Appassionato！ 年下ピアニストは蜜愛セレナーデを奏でる

不機嫌天使の降臨

3

　そう言いながらも、眉間の縦ジワは消えていない。やはり困っているようにしか見えなかった。
　それでも千晶が看護師とわかったせいだろうか。青年の肩から少し力が抜けたような気がした。
　身長は百九十近くあるようで、相手から見下ろされる形になったが、雰囲気が柔らかいので、威圧感はまったくない。むしろ心細そうな姿に、ますます手を差し伸べたくなった。

「もし私でお役に立てるようでしたら、遠慮なくおっしゃってください」
「あ、あの、それじゃ、け、健診センターのことでお訊きしたいんですが」
「健診センターですか？　どのようなことでしょう？」

　まさに自分の担当科だ。しかし健康診断に来たのなら、それほど不安がる必要はないように思えるのだが――。

「実は今日、健康診断の予約をしているんですけど……ここって、注射うまいですか？」
「注射？」
「き、嫌いなんです……すごく」

　相手が耳まで真っ赤になるのを見て、千晶は大きく頷いてみせた。

「大丈夫ですよ。こちらのスタッフはとても優秀ですから、どうぞご安心ください」
「ほんとに？」

　身体は大きいのに、子どもみたいに素直な反応が微笑ましい。初対面でも緊張せずに話せるのはそのためだろうか？　
　なんだか順と話しているみたいで、千晶は思わず微笑んだ。

「ええ、本当です。注射というか、ご心配されているのは採血ですよね。私も健診センターで働いているので知っていますが、看護師はみな採血が得意な者ばかりです」
「……そうなんだ」

　笑顔を見せたのがよかったのか、青年は安心したようにひとつ息を吐いた。サングラスで目元は見えないが、少なくとも眉間の縦ジワはなくなっている。

「あなたも健診センターの看護師さんなんですね？」
「ええ、そうです。センターまでご案内しましょうか？」
「いえ、大丈夫です。ずっと前にトラブルがあって心配だったんですけど、もう平気です。グラッツェ、シニョリーナ」
「グラッツェ？　あ、いえ、どういたしまして」

　サンキューでも、メルシーでもないひとことに、千晶は一瞬固まってしまう。感謝されたのはわかったが――。

（どこの言葉だっけ？）

　それがイタリア語であることを思い出した時には、青年は背を向けて歩き始めていた。とりあえず不安は解消したらしい。

（イタリア人……なの？）

　続いて歩き出そうとすると、青年が足を止めて振り向いた。

「ありがとう、お嬢さん！」

　わずかな戸惑いを察したのか、わざわざ言い直してくれたのだ。その律義さがうれしくて、千晶も笑顔で会釈する。
　他愛ない会話をしただけなのに、彼と会ったおかげで、なんとなく今日がいい日になりそうな気がした。お嬢さんと呼ばれるにはそろそろ気恥ずかしい年齢だし、そう言ってくれた相手は自分よりずっと若そうだったけれど。