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ところが哲朗が謝罪に出向く前に、事態は大きく動くことになった。
調のスマートフォンに真山教授から連絡が入り、二人そろって特別棟にあるレッスン室に呼びだされたのだ。
何がなんだかわからないまま駆けつけると、その場には滝沢が待っていた。
しかもいかにも思わせぶりな表情をしていて、哲朗と調は顔を見合わせてしまう。
何をどんなふうに伝えたかはわからないが、おそらく彼は二人のことを真山教授に言いつけたのだろう。
いきなりの呼び出しは断罪のためだ。そうでなければ授業では関わりがない哲朗までが同伴を求められるはずがない。
「この卑怯者」
哲朗の悔しげな呟きは涼しい笑顔で無視された。
それでも殴りかからずに済んだのは、調が必死に引き留めてくれたからだった。
その時、ドアが開いて、真山教授が軽快な足取りで入ってきた。
「申しわけない。お待たせしたね」
とたんに隣に立つ調の表情が引きしまる。
――家では父さんと『しーちゃん』って呼び合うし、仲もいいけど、大学に一歩でも入ったら先生と真山なんだ。
調は交換日記で、父親との関係をそんなふうにぼやいていた。
四歳でピアノを始めた時からの決まりごとは骨の髄まで染みついているらしい。
真山教授は調と同じく小柄だったが、娘と似ているのはそこだけだった。浅黒く日焼けして、針金のように引き締まっており、動きも敏捷だ。
間近で見るのは初めてだったので、その若々しい印象に哲朗は少し驚いた。
彼の言動からわからず屋の頑固老人みたいに思い込んでいたのだ。
「えっと、君が椎名くん?」
「はい、はじめまして」
「どうも。娘がお世話になりまして」
「い、いえ。こちらこそ」
ごくふつうの挨拶に、哲朗も毒気を抜かれて頭を下げた。
教授であると同時に、好きな相手の父親でもある。できれば、いい印象を残したい。だが今はそれより――。
「あ、あの、真山先生。こ、このたびはたいへん申しわけありませんでした!」
哲朗はいきなり膝をついて、床に両手をつき、深々と頭を下げた。
「椎名くん?」
驚いた調も慌てて膝をつく。
「謝らないで、椎名くん!」
体に手をかけ、なんとか抱き起こそうとするが、哲朗はそれに抗い、今度は滝沢に向かって頭を下げた。
そうだ。さっきまでは彼にも謝るつもりだったのだ。二人のことを教授にチクッた許せないヤツではあるけれど。
「滝沢さん、さっきは申しわけありませんでした。心からお詫びしますから、どうか真山さんとのデュオは続けてください!」
「椎名くん、やめて!」
調が必死にとりすがってきたが、哲朗はなおも頭を上げなかった。
このやり方が正解かどうかなんてわからない。ただ、他には何も思い浮かばないのだ。
ふいに近づいてくる足音がして、この場にはそぐわない穏やかな声が落ちてきた。
「椎名くん、君は僕に謝らなきゃいけないようなことをしたの?」
「……えっ?」
哲朗が驚いて顔を上げると、声の主とまともに目が合った。
「滝沢くんから君と調、いや、真山のことを聞いたけど、それ自体は問題視していないよ。真山はむしろ前より熱心なくらいだし、最近は音に艶が出てきたからね」
「あの……」
「ま、そういうのはもういいから、今日は君の音を聴かせてくれないかな。ヴァイオリン、持ってきてるよね? せっかくここには二人のヴァイオリニストがいるわけだし、ソナタを聴き比べてみたいんだ」
真山教授はいたってまじめな顔つきで、「スプリングソナタを頼む。第一楽章だけでいいから」とつけ加えた。
聴き比べ――滝沢と競ってみせろということだろうか。
「だけど、とうさ――いえ、真山先生」
調が引っくり返った声で呼びかけた。彼女も相当焦っているようだ。長年の鉄の不文律にもかかわらず、学内で「父さん」と言いかけたのだから。
「椎名くんと合わせたことは一度も――」
「真山なら、どんな相手にも合わせられるさ。さて、滝沢くんはどうする? 腱鞘炎の方、大丈夫?」
真山教授から視線を向けられると、滝沢は目を泳がせながらも頷いた。
「だ、大丈夫です」
「決まりだな。じゃ、椎名くんから始めてもらおうか。真山、ピアノ弾いてあげて」
「は、はい」
謝罪するはずだったのに、なぜか調と共に真山教授の前で演奏をすることになってしまった。
今ひとつ事態についていけないまま、哲朗と調はそそくさと準備を始めた。
やがて哲朗はなんとか準備を終えると、譜面台の前に立った。
ピアノの方に目をやると、調がぎこちない笑顔で頷いてくれた。
いつか二人で奏でてみたいと思った曲だったが、まさかこんな形で実現するとは思わなかった。これまで美優とは何度も合わせたし、さらに調はとびきりの名手だが、いきなりではうまくいくはずもない。
けれど哲朗は自分も微笑んでみせる。
いい方法だと思った。
真山教授は同じ曲を弾かせることで、自分と滝沢との差異を思い知らせ、引導を渡そうとしているのだろう。へたな説教より、よほど効果的な方法だ。
何度も負け続けた相手に、今日はついにとどめを刺されるのだ。またしばらく、きつい時間が続くことになる。
それでも哲朗はもう前みたいに逃げ出すつもりはなかった。こんなことになったのは全部自分のせいなのだから。
「お願いします」
正面の椅子に座った真山教授に、一礼する。
哲朗はひとつ息を吸うと、背筋を伸ばして、ヴァイオリンをかまえた。
