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葛藤の東京

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「頼む。このとおりだ!」

 俺は姿勢を正し、目の前にいる敬ちゃんに向かって、ほとんど直角になるほど腰を折った。

「お願いだから彼女の連絡先を教えてくれ!」
「よせって、林ちゃん。こっちこそ頼むよ。顔、上げてくれ」
「嫌だ。敬ちゃんが教えてくれるまで、このままでいる」
「ったく、わからんやつだな。頭に血が上っちまうぞ」

 子どものころからつるんできた幼なじみは遠慮というものを知らない。そして優男に見えるが、実は敬ちゃんは空手の有段者だ。

 俺は両肩をつかまれ、たちまち力ずくで上体を起こされた。

「そんなの無理に決まってるだろう。個人情報だぞ」
「無理を承知で頼んでいる!」
「だーかーらー俺には桐島の住所も電話番号も教えられないんだよ! だいたいあいつの家なんて知らないし」
「人事に訊けばわかるだろ? 副社長なんだから」
「本人に無断でそんなことはできない!」

 俺たちが言い合いをしているのは、高砂百貨店の副社長室――店舗の裏にあるビルの最上階で、柔らかな色調で整えられた広くて居心地のいい部屋だった。

 帰国して数日後、俺は悩みに悩んだ末に幼なじみである敬ちゃんのもとを訪れた。
 亜美が姿を消してしまった今、彼女と同窓で上司でもある彼なら、橋渡しをしてくれるのではないかと思ったからだ。

「林ちゃんの話を整理すると、桐島にふられたってことだろう? 連絡先も教えられていないんだし、キッパリあきらめろよ」
「あきらめられない!」

 俺の勢いに気圧されたのか、敬ちゃんは無言で眉を寄せた。

「俺を……待っていると、亜美さんは確かに言ってくれたんだ。プロポーズにも頷いてくれた」
「その展開がまず信じられないんだよ。数日しか一緒に過ごしてないだろうが」
「でも、彼女しかいないと思ったんだ」
「まあ、それはともかくスイスからローマに戻ったら、桐島はもう帰国してたわけだろ? 林ちゃんには何も言わず、連絡先も教えずに」
「何か……理由があったんだと思う。だから日本で改めて話をしようと思ったのに、高砂百貨店に来ても彼女はいないし、敬ちゃんは何も教えてくれないし」
「やれやれ。俺ならそんな状況で深追いはしないぞ」

 敬ちゃんはあきれたように肩を竦めながら、「だが」と続けた。

「こんな林ちゃんは初めて見た。いつもなら会話は単語だけで済ませてるくせに、長くしゃべることもあるんだな」

 楽しそうに俺をからかいながらも、その口調は優しかった。

「わざわざローマから電話してきて、あれこれ面倒な手配を頼んできたし……林ちゃんに頼みごとをされたのは、あの時が初めてだった」
「感謝している……本当に」

 敬ちゃんは小さくため息をつくと、「これはひとりごとだが」と呟いた。

「桐島は明日から出社する」
「け、敬ちゃん」
「あとは林ちゃんの判断に任せる。ただし、お前はそんなヤツじゃないと知っているが……たとえ思いどおりにことが運ばなくても、絶対に無理強いはするなよ」
「無理強い?」
「絶対に桐島を傷つけないでくれ」
「あ、あ、あ――」

 思いもしなかったひとことに、言葉がうまく出てこない。

 失恋なんて考えたくもないものの、だからといって彼女を追いつめるのはもっと嫌だ。まして傷つけるなんて論外だ。

「当たり前だろ!」

 俺が語気を強めると、敬ちゃんは安心したように頷いた。

「まあ、座れよ。コーヒーでも飲もう」

 どうやら何か話したいことがあるらしい。俺は言われるまま近くのソファに腰を下ろした。
 すると敬ちゃんはやたらおしゃれなコーヒーメーカーから、湯気の立つコーヒーを紙カップに注いでくれた。

「ほら」
「どうも」
「これから話すことも……俺のひとりごとだと思ってくれ。たぶん桐島は誰にも言ってないと思うが、お前には知っていてほしい」

 いつになく重苦しい声に、俺は思わず背筋を伸ばす。

「あいつが大学二年の時の話だ。当時はテニスのサークルに入っていて、俺はもう卒業してたけど、コーチとしてたまに呼ばれてたんだ。桐島は人見知りするし、目立つタイプじゃないが、かわいい子だったよ。男子の間では、けっこう人気もあった」
「う」

 俺の右頬がピクリと引きつった。「人気」という単語につい反応してしまい、慌てて「落ち着け」と自分に言い聞かせる。
 問題は、そこじゃない。
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