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わけありのローマ
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「お待たせいたし――」
トレイを持って戻った時、私は脱力しそうになった。
(うそ……)
なんと肝心の東野様はソファに深々と身を預けて、すっかり眠り込んでいたのだ。
「……東野様?」
しっかり閉じたまぶた、規則正しい寝息。声をかけたくらいでは目を覚ましそうもない。揺さぶって起こそうかとも思ったが、私は伸ばしかけた手を引っ込めた。
テーブルの上には英文の書類とスマートフォン、さらにごつい黒縁メガネが載っている。読みかけのままで寝入ってしまったらしい。
きっとひどく疲れているのだろう。
東野様が働くスイスの製薬会社には著名な研究者が数多く在籍していて、国際的にも知名度が高い。
彼自身もそのひとりだというし、おそらく睡眠時間も削って研究にいそしんでいるのだろう。今は一週間のバカンス中であるにもかかわらず。
(お茶、冷めちゃう)
けれど私にとっては絶好のチャンスでもあった。東野様が眠っていれば、きつい視線を気にせずに、遠慮なくその姿を眺めることができるのだから。
グリーン系のチェックの半袖シャツと色の落ちたデニムは、明らかに若者向けの量販店『FC』こと『ファイン・クローゼット』のものだ。
履いているのはスポーツブランドのグレーのスニーカー。腕時計は実用的なラバー製のデジタルクロック。全部合わせても、一万五千円はしないだろう。
スタイルがいいのでそれなりに決まっているが、あくまで学生の格好だった。それもファッションに無関心な理系学生にありがちの。
(見た目はすごく怖いのに)
しかし次の瞬間、私は思わず声を上げてしまった。
「うわ」
よく見れば、シャツのボタンをひとつかけ違えている。しかも靴下は白とグレーで左右の色がそろっていない。
関心がないどころか、どうやら洋服は着られさえすればいいらしい。本当に、朝そのへんにあったものを身につけてきたのだろう。
(確かになかなかの難敵みたいね)
もちろんこれまでは、それでも大きな問題はなかっただろう。
だが、このローマでは東野様にとって運命をかけた数日間が控えている。今のままでは間違いなくNGだ。
それにおしゃれなミラノの人たちほどではないにしても、この格好ではローマっ子にだってダメ出しされてしまうだろう。
私は大学の先輩で、高砂百貨店の御曹司でもある副社長、高砂敬三さんからかかってきた電話を思い返した。
――頼むよ、桐島。お前の力で、東野をなんとかしてやってくれないか。
高砂さんによれば東野様は小学校から高校までの同級生で、気心知れた幼なじみだという。
――あいつ、薬屋の跡取りでさ。家の事情で、これから金融関係のご令嬢との見合いを控えているんだ。
先方はスイスで働く東野様のために、わざわざ渡欧してくるほど乗り気らしい。ドクターストップがかかりそうなくらい仕事熱心で、ほぼ強制的にバカンスを取らされたという彼を心配して、ローマで保養を兼ねて会うことにしたそうだ。
いわゆる政略結婚だから結果は決まっているとはいえ、高砂さんは心配でしかたがないという。
――見合いはローマに着いて五日目なんだ。相手はけっこうなお嬢様だから、その間になんとか格好つけてやってくれ。まさかとは思うが、今のままの東野じゃ不測の事態も起きかねない。
そう聞かされた時は大げさだと思った。だけど強面過ぎる容姿とこのコーディネートぶりでは、そんなこともあるかもしれない。
(よし!)
