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わけありのローマ

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「あ、そうだ」

 東野様はよく眠っているようだが、冷房のせいで風邪を引かせてはいけない。
 私はテーブルにトレイを置き、チェストからブランケットを出した。

「う……ん」

 そっとブランケットをかけると、ソファにもたれている東野様は少し口角を上げた。
 もしかして笑ったのだろうか? なんだかとても気持ちよさそうだ。

 そんな様子につられて、私もつい微笑んでしまう。とんでもなく威圧感があるくせに、熟睡している姿は意外にあどけなく見えたのだ。

 ゲストカルテによると、年齢は私より六つ年上の三十三歳。

 やはり若々しさと恵まれた体型を生かし、なおかつ知的でポジティブな雰囲気を感じさせるコーディネートがいいだろう。
 一応ごくスタンダ―ドな服を用意しておいたが、彼の場合はもっと遊びがあってもいいかもしれない。なにしろ見た目が相当ハードボイルドだから。

 東野様の寝顔を見ながら、私が戦略を練り始めた時だ。

 リリリリリリリ!

 突然けたたましいアラーム音が部屋中に響き渡った。

「えっ?」

 私は慌てて周囲を見回す。その音源にはまったく心当たりがなかった。
 鳴り続けているのは非常ベルに似ているが、もう少し軽い音だ。たとえば目覚まし時計みたいな――。

 その時、ふいに東野様がソファから身を起こした。

「ひ、東野様?」
「どうも」

 東野様は目をこすりながら、テーブルに手を伸ばした。スマートフォンを操作し、鳴り続ける騒音を止める。

 私は急いでトレイを持つと、お茶を差し出した。

「お茶でございます、東野様。たいへんお待たせしてしまったようで申しわけございません」
「いや。七分間だけ寝ようと思って」

 お茶を飲みほすと、かけられていたブランケットに気づいたらしく、東野様はまた「どうも」と頭を下げた。外見は恐ろしげでも、意外に素直な青年のようだ。

 やはり喉が乾いていたらしく、続いてタンブラーも口に運ぶ。

 私は、そろそろ本題に入ってもいいころだと思った。

「では、ご依頼の件でございますが――」

 ところが次の瞬間、東野様は勢いよく立ち上がった。

「じゃ、俺はこれで」
「えっ? あ、あの、お話がまだ」
「でも敬ちゃんに言われたとおり、ここに顔は出しましたから」
「敬ちゃんって……ああ、高砂さんのことですね」
「ええ。明日にでも適当な服を、請求書と一緒にホテルに届けてください。サイズが合っていれば大丈夫だから」
「ですが、東野様」

 私は全力でかぶりを振った。
 全然大丈夫ではない。東野様は試着さえしていないのだ。

 確かにサイズが合えば問題はないかもしれない。しかし実際に着用した時のラインや丈、幅の具合など、微妙なところでまったく印象が変わるのが紳士服というものだ。
 このサロンでなら、オーダーメイドでなくても彼に最も似合う一着を探すのは可能だし、お見合いを成功させるためにも絶対そうするべきなのだ。

 けれども東野様はメガネをかけ、書類とスマートフォンをしまうと、伸びをしながら立ち上がった。そのままさっさと背を向けてしまう。

「どうも」

 いったん帰ると決めたお客様を止め置くすべはなかった。
 滞在時間はおよそ十五分。この『サローネ・エッチェレンテ』開設以来の最短記録だ。

「どうも……ありがとうございました。どうぞよい一日を」

 結局、仕事らしいことは何もできなかった。言葉もほとんど交わしていない。

(負けた……かも)

 私はなかば呆然としながら、広い背中を見送ったのだった。
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