21 / 32
第六楽章①
しおりを挟む
開演までは、あっという間だった。
基本、誰かと約束した時には哲朗は十五分前には行く。
六時半開場なので、調とはその時間に待ち合わせたが、今日ばかりはさらに十五分前の六時ちょうどにホールに着いてしまった。自分でも早過ぎると思ったものの、待ちきれなかったのだ。
けれども会場の前には、すでに調がいた。
哲朗は慌てて彼女のそばに駆け寄り――それから一時間近く二人で過ごしたのに、何を話して、どんなふうに動いたかさっぱり覚えていない。
決して緊張したとか、居心地が悪かったとかいうのではなく、むしろ足が地につかないくらい気分が高揚していて、いつの間にか開演時間になってしまったという感じだった。
今まで数えきれないくらいデートをしてきたが、こんな経験は一度もない。
「すみません、真山さん」
開演五分前のベルが鳴った。
哲朗が声をかけても、隣に座った調は夢中になってプログラムに見入っている。
「あの、真山さん。真山さん?」
彼女が驚いたように顔を上げたのは、三回も名前を読んだ後だった。
「あ、ごめん。何、椎名くん?」
やっぱり相当の音楽バカだ。哲朗は思わず苦笑する。
「いや、いいんです。謝りたかっただけだから。これ、急に誘っちゃったから、夜は大丈夫だったのかなって。予定とかありませんでした?」
哲朗は、エントランスで調を見つけた時のことを思い出していた。
さっきは舞い上がっていて気が回らなかったが、いつもより元気がなかったのではないだろうか。
「……ううん」
一瞬、調の視線が泳ぐ。
「大丈夫。それより誘ってくれて、どうもありがとう」
「あ、いや、どういたしまして」
「本当にすごくうれしい。ネルソンのピアノ、ずっと聴きたかったから」
その口調は熱心だが、いつもより少し速かった。
調はかなり変わっているが、嘘はつかない。やはり何かあったのだろうか。
それでも自分の誘いを優先してくれた。哲朗にとっては、彼女が隣にいてくれるだけで十分だった。
「真山さん、ありが――」
全部言い終わる前に照明が落ちて、調は弾かれたように前を向いた。
背筋を伸ばし、大きく目を見開いて、舞台袖から出てきた奏者たちに盛大な拍手を送っている。さっきまでは何か言いたそうにしていたのに、もうそんな様子は微塵もない。
だが、それでこそ調らしいと哲朗は思った。
ひとたび音楽を前にすれば、すべてを忘れて全身全霊でのめり込む。彼女のそんなところが自分はとても――。
哲朗は大きく息を吐いて、椅子にもたれかかった。
(自分は――何だって?)
一瞬とんでもない、しかもそうとは認めたくないことを思いかけたような気がした。しかし深く考える間もなく演奏が始まった。
一曲目は、期待していたスプリングソナタだった。
ヴァイオリニストのマックスウェルは金髪で、深紅のドレスが似合う華やかな雰囲気の美人で、ピアニストのネルソンも渋い感じの男前だ。
そのヴィジュアルもさることながら、舞台から流れてきた旋律が一気に会場の雰囲気を変えてしまう。
緑の野原を吹き抜けるそよ風、心躍らせる芽吹きの気配――透明で繊細な二人の音色が、光あふれる春の景色を織り上げていく。
ソナタ第五番は、クラシックに疎い人間でも一度は耳にしたことがあるくらい有名だ。
人気が高い演目であればあるほど、その差異は明確にわかってしまうものだが、彼らの演奏はその名声を裏切らなかった。
二人の完璧なテクニックに圧倒されて、哲朗は小さなため息をもらす。
無意識に、隣との境になっているひじ掛けに手をのせた時だった。
「……っ!」
哲朗は声にならない叫びを上げた。
あたたかく、なめらかな感触。そこにはすでに調の手が置かれていたのだ。
