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誘惑のローマ
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その晩、キッチンに立ったパオラさんはいつも以上にはりきっていた。
早口のイタリア語でずっとしゃべり続けていて、俺も亜美さんもすっかり圧倒されてしまったくらいだ。
だが、そのおかげで俺はかなり気が楽になった。あれこれとグルグル考えるどころではなくなったからだ。
「林太郎さん、今夜はパオラのマンマの得意料理を作ってくれると言っています。チキンとパプリカの煮込み料理と、ズッキーニの花のフライですって。私も前にごちそうになりましたけど、とてもおいしかったですよ」
パオラさんにつられたのか、亜美さんも少しはしゃいでいる。
俺自身はそもそもズッキーニが何かも知らないが、彼女が目を輝かせているので、なんだか楽しみになってきた。
「じゃあ、林太郎さんはリビングルームで待っていてくださいね。私もパオラを手伝いますから、用意ができたらお呼びします」
亜美さんが水色のエプロンをつけて、にっこり笑う。途端に俺の心臓が大きく跳ね上がった。
(うっ!)
初めて見るその恰好に、動悸がどんどん速くなっていく。
(か、かわい過ぎだろ)
反則だと思った。亜実さんから視線を外すことができないのだ。
今すぐにでも読みたい文献があったはずなのに、急にどうでもよくなった。
それより俺は彼女がパオラさんと仲よくやり取りするところや、包丁で器用に野菜の皮を剥くところ、そんな何気ない姿をもっと見ていたい。
「て、手伝ってもいいか?」
「林太郎さんが?」
「そういうこと……やったことないから」
「あ、ええ、もちろん。パオラが喜びます。あ、エプロンを持ってこなきゃ」
数分後、俺は青いエプロンをつけて手を洗っていた。
「まず卵を割ってほしいそうですけど……できますか?」
卵が入ったボウルを手渡され、亜美さんとパオラさんから心配そうに見つめられる。どうやら信用されていないらしい。
「も、もちろん」
少し緊張しながら、卵をつかんだ時だった
――林太郎、卵を割る時は真ん中のあたりを硬いところにぶつけるのよ。
ふいに、亡くなった母の言葉を思い出した。
――ヒビが入ったら、そこに両方の親指を入れるようにして、ゆっくり開くの。そうすると、きれいに割れるからね。
すっかり忘れていたが、子どものころの俺はたまに母の手伝いをしていたのだ。洗濯物を畳んだり、皿を洗ったり、今みたいに料理の準備をしたりして。
(よし!)
母の言葉どおりに手を動かすと、卵がうまく割れて、中身がツルンとボウルに落ちた。
「ブラーボ!」
パオラさんが歓声を上げ、亜美さんも手を叩いてくれた。
「さあ、どうぞ。パオラが、みんなで飲みながら作りましょうって」
今度は赤ワインの入ったグラスを渡され、俺たちは笑いながら乾杯した。
そういえば子どものころ、俺は今よりよくしゃべっていた。こんなににぎやかな家庭ではなかったが、大好きな母のそばでしょっちゅう笑っていたのだ。
(もしかして……結婚生活って、こんな感じなのか?)
