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ずっと隣にいられたら

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「ううん、大丈夫。僕はすぐ失礼するから」

 本当は彼にシャワーを浴びてもらい、新しい着替えを出して、朝食も食べてもらいたかった。このまま帰すのは申しわけないと思ったし、それ以上に千晶自身がもっと彼と一緒に過ごしたかったのだ。

(もう少しちゃんと話してみたいけど)

 アンジェロが目の前にいるのだから、キスしたことも、「ティ・アモ(好きだ)」と言ってもらったこともやはり現実なのだろう。
 だが昨日の千晶は予想外の事態に呆然としたまま、ずっとふわふわしていた。本来は遠い存在のアンジェロがそばにいてくれるなら、ちゃんと落ち着いた状態で接したかった。

(だって、ああいうことって……けっこうその場の勢いだったり、軽いノリだったりすることもあるし……彼、半分は外国人だし)

 しかし何の用意もないのに引き留めても、お互い困るだけだ。

「じゃあ、せめて顔だけでも洗って。今、タオルと歯ブラシを出すから」
「グラッツェ。助かるよ」

 アンジェロが隣にいる順を気遣いながら立ち上がると、順もソファから飛び下りた。

「僕も一緒に歯みがきする!」
「あ、順、ちょっと」

 しかし千晶が引き止めるより早く、アンジェロは笑顔で頷き、順と手をつないでしまった。

「洗面所はどこ?」
「こっちだよ。早く!」

 笑いながら手を引っ張られていたアンジェロが、ふと足を止めた。

「待って、順」

 ドアを開けたままだった寝室から、ちょうど音楽が流れてきたのだ。
 瞬間、アンジェロの表情が変わった。

「これ――」

 ショパンのエチュード、『エオリアン・ハープ』――千晶がアラーム用にセットしているもので、もちろん奏者はアンジェロ本人だった。

「エチュードだね。僕のピアノ?」
「え、ええ、そうなの。目覚ましにしているんだけど」

 急に気まずくなって、千晶は視線を泳がせた。もともとファンであることはすでに彼も知っている。とはいえ、熱心過ぎるのも逆に引かれてしまうと思ったのだ。
 一方のアンジェロはしばらく立ち竦んでいたかと思うと、ふいに目元をこすった。

(えっ?)

 千晶は思わず目を疑った。彼の白い頬に涙が伝い始めたからだ。

「ご、ごめん、泣いたりして」

 それを見ていた順が心配そうに声をかける。

「どうしたの、アンジェロ? どこか痛いの?」
「ううん、違うよ。うれしかったんだ。あ、潤にはわからないか、うれしくて泣くなんて」
「わかるよ。前に僕の入園式の時に、おばあちゃん泣いてたもん。僕が大きくなって、うれしかったんだって」
「そっか。順はすごいね」
「でも、アンジェロは何がそんなにうれしいの?」
「千晶が僕のピアノを好きでいてくれたから」

 アンジェロは涙を拭うと、再び微笑んだ。
 その視線が、コンパクトなオーディオセットが置いてあるサイドボードに向けられる。

「ほら、CDもたくさんあるし……あれ? これは順?」

 アンジェロが指差したのはシルバーのフォトフレームだった。まだ赤ん坊の順を抱いた姉の美雪と義兄の昭――飾られているのは、いかにも幸福そうな三人の写真だ。

「……うん」

 順はぎこちなく頷いた。
 彼が答えるまでの、ほんの数秒の間――アンジェロはそれに気づいたのだろう。すぐに小さな身体を抱き上げ、「挨拶するね」と片目をつぶった。

「ボンジョルノ、順のマンマとパパ。僕はアンジェロ・潤・デルツィーノです。ピアチェーレ。どうぞよろしく」

 アンジェロが頭を下げるのに合わせ、抱かれている順も頭を下げる。
 そんな微笑ましいやり取りを見ながら、千晶は何も言えないまま立ち竦んでいた。二人にかける言葉が見つからないまま、視界が涙でぼやけていく。
 アンジェロについては、正直まだ知らないことの方が多い。それでも彼が「好きだ」と言ってくれたなら、その言葉は信じていい気がした。
 少なくともノリや勢いでキスする人ではないと思えたし、そうしたのはむしろ自分の方だったかもしれない。

「ちあちゃん、アンジェロのタオルは?」
「あ、はあい」

 順の声でわれに返り、千晶は慌ただしく動き始めた。
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