12 / 202
第壱部-Ⅱ:はじまりは確かに駒だった
11.紫鷹 祈り
しおりを挟む
「尼嶺(にれ)が?」
「うん、そう。どうもきな臭くって。」
「尼嶺かあ、やっぱりあそこはダメだね。従属する気はさらさらない。」
日陽乃帝国(にちようのていこく)の中枢・金剛宮の一室。
兄たる第一皇子・朱華(はねず)を囲むいつもの席に呼ばれた。
他の兄姉が揃う中、今年32になる年の離れた長兄は、最近末弟の俺を近くに座らせる。
その意図はまだ図りかねている。
意識を他所において座っていた俺は、尼嶺の名で、引き戻された。
父たる皇帝の名代として尼嶺(にれ)の統制を任されたのは朱華だ。
その役割に俺は無関係ではない。
「董子様がおられるから心配はしていないが、半色之宮(はしたいろのみや)は平気か。」
覚悟はしていたが、朱華に問われて束の間逡巡する。
「警備なら、つつがなく」
「日向王子に万が一のことがあれば、尼嶺にみすみすと反意の訳を与えることになる。何なら、近衛をつけようか?」
「いえ、ご心配には及びません。」
「そうか、」
長兄の意識は、すぐに俺を離れ安堵する。
もとより、離宮の警備を本気で案じている訳ではないだろう。半色乃宮の主人たる母上は、抜かりがない。
兄姉の中に、尼嶺と繋がっている者でもいるのだろうか。
いるだろうな。
7人の兄と7人の姉。
うち、母を同じくするのは、二人。
他国に嫁いだ二人は、今はいない。
皇帝と4人の異なる母の間に生まれた子どもらが、一枚岩かといえば、違う。
尼嶺が朱華の足枷になるとも知れない。
今のは牽制か。
おそらく正しい。
長兄がそれ以上何を問うこともなく、話は尼嶺の動向を共有する流れになった。
別段、俺が語ることもないし、話題を振られることもなく、定刻となり解散となった。
長兄の執務室を辞して、まっすぐ離宮へ帰る。
日向のことを問われなくてよかった。
あの小さな王子は、今はまだ深い眠りの中にいる。
きっかけとなった出来事のあと、傷ついた皮膚から感染したのだろう。二週間にわたり、高熱が続いた。その間に二度、危うくなった。
傷ついた皮膚を修復する力も、傷口から侵入した菌に抗う力も、日向の体にはほとんどなかった。
それでも生きているのは、主治医となった小栗(おぐり)が、寝る間もなく治療にあたり、晴海や侍女たちが必死に看病したおかげだ。
再生し始めたばかりの薄い皮膚を傷つけぬよう、水蛟(みずち)たちが毎日丁寧に体を洗い、薬を塗って回復を助けている。
そして、尼嶺の王族が継ぐ治癒の魔法。
小栗いわく、日向の身体力だけでは、到底乗り越えられないものを、未熟な魔力が補っている。
15年、いつ命を落としてもおかしくない中で、日向が生きながらえたのも、その力のおかげだという。
ーーー日向は確かに尼嶺の直系だった。
薄紫色の離宮に入ると、まっすぐ日向の寝室へ向かう。
点滴を換え終えた小栗が出ていくところだった。
「どうだ?」
「落ち着いておられますよ。今日は熱もなく、顔色もよろしい。」
「いつまで眠らせるつもりだ?」
「これについては、妃殿下が後ほど紫鷹殿下ともお話したいとおっしゃっておりましたよ。」
「母上が?」
「ええ、」
「…わかった、あとで伺がう。」
一礼して、小栗が去っていく。
入れ替わりに、日向のベッドへと歩んだ。
小さな体が横たわっている。
今は見慣れたが、つい数週間前まで、日向がこのベッドで眠ることはなかった。
目覚めた後は、どうであろう。また、あの箪笥の隠れ家に戻るのだろうか。
その時、俺を怖がるだろうか。
顔もまともに見たことがなかった。
今は眠りが深いから、前髪をかきわけてのぞき込んでも、逃げたりはしない。