調のスマートフォンに真山教授から連絡が入り、二人そろって特別棟にあるレッスン室に呼びだされたのだ。
何がなんだかわからないまま駆けつけると、その場には滝沢が待っていた。
しかもいかにも思わせぶりな表情をしていて、哲朗と調は顔を見合わせてしまう。
何をどんなふうに伝えたかはわからないが、おそらく彼は二人のことを真山教授に言いつけたのだろう。
いきなりの呼び出しは断罪のためだ。そうでなければ授業では関わりがない哲朗までが同伴を求められるはずがない。
「この卑怯者」
哲朗の悔しげな呟きは涼しい笑顔で無視された。
それでも殴りかからずに済んだのは、調が必死に引き留めてくれたからだった。
その時、ドアが開いて、真山教授が軽快な足取りで入ってきた。
「申しわけない。お待たせしたね」
とたんに隣に立つ調の表情が引きしまる。
――家では父さんと『しーちゃん』って呼び合うし、仲もいいけど、大学に一歩でも入ったら先生と真山なんだ。
調は交換日記で、父親との関係をそんなふうにぼやいていた。
四歳でピアノを始めた時からの決まりごとは骨の髄まで染みついているらしい。
真山教授は調と同じく小柄だったが、娘と似ているのはそこだけだった。浅黒く日焼けして、針金のように引き締まっており、動きも敏捷だ。
間近で見るのは初めてだったので、その若々しい印象に哲朗は少し驚いた。
彼の言動からわからず屋の頑固老人みたいに思い込んでいたのだ。
「えっと、君が椎名くん?」
「はい、はじめまして」
「どうも。娘がお世話になりまして」
「い、いえ。こちらこそ」
ごくふつうの挨拶に、哲朗も毒気を抜かれて頭を下げた。
教授であると同時に、好きな相手の父親でもある。できれば、いい印象を残したい。だが今はそれより――。
「あ、あの、真山先生。こ、このたびはたいへん申しわけありませんでした!」
哲朗はいきなり膝をついて、床に両手をつき、深々と頭を下げた。
「椎名くん?」
驚いた調も慌てて膝をつく。
「謝らないで、椎名くん!」
体に手をかけ、なんとか抱き起こそうとするが、哲朗はそれに抗い、今度は滝沢に向かって頭を下げた。
そうだ。さっきまでは彼にも謝るつもりだったのだ。二人のことを教授にチクッた許せないヤツではあるけれど。
「滝沢さん、さっきは申しわけありませんでした。心からお詫びしますから、どうか真山さんとのデュオは続けてください!」
「椎名くん、やめて!」
調が必死にとりすがってきたが、哲朗はなおも頭を上げなかった。
このやり方が正解かどうかなんてわからない。ただ、他には何も思い浮かばないのだ。
ふいに近づいてくる足音がして、この場にはそぐわない穏やかな声が落ちてきた。
「椎名くん、君は僕に謝らなきゃいけないようなことをしたの?」
「……えっ?」
哲朗が驚いて顔を上げると、声の主とまともに目が合った。
「滝沢くんから君と調、いや、真山のことを聞いたけど、それ自体は問題視していないよ。真山はむしろ前より熱心なくらいだし、最近は音に艶が出てきたからね」
「あの……」
「ま、そういうのはもういいから、今日は君の音を聴かせてくれないかな。ヴァイオリン、持ってきてるよね? せっかくここには二人のヴァイオリニストがいるわけだし、ソナタを聴き比べてみたいんだ」
真山教授はいたってまじめな顔つきで、「スプリングソナタを頼む。第一楽章だけでいいから」とつけ加えた。
聴き比べ――滝沢と競ってみせろということだろうか。
「だけど、とうさ――いえ、真山先生」
調が引っくり返った声で呼びかけた。彼女も相当焦っているようだ。長年の鉄の不文律にもかかわらず、学内で「父さん」と言いかけたのだから。
「椎名くんと合わせたことは一度も――」
「真山なら、どんな相手にも合わせられるさ。さて、滝沢くんはどうする? 腱鞘炎の方、大丈夫?」
真山教授から視線を向けられると、滝沢は目を泳がせながらも頷いた。
「だ、大丈夫です」
「決まりだな。じゃ、椎名くんから始めてもらおうか。真山、ピアノ弾いてあげて」
「は、はい」
謝罪するはずだったのに、なぜか調と共に真山教授の前で演奏をすることになってしまった。
今ひとつ事態についていけないまま、哲朗と調はそそくさと準備を始めた。
やがて哲朗はなんとか準備を終えると、譜面台の前に立った。
ピアノの方に目をやると、調がぎこちない笑顔で頷いてくれた。
いつか二人で奏でてみたいと思った曲だったが、まさかこんな形で実現するとは思わなかった。これまで美優とは何度も合わせたし、さらに調はとびきりの名手だが、いきなりではうまくいくはずもない。
けれど哲朗は自分も微笑んでみせる。
いい方法だと思った。
真山教授は同じ曲を弾かせることで、自分と滝沢との差異を思い知らせ、引導を渡そうとしているのだろう。へたな説教より、よほど効果的な方法だ。
何度も負け続けた相手に、今日はついにとどめを刺されるのだ。またしばらく、きつい時間が続くことになる。
それでも哲朗はもう前みたいに逃げ出すつもりはなかった。こんなことになったのは全部自分のせいなのだから。
「お願いします」
正面の椅子に座った真山教授に、一礼する。
哲朗はひとつ息を吸うと、背筋を伸ばして、ヴァイオリンをかまえた。
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