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第壱部-Ⅱ:はじまりは確かに駒だった

11.紫鷹 祈り

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「尼嶺(にれ)が?」
「うん、そう。どうもきな臭くって。」
「尼嶺かあ、やっぱりあそこはダメだね。従属する気はさらさらない。」


日陽乃帝国(にちようのていこく)の中枢・金剛宮の一室。
兄たる第一皇子・朱華(はねず)を囲むいつもの席に呼ばれた。
他の兄姉が揃う中、今年32になる年の離れた長兄は、最近末弟の俺を近くに座らせる。
その意図はまだ図りかねている。

意識を他所において座っていた俺は、尼嶺の名で、引き戻された。

父たる皇帝の名代として尼嶺(にれ)の統制を任されたのは朱華だ。
その役割に俺は無関係ではない。

「董子様がおられるから心配はしていないが、半色之宮(はしたいろのみや)は平気か。」

覚悟はしていたが、朱華に問われて束の間逡巡する。

「警備なら、つつがなく」
「日向王子に万が一のことがあれば、尼嶺にみすみすと反意の訳を与えることになる。何なら、近衛をつけようか?」
「いえ、ご心配には及びません。」
「そうか、」

長兄の意識は、すぐに俺を離れ安堵する。
もとより、離宮の警備を本気で案じている訳ではないだろう。半色乃宮の主人たる母上は、抜かりがない。

兄姉の中に、尼嶺と繋がっている者でもいるのだろうか。

いるだろうな。

7人の兄と7人の姉。
うち、母を同じくするのは、二人。
他国に嫁いだ二人は、今はいない。
皇帝と4人の異なる母の間に生まれた子どもらが、一枚岩かといえば、違う。


尼嶺が朱華の足枷になるとも知れない。
今のは牽制か。

おそらく正しい。

長兄がそれ以上何を問うこともなく、話は尼嶺の動向を共有する流れになった。
別段、俺が語ることもないし、話題を振られることもなく、定刻となり解散となった。
長兄の執務室を辞して、まっすぐ離宮へ帰る。


日向のことを問われなくてよかった。


あの小さな王子は、今はまだ深い眠りの中にいる。
きっかけとなった出来事のあと、傷ついた皮膚から感染したのだろう。二週間にわたり、高熱が続いた。その間に二度、危うくなった。

傷ついた皮膚を修復する力も、傷口から侵入した菌に抗う力も、日向の体にはほとんどなかった。

それでも生きているのは、主治医となった小栗(おぐり)が、寝る間もなく治療にあたり、晴海や侍女たちが必死に看病したおかげだ。
再生し始めたばかりの薄い皮膚を傷つけぬよう、水蛟(みずち)たちが毎日丁寧に体を洗い、薬を塗って回復を助けている。


そして、尼嶺の王族が継ぐ治癒の魔法。


小栗いわく、日向の身体力だけでは、到底乗り越えられないものを、未熟な魔力が補っている。
15年、いつ命を落としてもおかしくない中で、日向が生きながらえたのも、その力のおかげだという。


ーーー日向は確かに尼嶺の直系だった。


薄紫色の離宮に入ると、まっすぐ日向の寝室へ向かう。
点滴を換え終えた小栗が出ていくところだった。

「どうだ?」
「落ち着いておられますよ。今日は熱もなく、顔色もよろしい。」
「いつまで眠らせるつもりだ?」
「これについては、妃殿下が後ほど紫鷹殿下ともお話したいとおっしゃっておりましたよ。」
「母上が?」
「ええ、」

「…わかった、あとで伺がう。」

一礼して、小栗が去っていく。
入れ替わりに、日向のベッドへと歩んだ。

小さな体が横たわっている。
今は見慣れたが、つい数週間前まで、日向がこのベッドで眠ることはなかった。
目覚めた後は、どうであろう。また、あの箪笥の隠れ家に戻るのだろうか。

その時、俺を怖がるだろうか。

顔もまともに見たことがなかった。
今は眠りが深いから、前髪をかきわけてのぞき込んでも、逃げたりはしない。
だが、眠りが浅くなると、触れるものすべてを払いのけるように手が動いた。眠っていても震えることさえあった。

ムリもない、と今ならわかる。

食事をしていた日向が突然スプーンを落とし、洗面所へと動き出したとき、初めて服の下の体を見た。
背中に走る幾筋もの傷跡をみて、思考が固まった。

蛇口をひねった日向が、爪を立てて体を洗い、皮膚を破くのを見て、恐ろしかった。

声を上げて力ずくで止めることしかできなかったが、それが一層日向を怯えさせているのがわかった。


俺が追い詰めた。
結果、危うくなった。
救ったのは小栗であり、晴海であり、侍女たちであり、母上だ。


俺は何もできなかった。


それでも、薄い胸が上下するのをみて安堵する。

「……よかった、」

たとえ、目覚めたら俺を怖がったとしても。
もう二度と、食事をする姿をこの目で見ることができなくても。
あの水色の瞳を見られなくても。


生きてくれて、良かった。


つながった命への感謝と、祈りを込めて、日向の手を握り額に当てる。
白い手はあまりに小さい。
指はいくつか爪を失くした。
でも生きている。

目が覚めたら、もうこの手に触れることはきっとかなわないだろう。
それでもいい。
今は、この小さな王子が生きていることに感謝したい。


小さな手を布団の下へ戻し、水色の前髪をかき分けてもう一度寝顔を眺めた。




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