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破局への転調

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 五月も半ばになると、庭のバラはほぼ満開になる。
 白、クリーム色、ピンク、紫――青空を背景に母が丹精している花々に彩られ、遠くからでも家全体が華やいで見えた。
 土曜日、千晶が働く内科クリニックの受付は午後一時までだ。気候がいいせいか患者も少なく、今日は残業せずに職場を出ることができた。

「ああ、いいお天気」

 千晶は大きく伸びをして、家路を急ぐ。職場の近くで順が好きなアイスクリームを買ったから、早く食べさせてやりたかったのだ。

(そういえばチャオチャオのジェラート、すごくおいしかったな)

 ジェラートマエストロのジェラテリア、ハイブランドばかりが軒を並べるきらびやかなショッピングモール、美術館のように端正な『メイプルパーク・メディカルプラザ』、そして秋の日差しの中で微笑んでいた優しいアンジェロ――色づき始めた楓の木々が立ち並ぶメイプルパークビレッジで過ごした日々は、もう何年も前のように思える。
 だが千晶が健診センターを辞め、順と共に東京の郊外にある実家に戻ってから、まだ数ヵ月しかたっていなかった。
 辞職の理由は、うつ病気味の母を介護するというものだった。しかし実際にはすでに庭仕事に精を出せるほど回復していて、持病がある父親もそれなりに元気だ。むしろ参っていたのは千晶自身だった。
 メイプルパークにいれば、いずれ帰国したアンジェロと出くわすかもしれず、気持ちも揺らいでしまう。彼を思いきるには、あの美しい街を離れるしかなかったのだ。
 幸いすぐに就職が決まり、順も新しい保育園に慣れてくれた。
 仕事の傍ら、母と手分けして家事をしながら、静かに日々を重ねていく――そうしていれば心の傷も癒え、失った恋に涙することもなくなると、千晶は自分に言い聞かせていた。

「ちあちゃん、きっともうすぐ帰ってくるよ」

 ちょうど家の前まで来た時、順の声が聞こえてきた。誰と話しているのか、いつになくはしゃいでいて、それに重なるように父や母の笑い声もする。
 何も聞いていなかったけれど、来客でもあったのだろうか?

「ねえ、お外で待とうよ」
「……順?」

 千晶が声をかけた時、笑顔の順が門から飛び出してきた。

「あ、ちあちゃん! お帰りなさい! お客さんだよ」

 続いて長身の青年が姿を見せた。

「チャオ、千晶」

 最後に見た時より少しやせて、髪も伸びていたが、そこに立っていたのはまぎれもなくアンジェロだった。
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