だが、眠りが浅くなると、触れるものすべてを払いのけるように手が動いた。眠っていても震えることさえあった。
ムリもない、と今ならわかる。
食事をしていた日向が突然スプーンを落とし、洗面所へと動き出したとき、初めて服の下の体を見た。
背中に走る幾筋もの傷跡をみて、思考が固まった。
蛇口をひねった日向が、爪を立てて体を洗い、皮膚を破くのを見て、恐ろしかった。
声を上げて力ずくで止めることしかできなかったが、それが一層日向を怯えさせているのがわかった。
俺が追い詰めた。
結果、危うくなった。
救ったのは小栗であり、晴海であり、侍女たちであり、母上だ。
俺は何もできなかった。
それでも、薄い胸が上下するのをみて安堵する。
「……よかった、」
たとえ、目覚めたら俺を怖がったとしても。
もう二度と、食事をする姿をこの目で見ることができなくても。
あの水色の瞳を見られなくても。
生きてくれて、良かった。
つながった命への感謝と、祈りを込めて、日向の手を握り額に当てる。
白い手はあまりに小さい。
指はいくつか爪を失くした。
でも生きている。
目が覚めたら、もうこの手に触れることはきっとかなわないだろう。
それでもいい。
今は、この小さな王子が生きていることに感謝したい。
小さな手を布団の下へ戻し、水色の前髪をかき分けてもう一度寝顔を眺めた。
「うん、そう。どうもきな臭くって。」
「尼嶺かあ、やっぱりあそこはダメだね。従属する気はさらさらない。」
日陽乃帝国(にちようのていこく)の中枢・金剛宮の一室。
兄たる第一皇子・朱華(はねず)を囲むいつもの席に呼ばれた。
他の兄姉が揃う中、今年32になる年の離れた長兄は、最近末弟の俺を近くに座らせる。
その意図はまだ図りかねている。
意識を他所において座っていた俺は、尼嶺の名で、引き戻された。
父たる皇帝の名代として尼嶺(にれ)の統制を任されたのは朱華だ。
その役割に俺は無関係ではない。
「董子様がおられるから心配はしていないが、半色之宮(はしたいろのみや)は平気か。」
覚悟はしていたが、朱華に問われて束の間逡巡する。
「警備なら、つつがなく」
「日向王子に万が一のことがあれば、尼嶺にみすみすと反意の訳を与えることになる。何なら、近衛をつけようか?」
「いえ、ご心配には及びません。」
「そうか、」
長兄の意識は、すぐに俺を離れ安堵する。
もとより、離宮の警備を本気で案じている訳ではないだろう。半色乃宮の主人たる母上は、抜かりがない。
兄姉の中に、尼嶺と繋がっている者でもいるのだろうか。
いるだろうな。
7人の兄と7人の姉。
うち、母を同じくするのは、二人。
他国に嫁いだ二人は、今はいない。
皇帝と4人の異なる母の間に生まれた子どもらが、一枚岩かといえば、違う。
尼嶺が朱華の足枷になるとも知れない。
今のは牽制か。
おそらく正しい。
長兄がそれ以上何を問うこともなく、話は尼嶺の動向を共有する流れになった。
別段、俺が語ることもないし、話題を振られることもなく、定刻となり解散となった。
長兄の執務室を辞して、まっすぐ離宮へ帰る。
日向のことを問われなくてよかった。
あの小さな王子は、今はまだ深い眠りの中にいる。
きっかけとなった出来事のあと、傷ついた皮膚から感染したのだろう。二週間にわたり、高熱が続いた。その間に二度、危うくなった。
傷ついた皮膚を修復する力も、傷口から侵入した菌に抗う力も、日向の体にはほとんどなかった。
それでも生きているのは、主治医となった小栗(おぐり)が、寝る間もなく治療にあたり、晴海や侍女たちが必死に看病したおかげだ。
再生し始めたばかりの薄い皮膚を傷つけぬよう、水蛟(みずち)たちが毎日丁寧に体を洗い、薬を塗って回復を助けている。
