上 下
17 / 50
天空のノクターン

1

しおりを挟む
 開け放した窓から、透き通った音色が十月の夜気に溶けていく。
 初日の営業を大盛況で終えた『ジェラテリア・チャオチャオ』では、オープニングパーティーが開かれていた。開店祝いの花で埋め尽くされた二階のカフェには大勢の人々が集まり、その中には千晶と順もいる。
 誰もが言葉もなく聴き入っているのは、アンジェロのピアノだった。パーティーのゲストとして、お祝いに演奏を披露しているのだ。
 アンジェロは、誰もが知るような超一流のピアニストだ。
 とはいえ、そこに流れている空気はリサイタル会場のようなかしこまったものではなく、みながシャンパンやジュースを片手にくつろいでいる。おしゃべりよりも、彼の演奏を心から楽しんでいるのだった。
 曲目はたまたまなのかショパンが多かったが、どれもよく知られていて美しいものばかりだ。千晶がいつも聴いているため、幼い順もおとなしく座っていて、ときどき目を輝かせて見上げてきた。
 生で聴くアンジェロの演奏は本当にすばらしく、千晶は何度も胸が熱くなった。その音色はCDよりずっと柔らかく、心の奥まで染み入ってくる。

(指先から、光が零れているみたい)

 アンジェロのことを、いや、そもそもクラシックのすばらしさを、千晶に教えてくれたのは義兄の昭だった。

(聴かせたかったな……昭さんにも)

 本当は「義兄さん」と呼ばなければいけないのに、つい名前を言ってしまう千晶に、昭はいつも「なんだい、ちあちゃん」と笑顔で答えてくれた。だから今、順も同じように呼ぶのだろう。

 ――アンジェロ・潤・デルツィーノは最高のピアニストだって言っただろ、ちあちゃん?

 もし彼がこの場にいたら、そう言って得意げにウィンクしてみせただろう。そんなふうにキザな仕草をしても、昭にはよく似合っていた。
 内気で恥ずかしがり屋の千晶は、なかなか彼とうちとけることができなかった。
 本当は親しくなりたいのに、いざとなると何を話していいのかわからず、つい距離を置いてしまう。そんな時も彼は何かと声をかけてくれて、外交的な姉とわけへだてなく接してくれた。
 昭はときどきお気に入りの本やCDを貸してくれたし、映画やコンサートにも誘ってくれた。そうやってたくさんの美しいものを紹介し、千晶の世界を少しずつ広げてくれたのだ。
 もし昭がいなければ、千晶はクラシックを聴くこともなく、アンジェロの存在も知らなかったかもしれない。

(この音が天国まで届けばいいのに)

 大好きな、いや、本当は初恋の相手で、ずっと慕い続けていた昭は、姉の美雪の夫だ。
 けれど千晶は彼への想いを、本人にはもちろん、誰にも秘密にしていたのだった。
しおりを挟む

処理中です...