まるで柔らかな光に包まれているように、あたたかくて優しいひととき。
母が亡くなってから、父は有能な家政婦さんを雇った。手を尽くして俺を育ててくれたことはよくわかっている。だが多忙な人だから、どうしても顔を合わせる時間は少なかった、
当然こんなふうに打ち解け合ったひとときを過ごすのは、本当に久しぶりだった。
「林太郎さん、そろそろテーブルにお皿を並べてくれますか?」
「あ、うん。わかった」
亜美さんに笑いかけられて、胸の奥がザワザワと騒ぎだす。
(この時間が続けばいいのに、これからもずっと)
その瞬間、俺の身体に電流が走った気がした。
(俺は――)
自分が本当は誰といたいのか、いったい何をしたいのか――いや、今から何をするべきなのか、ようやく理解できたのだった。
早口のイタリア語でずっとしゃべり続けていて、俺も亜美さんもすっかり圧倒されてしまったくらいだ。
だが、そのおかげで俺はかなり気が楽になった。あれこれとグルグル考えるどころではなくなったからだ。
「林太郎さん、今夜はパオラのマンマの得意料理を作ってくれると言っています。チキンとパプリカの煮込み料理と、ズッキーニの花のフライですって。私も前にごちそうになりましたけど、とてもおいしかったですよ」
パオラさんにつられたのか、亜美さんも少しはしゃいでいる。
俺自身はそもそもズッキーニが何かも知らないが、彼女が目を輝かせているので、なんだか楽しみになってきた。
「じゃあ、林太郎さんはリビングルームで待っていてくださいね。私もパオラを手伝いますから、用意ができたらお呼びします」
亜美さんが水色のエプロンをつけて、にっこり笑う。途端に俺の心臓が大きく跳ね上がった。
(うっ!)
初めて見るその恰好に、動悸がどんどん速くなっていく。
(か、かわい過ぎだろ)
反則だと思った。亜実さんから視線を外すことができないのだ。
今すぐにでも読みたい文献があったはずなのに、急にどうでもよくなった。
それより俺は彼女がパオラさんと仲よくやり取りするところや、包丁で器用に野菜の皮を剥くところ、そんな何気ない姿をもっと見ていたい。
「て、手伝ってもいいか?」
「林太郎さんが?」
「そういうこと……やったことないから」
「あ、ええ、もちろん。パオラが喜びます。あ、エプロンを持ってこなきゃ」
数分後、俺は青いエプロンをつけて手を洗っていた。
「まず卵を割ってほしいそうですけど……できますか?」
卵が入ったボウルを手渡され、亜美さんとパオラさんから心配そうに見つめられる。どうやら信用されていないらしい。
「も、もちろん」
少し緊張しながら、卵をつかんだ時だった
――林太郎、卵を割る時は真ん中のあたりを硬いところにぶつけるのよ。
ふいに、亡くなった母の言葉を思い出した。
――ヒビが入ったら、そこに両方の親指を入れるようにして、ゆっくり開くの。そうすると、きれいに割れるからね。
すっかり忘れていたが、子どものころの俺はたまに母の手伝いをしていたのだ。洗濯物を畳んだり、皿を洗ったり、今みたいに料理の準備をしたりして。
(よし!)
母の言葉どおりに手を動かすと、卵がうまく割れて、中身がツルンとボウルに落ちた。
「ブラーボ!」
パオラさんが歓声を上げ、亜美さんも手を叩いてくれた。
「さあ、どうぞ。パオラが、みんなで飲みながら作りましょうって」
今度は赤ワインの入ったグラスを渡され、俺たちは笑いながら乾杯した。
そういえば子どものころ、俺は今よりよくしゃべっていた。こんなににぎやかな家庭ではなかったが、大好きな母のそばでしょっちゅう笑っていたのだ。
(もしかして……結婚生活って、こんな感じなのか?)
まるで柔らかな光に包まれているように、あたたかくて優しいひととき。
母が亡くなってから、父は有能な家政婦さんを雇った。手を尽くして俺を育ててくれたことはよくわかっている。だが多忙な人だから、どうしても顔を合わせる時間は少なかった、
当然こんなふうに打ち解け合ったひとときを過ごすのは、本当に久しぶりだった。
「林太郎さん、そろそろテーブルにお皿を並べてくれますか?」
「あ、うん。わかった」
亜美さんに笑いかけられて、胸の奥がザワザワと騒ぎだす。
(この時間が続けばいいのに、これからもずっと)
その瞬間、俺の身体に電流が走った気がした。
(俺は――)
自分が本当は誰といたいのか、いったい何をしたいのか――いや、今から何をするべきなのか、ようやく理解できたのだった。
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