そして、尼嶺の王族が継ぐ治癒の魔法。
小栗いわく、日向の身体力だけでは、到底乗り越えられないものを、未熟な魔力が補っている。
15年、いつ命を落としてもおかしくない中で、日向が生きながらえたのも、その力のおかげだという。
ーーー日向は確かに尼嶺の直系だった。
薄紫色の離宮に入ると、まっすぐ日向の寝室へ向かう。
点滴を換え終えた小栗が出ていくところだった。
「どうだ?」
「落ち着いておられますよ。今日は熱もなく、顔色もよろしい。」
「いつまで眠らせるつもりだ?」
「これについては、妃殿下が後ほど紫鷹殿下ともお話したいとおっしゃっておりましたよ。」
「母上が?」
「ええ、」
「…わかった、あとで伺がう。」
一礼して、小栗が去っていく。
入れ替わりに、日向のベッドへと歩んだ。
小さな体が横たわっている。
今は見慣れたが、つい数週間前まで、日向がこのベッドで眠ることはなかった。
目覚めた後は、どうであろう。また、あの箪笥の隠れ家に戻るのだろうか。
その時、俺を怖がるだろうか。
顔もまともに見たことがなかった。
今は眠りが深いから、前髪をかきわけてのぞき込んでも、逃げたりはしない。
だが、眠りが浅くなると、触れるものすべてを払いのけるように手が動いた。眠っていても震えることさえあった。
ムリもない、と今ならわかる。
食事をしていた日向が突然スプーンを落とし、洗面所へと動き出したとき、初めて服の下の体を見た。
背中に走る幾筋もの傷跡をみて、思考が固まった。
蛇口をひねった日向が、爪を立てて体を洗い、皮膚を破くのを見て、恐ろしかった。
声を上げて力ずくで止めることしかできなかったが、それが一層日向を怯えさせているのがわかった。
俺が追い詰めた。
結果、危うくなった。
救ったのは小栗であり、晴海であり、侍女たちであり、母上だ。
俺は何もできなかった。
それでも、薄い胸が上下するのをみて安堵する。
「……よかった、」
たとえ、目覚めたら俺を怖がったとしても。
もう二度と、食事をする姿をこの目で見ることができなくても。
あの水色の瞳を見られなくても。
生きてくれて、良かった。
つながった命への感謝と、祈りを込めて、日向の手を握り額に当てる。
白い手はあまりに小さい。
指はいくつか爪を失くした。
でも生きている。
目が覚めたら、もうこの手に触れることはきっとかなわないだろう。
それでもいい。
今は、この小さな王子が生きていることに感謝したい。
小さな手を布団の下へ戻し、水色の前髪をかき分けてもう一度寝顔を眺めた。
309
3/13 人物・用語一覧を追加しました。
お気に入りに追加
1,367
あなたにおすすめの小説

完結·助けた犬は騎士団長でした
禅
BL
母を亡くしたクレムは王都を見下ろす丘の森に一人で暮らしていた。
ある日、森の中で傷を負った犬を見つけて介抱する。犬との生活は穏やかで温かく、クレムの孤独を癒していった。
しかし、犬は突然いなくなり、ふたたび孤独な日々に寂しさを覚えていると、城から迎えが現れた。
強引に連れて行かれた王城でクレムの出生の秘密が明かされ……
※完結まで毎日投稿します
【完結】伴侶がいるので、溺愛ご遠慮いたします
*
BL
3歳のノィユが、カビの生えてないご飯を求めて結ばれることになったのは、北の最果ての領主のおじいちゃん……え、おじいちゃん……!?
しあわせの絶頂にいるのを知らない王子たちが吃驚して憐れんで溺愛してくれそうなのですが、結構です!
めちゃくちゃかっこよくて可愛い伴侶がいますので!
本編完結しました!
『もふもふ獣人転生』に遊びにゆく舞踏会編をはじめましたー!
