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第壱部-Ⅱ:はじまりは確かに駒だった

7.紫鷹 米だらけの赤い実

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「日向」

名を呼ぶと、少し間が空いて、観音開きの扉が片方ゆっくりと開く。
小さな手が僅かに見えたところで止まるが、焦らず待つ。
また少し間が空いて扉が動くと、水色の頭が出てきた。
顔は足元に向かって俯いているが、長い前髪の向こう側でちらりとこちらを見る気配がする。


「日向、ご飯だ。」


もう一度声をかけると、ゆっくりと全身を巣穴から出して、扉の前に置かれたクッションへと座る。
安全域から離れ難いのだろう。開かれた扉が閉じないように背中は扉に預けて決して離れない。
それでも目の前に置かれた小さなテーブルに食事を出してやれば、躊躇うことなく手をつけるようになった。


まあ上出来だろうか。


下手くそな手つきでスプーンを扱う日向を眺めて思う。




ここまで3ヶ月。
根気のいる戦いだった。






箪笥の1番下の扉に体を小さくして入り込んだ姿を見つけてから、その安全域を侵さなぬよう気を配り、徐々に警戒心を解いていった。

部屋に立ち入るのは、時間を決めて最小限。
決して声や態度で威圧しないよう、館中の者が心がけた。
初めの一週間、日向が巣穴を出るのは、排泄のためのわずかな時間と、扉の前に置いた食事を中へ取り込む一瞬だけだった。

翌週には人が訪れる時間を把握できたのだろう。
人がいない時間に時折、巣穴の扉を開けて窓を眺めているようだった。
それに気づいた母上が窓を開けたが、巣穴を出て窓辺に立つようになるまでには一月かかった。


だがそれからは、「掃除をしていると扉を開けてのぞいているようだ」とか、「歌を歌うと扉の向こうで小さく真似をするんだ」とか、「アオバズクの真似をしている声が聞こえた」とかいう話が頻繁に聞かれるようになった。

掃除を終えた侍女たちが部屋を出た後、巣穴を出て扉に耳を当てるようになったのは一月半経った頃だったか。



朝夕の食事を与えるのは俺の役目だった。
どんな獣も餌を与える者に、1番に懐く。

だが、食事を持って扉の前を訪れても、ひっそりと息を潜め、こちらを伺う気配を感じるばかりだった。
食事も同じ体格の子どもの半分しか食べない。



焦れた、というのが正直なところか。
他の者へ気を許しているように見えたのもつまらなかった。
俺は一度も扉を開ける気配を感じたことがないし、歌真似もアオバズクの真似も聞いていない。



まもなく2ヶ月という頃に、食事を置かず、名を呼んだ。



明らかに息を呑んだ気配がしたが、それ以上動かない。
焦る必要はないと頭では分かっていた。だが、その日は宮城で腹の立つことが続いたせいもあって、平静ではなかった気がする。


『日向、おいで、ご飯だ』

もう一度呼ぶと、先ほどとは異なる気配が返ってきた。
そわそわと身じろぎする気配に、迷っているのだろうと思った。
しばらく時間を置くが、気配は変わらない。
だから、できる限り優しく聞こえるようにもう一度名を呼んだ。

『日向、』

息を呑み、動きが止まる気配がする。
ああ、これは無理かと思った。
けれど次の瞬間、扉がわずかに動いた気がした。

いや、確かに動いた。
扉に手を当て、迷っている。
焦るな、待て。

久々に何かを期待するワクワクとした感情が湧き起こるのを感じた。
さあ、出て来い、と。
けれど悟られれば、あの子どもは巣穴へと返ってしまうだろうことも分かっていた。
だから、待った。


片方の扉が開き、止まる。
隙間から白い小さな右手が見えた。
プルプルと震えている。


それでも少し間をおいて右足が出る。
また少し間を置いて、水色の頭が出てきた。


小さく小刻みに全身が震えているのが一目瞭然だった。


呼吸が荒い。
それを抑え込もうとしている。
その小さな体で。

恐怖を押し殺そうとしていた。



『もういい、』

反射的に頭を抑えようとしたが、まずいと思い直し、軽く触れた。
触れた瞬間に日向の小さな肩が跳ねたが、離そうした手に、擦り寄るような感覚を感じた。

思わず『偉かったな。』とその頭を撫でると、逃げなかった。
食事を差し出せば、薄っぺらい腹が鳴った。小さな体に見合わない大きな音に、思わず笑った。

日向は驚くが逃げない。
食事を差し出せば、震える手でそれを取った。



俺の手から食事を食べた!



あの瞬間の達成感はいいものだった。







「慌てなくていい、日向」

スプーンを使うのに焦れて、素手で食べ始めた日向に声をかける。
最近の日向は巣穴を出て、俺の目の前で食事を食べる。

一日に2回、朝と夕。
最初こそ体半分だけだったのが、両足を床に下ろすようになり、クッションとテーブルを用意してからは、そこへ座るようになった。次は椅子に座らせたい。
昼は母上や侍女たちが声をかけても巣穴を出ないという。
だが今は、俺の目の前であぐあぐと一生懸命に咀嚼しながら、必死に食事をする日向がいる。

テーブルマナーはいただけないが、これを躾けるのはまだ少し先だろう。

急いてはいつまた巣穴に閉じ籠るか分かったものではない。
それよりもボロボロと食事をこぼして汚れた服が気になった。ボサボサと伸びっぱなしの髪も気になる。臭いにも目を瞑ってきたが、限界だろう。



とりあえず俺は今、こいつを風呂に入れたくて仕方がない。



服は扉の前に置いておけば着替える。着替えないことの方が多いが。
だが、風呂はいくら説明しても入らなかった。理解しているのか、していないのかすら分からない。
なんせ、まだ一度も言葉を話したことはない。扉の向こうで小さく声を出すことはあるから、話せないわけではないだろう。



さて、どうやって風呂へ入れるか。



離宮へ来たばかりの頃に、吐いて巣穴を汚したことがある。
流石に放っておけず、晴美が強制的に眠らせた。
その隙に体と巣穴を洗ったが、意識のない間も人に触れられるのを嫌がったという。
目を覚ましてからは、巣穴の匂いが変わったことに気づいたのだろう。三日目に意識を失うまで巣穴を出ることも、眠ることも、食事をとることもしなかった。

いつも超然とした晴海が、顔色を真っ白にして部屋の前に立つ姿をはじめて見た。

あれは二度とやらん。





「…は……?」

そんなことを真剣に考えていると、目の前に赤い実が表れた。

何なんだ。
嘘だろう。

水色の目が長い前髪の間からこちらを見ている。
視線を合わせようとはしないが、確かに俺を見ている。


なんだその赤い身は。
それは、お前の食事だろう。


「俺に、か」

うん。


小さく頷いたように見えた。
食事の間に、どうしたらそこまで汚れるのかと問いたくなるほど汚れた、米粒だらけの手。
その手で握られた赤い身を、俺に食べろというのか。


思いもよらない出来事に、色々な感情が錯誤する。


だが、これを断る選択肢はないのだろう。


こちらを見る目が、何かを待っている。
小さな手がプルプルと震え出した。
水色の瞳がゆらゆら揺れ出す。


本当に断る選択肢が、ない。



「もらおう、」

瞬間、視線が合った。
水色の目が一瞬だけ真っ直ぐに俺を見た。
それに囚われている間に、赤い身が口に押し込まれた。

部屋の扉の向こうで、母上や藤夜、使用人たちが声にならない歓声を上げたのがうるさい。


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