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恋愛エチュード

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「あなたはとてもいい看護師さんね。採血が上手だし、説明も丁寧。何より優しくて、感じがいい。患者として安心できるわ」

 その日のランチタイム。千晶はメディカルプラザのレストランで、西村と向かい合っていた。
 明るく広々とした店内は南欧風のしゃれた内装で、大きな窓から青空が見えた。監修しているのは、メイプルパークビレッジにある五つ星ホテル『ホテル・ロマンツァ』の総料理長で、雰囲気もメニューもとても病院の施設のものとは思えない。
 テーブルに置かれた有機野菜のパスタも彩り豊かでおいしそうだが、千晶はなかなかフォークを取り上げる気になれなかった。

「どうも……ありがとうございます」

 西村は来月から始まるアンジェロのツァーに帯同するので、メディカルチェックに来たという。健診は滞りなく終わり、その流れでランチに誘われたのだが、多忙そうな彼女がのんびり世間話をするとは思えなかった。
 現にオフだというのに、アンジェロは自宅での打ち合わせを済ませてから、雑誌の撮影と取材に出かけたと聞かされた。マネージャーなら本来は同行するはずだが、そうせずにここにいるのは――。

「ねえ、三嶋さん」

 西村はくつろいだ様子で白ワインを口に含むと、にっこり笑った。
 日焼けした肌に施されたメイクは濃い目だが、彼女にはよく似合う。ラフなジャケットとメンズライクなシルバーのアクセサリーもハイブランドのものだろう。
 どんな場でも物怖じすることなく、交渉ごとにも長けていそうなのに、今日の西村はなぜだか少し弱々しく見えた。

「あなたはアンジェロから聞かされたとおりの、すてきな女性だわ。あの子が夢中になるのも無理はないと思う」
「い、いえ、私はそんな――」

 とっさに否定しようとした千晶を制し、西村がぽつりと言った。

「あの子、音が変わったの」
「音?」
「前はもっと硬質だった。クリスタルみたいに濁りがなくて、本当にきれいだったけど、少し頑なというか……でも、今は違う。演奏に対する真摯さは変わっていないけど、いい意味で余裕ができて、まろやかさが出てきたみたい」

 千晶を見る表情はにこやかだが、どこか遠くを見ているようでもあり、かすかに距離を感じさせる。
 アンジェロは特別なピアニストだ。本当に音色が変わったのであれば、西村の立場としていろいろ思うこともあるのだろう。

「それによく笑うようになった。恋ってすごいわね。あなたのおかげ……なのかしら?」
「そ、そんなはずないです。だって私たち、知り合ったばかりですよ」
「ああ、誤解しないで。私は感謝しているの。いいお付き合いだと思っているし、二人とも大人だもの。横から口出しすることじゃないでしょ?」

 いったいどう答えればいいのだろう? 千晶はうろたえて、視線を落とした。
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