僕とピアノ姫のソナタ

麻倉とわ

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 控室のドアを開けたとたん、調が軽くよろけた。

 哲朗はとっさにその体を支えたが、彼女に触れた瞬間、怖いくらいに胸が高鳴った。それに気づいて、今度は声が妙にかすれてしまう。

「大丈夫?」
「え、ええ。平気よ」

 答える調の声も不自然に硬かった。
 だが、それは終わったばかりの演奏のせいではない。

 数度のアンコールに応え、舞台を降りた時はどちらも興奮して、うるさいくらいしゃべり合っていた。実際、二人は万雷の拍手とブラボーコールで祝福されたのだから。

 結果からいえば、調と哲朗のアンサンブルは大成功だったのだ。

 しかし舞台から離れて周囲に誰もいなくなると、だんだん口数が少なくなり、ついにはどちらも黙り込んでしまった。
 廊下を歩いて控室に着くまで、そのまま数分間も沈黙が続いていた。

 確かに演奏して消耗しきったせいもある。けれどもそれ以上に、相手の存在が急に重みを増して感じられたのだった。

 今日までは共に『スプリングソナタ』の成功という目標に向って走り続ければよかったが、そこには達してしまった。
 そのオブラートが溶けてしまった今、「もっと近づきたい」と思っていることを哲朗は認めざるを得なかった。そしてこの様子なら、おそらく調も同じなのだろう。

 哲朗はヴァイオリンを置いた後、まともに調を見ることができず、視線を泳がせる。

「あの、喉かわいてないですか? 何か買ってきましょうか?」

 そう言ってから、それがホテルで言ったのと同じセリフだと気づき、必要もないのに赤くなってしまった。
 対する調も俯いて、無言のまま頬を染めている。

 急に空気が重くなったような気がして、哲朗は次に何を言えばいいかわからない。

 そう広くもない部屋に二人きりになってしまったのだ。それも「大切にしたい」と自覚してしまった相手と。

「あ、あの――」
「椎名くん」

 声をかけ合ったのはほぼ同時だった。

 その後はどちらからともなく互いの体に腕を回し、唇を合わせる。

 もちろんすぐにやめるつもりだった。コンサートはまだ続いているが、控室にはいつ誰が来るとも限らない。
 それなのに鍵をかけようともせず、二人はキスを繰り返し、甘い熱に浮かされた。

「ご、ごめん、真山さん」

 やがて哲朗は、そっと調の体を離した。

「なんか俺、がっついちゃって」

 これ以上は無理だった。熱いものが体中を駆け巡っていて我慢がきかなくなる。
 最高のパフォーマンスができて、アドレナリンが出まくっているから、少し落ち着かないと――。

 だが調は濡れた唇をとがらせ、身を寄せてきた。

「やめないで!」
「真山さん?」

 華奢な体を受け止めながら、哲朗は驚いて目を見開いた。こんなに密着すれば、自分の体が反応し始めていることが伝わってしまう。

「わ、私、もう待ちたくないの」

 調が潤んだ目を上げた。真っ赤になりながらも、さらに体を押しつけてくる。

「椎名くんだって、そうでしょ?」
「……いいんですか?」
「ええ」

 夢中になってキスをしながら、哲朗は調を強く抱きしめた。
 何度も繰り返してきたことなのに、これほど切羽詰まったのは初めてだった。

「真山さん、や、優しくしますから」

 すると唐突に、唇に指を押し当てられた。

「どうしました?」
「あの……真山さんじゃなくて……さっきみたいに調って呼んでほしいの」

 顔を赤くしながらも、調がはっきり主張する。続いて自身も、少しとまどった声で「哲朗」とつけ加えた。

「調!」

 どうしていいかわからなくなって、哲朗は思わず天を仰ぐ。

 それからピンクの唇に何度もキスを落として、自分はずっとこうしたかったのだと思った。相手はたぐいまれなピアニストだし、音楽バカで学内きっての変人だけれど。
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