声を上げる。

学院の帰りに金剛宮に寄ったせいで、朱華(はねず)につかまって離宮への帰着が遅れた。
いつもならすでに静まっているはずの二階がやけに騒がしい。来てみれば、日向の部屋の前に人だかりができていた。

ベッドの上に布団から顔だけ出した日向が座っている。
その周りを、数人の使用人が少し距離をとって膝をつき囲んでいた。母上と晴海も、その中に混じって泣いている。

目覚めてからの日向の様子が、以前と異なるのは感じていた。
体が動くようになってからは、夜は隠れ家で眠っているようだが、日中はベッドで過ごすのだそうだ。
もちろん、怯えが消えたわけではなかったし、人前で声を出すことはしなかった。



その日向が名前を確かめるように繰り返す。
小さな掠れた声。

周りの者がその声に喜ぶと、また繰り返す.
その顔に恐怖の色がなく、どこか甘えたように見えるのは気のせいだろうか。


日向が、人に囲まれて座っている。
怯えることなく。



それだけで、胸のあたりがぎゅっと締め付けられ、目頭が熱くなる気がした。
腹の底から、いいようのない歓喜が沸き起こるのを感じた。

「お前は行かなくていいの、」

藤夜がいう。

「いい、日向が幸せそうなら満足だ」

本心だった。
もうこの景色だけで、今日一日の不快な出来事がすべて消えていく。
この幸せな光景を壊したくはなかった。
俺はこの景色の中には入れない。
それでも、心から嬉しかった。

「よかったな、」
「よかったな、」

藤夜と声がほとんど重なり、互いに笑った。
多分、意味は異なったけれど、藤夜も何かを満足したようにつぶやくのが心地いい。

「腹減ったな」

ここ数週間、全く感じなかった感覚が蘇ってきた。
存外、俺も単純な人間なのだろう。
とりあえず腹を満たして、そのあと、朱華の難題を考えてみてやってもいい。今なら何でもできる気がした。






「しおぉ」






掠れた声がした。
小さく、小さく。



「しおぉ」



振り返ると、水色の瞳がこちらを見ていた。
隠れ家の箪笥の中で、食事の席で、何度か視線があった、あの水色。

だめだ、と思うのに体が引き寄せられる。
だめだ、とわかっているのに、あの水色に触れたくなる。
だめだ、とわかっているのに。


「日向、」

「しおぉ」


ベッドの横に膝をついた俺を日向が見ていた。
俺の名をよぶ。

ダメだ、泣くな。
俺にそんな資格はないだろう。

白い小さな手が伸びて、俺の頭を撫でる。

ダメだ、そう思うのに。
涙をこらえることができなかった。

小さな手が温かい。生きている。
胸の内に凝り固まった何かが、そのぬくもりに癒されて溶けていく気がした。


「しおぉ、ごはん、」
「…ああ、ごはん、ご飯な。食べるか?」
「うん」

水色の瞳と目があって、俺はもう嗚咽を堪えることができなかった。






「あらあら、さっき食べたと思ったけど、日向さん、お腹が空いたの?」
「うん」
「ええ、ええ、先ほどは、ほとんど召し上がれませんでしたもの。すぐにご用意いたしますね。」
「うん」
「水蛟が、すぐに参ります!」

「いえいえ、私が。」
「私が」

「紫鷹さん、あなたも召し上がるでしょう?」
「…はい、」
「水蛟がすぐに参ります!」


涙がとまらない。
生暖かい周囲のやり取りが恥ずかしくて、母上や使用人たちが部屋を出ていく間、日向のベッドに伏せた。
その間、小さな手はずっと俺の頭をなでていた。








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