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恋愛エチュード

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 それから千晶の訴えを受け入れ、毎朝のアンジェロの差し入れはなくなったが、二人は週末ごとに会い続けた。平日でも都合が合えば仕事の後で待ち合わせることもあったし、互いの家も行き来するようになった。

 ――でも三嶋さん、恋愛と結婚は違う。

 もちろん西村のメッセージははっきり伝わっていたし、その懸念も理解できた。バックグラウンドが違い過ぎる千晶が、彼の妻になることは難し過ぎる。どうせ別れるのなら、確かに早い方がよかった。
 千晶にもまた順という甥がいるのだ。純粋に彼がかわいいし、自分が預かることで生じる責任も強く感じている。もし西村の立場に立てば、きっと同じような助言をするだろう。
 それでも今は、一秒でも長くアンジェロのそばにいたいと思った。
 本来なら出会うはずもない雲の上の相手――ずっと夢を見ているように感じていた彼との関係が、別離を意識したことで急に現実味を帯びたのだ。ある意味、皮肉な話だった。

(だって……絶対に結婚はありえないもの)

 現に西村も二人が付き合うこと自体には反対していなかった。それにもともとアンジェロは来月から、半年間の演奏旅行に行くことが決まっている。
 彼からは想いを打ち明けられたし、その誠実さを疑ってもいない。とはいえ、千晶はプロポーズされたわけではなかった。

(そんな関係、自然消滅するに決まってる)

 西村はアンジェロを恋愛初心者と評したけれど、六カ月も世界中を回っていれば、出会いはたくさんあるだろう。あれほどすてきなアンジェロがフリーのまま放っておかれるわけがないし、平凡な千晶のことなどやがて忘れてしまうはずだ。
 日本に来て自分と出会い、恋をしたことで、おそらく男としての自信もついただろう。
 きっとアンジェロはどこかでお似合いの結婚相手を見つける。そして幸福な家庭を築き、ピアニストとしてさらに成熟していくはずだ。結局それが一番いいのだ、おそらく千晶にとっても。
 だからアンジェロが出発するまでは、そばにいると決めた。
 彼の笑顔を見て、その声を聞いて、できるだけすてきな思い出を作る。そうすれば、いずれ訪れる孤独な時間もやり過ごすことができそうな気がしたのだ。
 もっともデートにはいつも順が一緒に来るから、恋人同士としての進展はほとんどなかったけれど。
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