他のお話を読まなくても大丈夫なようにお書きするので、気軽に楽しんでくださったら、とてもうれしいです。
宰相閣下の執愛は、平民の俺だけに向いている
飛鷹
BL
旧題:平民のはずの俺が、規格外の獣人に絡め取られて番になるまでの話
アホな貴族の両親から生まれた『俺』。色々あって、俺の身分は平民だけど、まぁそんな人生も悪くない。
無事に成長して、仕事に就くこともできたのに。
ここ最近、夢に魘されている。もう一ヶ月もの間、毎晩毎晩………。
朝起きたときには忘れてしまっている夢に疲弊している平民『レイ』と、彼を手に入れたくてウズウズしている獣人のお話。
連載の形にしていますが、攻め視点もUPするためなので、多分全2〜3話で完結予定です。
※6/20追記。
少しレイの過去と気持ちを追加したくて、『連載中』に戻しました。
今迄のお話で完結はしています。なので以降はレイの心情深堀の形となりますので、章を分けて表示します。
1話目はちょっと暗めですが………。
宜しかったらお付き合い下さいませ。
多分、10話前後で終わる予定。軽く読めるように、私としては1話ずつを短めにしております。
ストックが切れるまで、毎日更新予定です。

侯爵令息セドリックの憂鬱な日
めちゅう
BL
第二王子の婚約者候補侯爵令息セドリック・グランツはある日王子の婚約者が決定した事を聞いてしまう。しかし先に王子からお呼びがかかったのはもう一人の候補だった。候補落ちを確信し泣き腫らした次の日は憂鬱な気分で幕を開ける———
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
初投稿で拙い文章ですが楽しんでいただけますと幸いです。

【完結】「お前とは結婚できない」と言われたので出奔したら、なぜか追いかけられています
21時完結
恋愛
「すまない、リディア。お前とは結婚できない」
そう告げたのは、長年婚約者だった王太子エドワード殿下。
理由は、「本当に愛する女性ができたから」――つまり、私以外に好きな人ができたということ。
(まあ、そんな気はしてました)
社交界では目立たない私は、王太子にとってただの「義務」でしかなかったのだろう。
未練もないし、王宮に居続ける理由もない。
だから、婚約破棄されたその日に領地に引きこもるため出奔した。
これからは自由に静かに暮らそう!
そう思っていたのに――
「……なぜ、殿下がここに?」
「お前がいなくなって、ようやく気づいた。リディア、お前が必要だ」
婚約破棄を言い渡した本人が、なぜか私を追いかけてきた!?
さらに、冷酷な王国宰相や腹黒な公爵まで現れて、次々に私を手に入れようとしてくる。
「お前は王妃になるべき女性だ。逃がすわけがない」
「いいや、俺の妻になるべきだろう?」
「……私、ただ田舎で静かに暮らしたいだけなんですけど!!」
悪役令息の伴侶(予定)に転生しました
*
BL
攻略対象しか見えてない悪役令息の伴侶(予定)なんか、こっちからお断りだ! って思ったのに……! 前世の記憶がよみがえり、自らを反省しました。BLゲームの世界で推しに逢うために頑張りはじめた、名前も顔も身長もないモブの快進撃が始まる──! といいな!(笑)
悪役令息の七日間
リラックス@ピロー
BL
唐突に前世を思い出した俺、ユリシーズ=アディンソンは自分がスマホ配信アプリ"王宮の花〜神子は7色のバラに抱かれる〜"に登場する悪役だと気付く。しかし思い出すのが遅過ぎて、断罪イベントまで7日間しか残っていない。
気づいた時にはもう遅い、それでも足掻く悪役令息の話。【お知らせ:2024年1月18日書籍発売!】

俺は北国の王子の失脚を狙う悪の側近に転生したらしいが、寒いのは苦手なのでトンズラします
椿谷あずる
BL
ここはとある北の国。綺麗な金髪碧眼のイケメン王子様の側近に転生した俺は、どうやら彼を失脚させようと陰謀を張り巡らせていたらしい……。いやいや一切興味がないし!寒いところ嫌いだし!よし、やめよう!
こうして俺は逃亡することに決めた。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる