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再会の東京

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「こんにちはぁ」
「いらっしゃいま――」

 入ってきたお客様を見た瞬間、私の全身から血の気が引いた。

「やあ、桐島さん」
「あ……」
「本当に久しぶりだね。覚えてる、僕のこと?」

 あれから何年もたって、髪型や雰囲気は少し変わっていた。それでもすぐにわかった。
 大柄で整った顔立ち。自信ありげな笑顔は以前のままだったから。

 田島先輩――あの夏の早朝、私を待ち伏せしていた人だ。

 なんとか折り合いをつけてきた恐怖と混乱が生々しくよみがえり、膝から力が抜けそうになる。
 それでも私は即座に笑みを浮かべてみせた。

「ご無沙汰しております、田島先、いえ、田島様」

 声が震えないようおなかに力を入れて、必死に相手と視線を合わせる。

「本当にお久しぶりです。本日はようこそ『エクセレント・ラウンジ』へ」
「へえ、もうすっかりプロだなあ。堂々としてるし……とてもきれいになって、見違えたよ」

 田島先輩は私たちの間に起きたことなどすっかり忘れてしまったみたいに、「今日はよろしく」とにこやかに頭を下げた。

「聞いてるよ。田島さん、すごく評判いいんだってね」
「恐れ入ります」

 外商からの紹介で、予約も社員名だったので、まさか彼がやってくるなんて思いもしなかった。もし田島先輩が来るとわかっていたら――。

(あっ!)

 今朝のできごとを思い出したのは、その時だ。

 ――頼む、亜美さん! 今日は仕事を休んでくれないか」

 突然現れた林太郎さんの言葉。
 まさか彼はこうなることを知っていたのだろうか?

 もちろん考え過ぎかもしれない。
 だが、わざわざ今日を選んで声をかけてきたことが気になった。なぜかはわからないものの、林太郎さんは田島先輩が来ると知っていたのかも――。

 とはいえ、今は接客中なのだ。私は気持ちを切り替え、田島先輩に声をかけた。

「あの、外商の矢野がまだのようですが」
「ああ、彼なら来ないよ。ここは予約だけしてもらったんだ。今は実家の方に行ってると思う」
「……さようでございますか」

 途端に、言いようのない不安に襲われた。何か見えないものに、じわじわ巻きつかれていくような嫌な感じ。

 今日はスタッフのひとりが遅番で、もうひとりは年休。あとのひとりは打ち合わせに出ていた。ちょうど林太郎さんがローマのサロンを訪れた時と似た状況だ。

 あの時も彼の強面ぶりに動揺したが、今みたいに怯えたり、不快感を覚えたりはしなかった。
 
 田島先輩とは、決定的な何かがあったわけではない。
 交際を迫られ、両腕をつかまれて、地面に押し倒され――そこまでで、なんとかことなきを得た。

 それでも私は何年も悪夢に悩まされるくらい傷ついた。今だって、少しずつ脈が速くなっているけれど。

「では、どうぞこちらへ」

 かなり動揺しているはずなのに、身体は勝手に動いた。
 たとえどんな相手であろうと、目の前にいるのは高砂百貨店を訪れてくださった大切なお客様だ。とにかくベストを尽くさなければ。

 私は田島先輩をサロンの中央にあるソファに案内し、ビバレッジのメニューを手渡した。

「田島様、お飲ものはいかがですか?」
「あ、じゃあ、アイスコーヒーくれる?」
「かしこまりました」

 いつもなら、この時点でお客様の様子をさりげなく観察する。服装や態度から、その日の接客プランをある程度組み立てるのだ。
 しかし気持ちが波立って、今日ばかりは無理だった。

 しかたがないので、よけいなことを考えずにサロン併設のキッチンに向かう。
 機械的におしぼりや焼き菓子がのった皿、氷をたっぷり入れたアイスコーヒーを用意したが、そこまでしても二十分もたっていなかった。

 田島先輩の予約は一時間半。

 遅番のスタッフはまだ来ないし、打ち合わせに出ているひとりもしばらく戻ってこないだろう。
 つまり私はここで、あと一時間以上、彼と二人きりで過ごすのだ。

(大丈夫……絶対、大丈夫)

 私は深呼吸しながら自分に言い聞かせ、グラスをのせたトレイを持った。

 プライベートサロンとはいえ、ここは百貨店の中だ。さらに田島先輩は外商からの紹介だから、それなりに信用もあるはずだった。

 過去にあんなことがあったとはいえ、まさかこの場でまた不埒な真似をするとは思えない。今はお互いにちゃんとした社会人なのだから。

 私は混乱と不安を無理やりなだめすかし、笑顔を作って、田島先輩の前に戻った。

「たいへんお待たせいたしました」
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