一瞬、その体に震えが走ったのがわかった。
調に直接触れるのは、久しぶりだった。わざとではないにしろ彼女を驚かせたことに慌てふためき、そのせいで哲朗はかえって固まってしまう。
さり気なく手を下ろせばいいだけなのに、動揺し過ぎて、まったく動けない。心拍数が一気に跳ね上がり、もう音楽鑑賞どころではなかった。
きっと調はいやがっているはずだ。
ずいぶん親しくなったとはいえ、そうなる前に腕を握った時は激しく振りほどかれたのだ。このまま哲朗が手をどけなければ、必ず彼女の方から振り払うだろう。
ところがいつまでたっても、調はひじ掛けから手を下ろそうとしない。
そんなことも気にならないほど曲に没頭しているのかと隣を盗み見れば、本人は舞台に顔を向けているものの、その頬は真っ赤になっているのだった。
それをどう解釈すればいいかわからず、けれど触れているぬくもりからは離れがたくて、哲朗は静かに息を吐く。隣からも小さなため息が聞こえた。
まるで調と一緒に道に迷い、ようやく春の草原にたどり着いたような気がした。
二人は手を重ね合ったまま、最終楽章まで演奏を聴き続けたのだった。
基本、誰かと約束した時には哲朗は十五分前には行く。
六時半開場なので、調とはその時間に待ち合わせたが、今日ばかりはさらに十五分前の六時ちょうどにホールに着いてしまった。自分でも早過ぎると思ったものの、待ちきれなかったのだ。
けれども会場の前には、すでに調がいた。
哲朗は慌てて彼女のそばに駆け寄り――それから一時間近く二人で過ごしたのに、何を話して、どんなふうに動いたかさっぱり覚えていない。
決して緊張したとか、居心地が悪かったとかいうのではなく、むしろ足が地につかないくらい気分が高揚していて、いつの間にか開演時間になってしまったという感じだった。
今まで数えきれないくらいデートをしてきたが、こんな経験は一度もない。
「すみません、真山さん」
開演五分前のベルが鳴った。
哲朗が声をかけても、隣に座った調は夢中になってプログラムに見入っている。
「あの、真山さん。真山さん?」
彼女が驚いたように顔を上げたのは、三回も名前を読んだ後だった。
「あ、ごめん。何、椎名くん?」
やっぱり相当の音楽バカだ。哲朗は思わず苦笑する。
「いや、いいんです。謝りたかっただけだから。これ、急に誘っちゃったから、夜は大丈夫だったのかなって。予定とかありませんでした?」
哲朗は、エントランスで調を見つけた時のことを思い出していた。
さっきは舞い上がっていて気が回らなかったが、いつもより元気がなかったのではないだろうか。
「……ううん」
一瞬、調の視線が泳ぐ。
「大丈夫。それより誘ってくれて、どうもありがとう」
「あ、いや、どういたしまして」
「本当にすごくうれしい。ネルソンのピアノ、ずっと聴きたかったから」
その口調は熱心だが、いつもより少し速かった。
調はかなり変わっているが、嘘はつかない。やはり何かあったのだろうか。
それでも自分の誘いを優先してくれた。哲朗にとっては、彼女が隣にいてくれるだけで十分だった。
「真山さん、ありが――」
全部言い終わる前に照明が落ちて、調は弾かれたように前を向いた。
背筋を伸ばし、大きく目を見開いて、舞台袖から出てきた奏者たちに盛大な拍手を送っている。さっきまでは何か言いたそうにしていたのに、もうそんな様子は微塵もない。
だが、それでこそ調らしいと哲朗は思った。
ひとたび音楽を前にすれば、すべてを忘れて全身全霊でのめり込む。彼女のそんなところが自分はとても――。
哲朗は大きく息を吐いて、椅子にもたれかかった。
(自分は――何だって?)