かなり手強そうだが、東野様はもともと人目を引かずにはおかない(もちろんいい意味で)容姿をされている。私は彼本来の美点をしっかり生かそうと、改めて心に決めた。
服装も、雰囲気も、身ごなしもすべて変え、とんちんかん過ぎるビジュアルから、その能力にふさわしいスタイリッシュな紳士に仕立て上げ、お見合いを成功させる――そのために必要な数日間のワードローブを完璧に整えるのだ。
私は『永遠の都』と呼ばれる美しいローマで、東野様とその婚約者となる女性に、すばらしい時間を過ごしてほしいと思った。
トレイを持って戻った時、私は脱力しそうになった。
(うそ……)
なんと肝心の東野様はソファに深々と身を預けて、すっかり眠り込んでいたのだ。
「……東野様?」
しっかり閉じたまぶた、規則正しい寝息。声をかけたくらいでは目を覚ましそうもない。揺さぶって起こそうかとも思ったが、私は伸ばしかけた手を引っ込めた。
テーブルの上には英文の書類とスマートフォン、さらにごつい黒縁メガネが載っている。読みかけのままで寝入ってしまったらしい。
きっとひどく疲れているのだろう。
東野様が働くスイスの製薬会社には著名な研究者が数多く在籍していて、国際的にも知名度が高い。
彼自身もそのひとりだというし、おそらく睡眠時間も削って研究にいそしんでいるのだろう。今は一週間のバカンス中であるにもかかわらず。
(お茶、冷めちゃう)
けれど私にとっては絶好のチャンスでもあった。東野様が眠っていれば、きつい視線を気にせずに、遠慮なくその姿を眺めることができるのだから。
グリーン系のチェックの半袖シャツと色の落ちたデニムは、明らかに若者向けの量販店『FC』こと『ファイン・クローゼット』のものだ。
履いているのはスポーツブランドのグレーのスニーカー。腕時計は実用的なラバー製のデジタルクロック。全部合わせても、一万五千円はしないだろう。
スタイルがいいのでそれなりに決まっているが、あくまで学生の格好だった。それもファッションに無関心な理系学生にありがちの。
(見た目はすごく怖いのに)
しかし次の瞬間、私は思わず声を上げてしまった。
「うわ」
よく見れば、シャツのボタンをひとつかけ違えている。しかも靴下は白とグレーで左右の色がそろっていない。
関心がないどころか、どうやら洋服は着られさえすればいいらしい。本当に、朝そのへんにあったものを身につけてきたのだろう。
(確かになかなかの難敵みたいね)
もちろんこれまでは、それでも大きな問題はなかっただろう。
だが、このローマでは東野様にとって運命をかけた数日間が控えている。今のままでは間違いなくNGだ。
それにおしゃれなミラノの人たちほどではないにしても、この格好ではローマっ子にだってダメ出しされてしまうだろう。
私は大学の先輩で、高砂百貨店の御曹司でもある副社長、高砂敬三さんからかかってきた電話を思い返した。
――頼むよ、桐島。お前の力で、東野をなんとかしてやってくれないか。
高砂さんによれば東野様は小学校から高校までの同級生で、気心知れた幼なじみだという。
――あいつ、薬屋の跡取りでさ。家の事情で、これから金融関係のご令嬢との見合いを控えているんだ。
先方はスイスで働く東野様のために、わざわざ渡欧してくるほど乗り気らしい。ドクターストップがかかりそうなくらい仕事熱心で、ほぼ強制的にバカンスを取らされたという彼を心配して、ローマで保養を兼ねて会うことにしたそうだ。
いわゆる政略結婚だから結果は決まっているとはいえ、高砂さんは心配でしかたがないという。
――見合いはローマに着いて五日目なんだ。相手はけっこうなお嬢様だから、その間になんとか格好つけてやってくれ。まさかとは思うが、今のままの東野じゃ不測の事態も起きかねない。
そう聞かされた時は大げさだと思った。だけど強面過ぎる容姿とこのコーディネートぶりでは、そんなこともあるかもしれない。
(よし!)
かなり手強そうだが、東野様はもともと人目を引かずにはおかない(もちろんいい意味で)容姿をされている。私は彼本来の美点をしっかり生かそうと、改めて心に決めた。
服装も、雰囲気も、身ごなしもすべて変え、とんちんかん過ぎるビジュアルから、その能力にふさわしいスタイリッシュな紳士に仕立て上げ、お見合いを成功させる――そのために必要な数日間のワードローブを完璧に整えるのだ。
私は『永遠の都』と呼ばれる美しいローマで、東野様とその婚約者となる女性に、すばらしい時間を過ごしてほしいと思った。
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