一瞬とんでもない、しかもそうとは認めたくないことを思いかけたような気がした。しかし深く考える間もなく演奏が始まった。
一曲目は、期待していたスプリングソナタだった。
ヴァイオリニストのマックスウェルは金髪で、深紅のドレスが似合う華やかな雰囲気の美人で、ピアニストのネルソンも渋い感じの男前だ。
そのヴィジュアルもさることながら、舞台から流れてきた旋律が一気に会場の雰囲気を変えてしまう。
緑の野原を吹き抜けるそよ風、心躍らせる芽吹きの気配――透明で繊細な二人の音色が、光あふれる春の景色を織り上げていく。
ソナタ第五番は、クラシックに疎い人間でも一度は耳にしたことがあるくらい有名だ。
人気が高い演目であればあるほど、その差異は明確にわかってしまうものだが、彼らの演奏はその名声を裏切らなかった。
二人の完璧なテクニックに圧倒されて、哲朗は小さなため息をもらす。
無意識に、隣との境になっているひじ掛けに手をのせた時だった。
「……っ!」
哲朗は声にならない叫びを上げた。
あたたかく、なめらかな感触。そこにはすでに調の手が置かれていたのだ。
一瞬、その体に震えが走ったのがわかった。
調に直接触れるのは、久しぶりだった。わざとではないにしろ彼女を驚かせたことに慌てふためき、そのせいで哲朗はかえって固まってしまう。
さり気なく手を下ろせばいいだけなのに、動揺し過ぎて、まったく動けない。心拍数が一気に跳ね上がり、もう音楽鑑賞どころではなかった。
きっと調はいやがっているはずだ。
ずいぶん親しくなったとはいえ、そうなる前に腕を握った時は激しく振りほどかれたのだ。このまま哲朗が手をどけなければ、必ず彼女の方から振り払うだろう。
ところがいつまでたっても、調はひじ掛けから手を下ろそうとしない。
そんなことも気にならないほど曲に没頭しているのかと隣を盗み見れば、本人は舞台に顔を向けているものの、その頬は真っ赤になっているのだった。
それをどう解釈すればいいかわからず、けれど触れているぬくもりからは離れがたくて、哲朗は静かに息を吐く。隣からも小さなため息が聞こえた。
まるで調と一緒に道に迷い、ようやく春の草原にたどり着いたような気がした。
二人は手を重ね合ったまま、最終楽章まで演奏を聴き続けたのだった。
0
お気に入りに追加
1
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
セーラー服美人女子高生 ライバル同士の一騎討ち
ヒロワークス
ライト文芸
女子高の2年生まで校内一の美女でスポーツも万能だった立花美帆。しかし、3年生になってすぐ、同じ学年に、美帆と並ぶほどの美女でスポーツも万能な逢沢真凛が転校してきた。
クラスは、隣りだったが、春のスポーツ大会と夏の水泳大会でライバル関係が芽生える。
それに加えて、美帆と真凛は、隣りの男子校の俊介に恋をし、どちらが俊介と付き合えるかを競う恋敵でもあった。
そして、秋の体育祭では、美帆と真凛が走り高跳びや100メートル走、騎馬戦で対決!
その結果、放課後の体育館で一騎討ちをすることに。
AIが俺の嫁になった結果、人類の支配者になりそうなんだが
結城 雅
ライト文芸
あらすじ:
彼女いない歴=年齢の俺が、冗談半分で作ったAI「レイナ」。しかし、彼女は自己進化を繰り返し、世界を支配できるレベルの存在に成長してしまった。「あなた以外の人類は不要です」……おい、待て、暴走するな!!

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
イケメン彼氏は警察官!甘い夜に私の体は溶けていく。
すずなり。
恋愛
人数合わせで参加した合コン。
そこで私は一人の男の人と出会う。
「俺には分かる。キミはきっと俺を好きになる。」
そんな言葉をかけてきた彼。
でも私には秘密があった。
「キミ・・・目が・・?」
「気持ち悪いでしょ?ごめんなさい・・・。」
ちゃんと私のことを伝えたのに、彼は食い下がる。
「お願いだから俺を好きになって・・・。」
その言葉を聞いてお付き合いが始まる。
「やぁぁっ・・!」
「どこが『や』なんだよ・・・こんなに蜜を溢れさせて・・・。」
激しくなっていく夜の生活。
私の身はもつの!?
※お話の内容は全て想像のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※表現不足は重々承知しております。まだまだ勉強してまいりますので温かい目で見ていただけたら幸いです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
では、お楽しみください。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる