僕とピアノ姫のソナタ

麻倉とわ

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第六楽章①

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 開演までは、あっという間だった。

 基本、誰かと約束した時には哲朗は十五分前には行く。
 六時半開場なので、調とはその時間に待ち合わせたが、今日ばかりはさらに十五分前の六時ちょうどにホールに着いてしまった。自分でも早過ぎると思ったものの、待ちきれなかったのだ。

 けれども会場の前には、すでに調がいた。
 哲朗は慌てて彼女のそばに駆け寄り――それから一時間近く二人で過ごしたのに、何を話して、どんなふうに動いたかさっぱり覚えていない。

 決して緊張したとか、居心地が悪かったとかいうのではなく、むしろ足が地につかないくらい気分が高揚していて、いつの間にか開演時間になってしまったという感じだった。

 今まで数えきれないくらいデートをしてきたが、こんな経験は一度もない。

「すみません、真山さん」

 開演五分前のベルが鳴った。
 哲朗が声をかけても、隣に座った調は夢中になってプログラムに見入っている。

「あの、真山さん。真山さん?」

 彼女が驚いたように顔を上げたのは、三回も名前を読んだ後だった。

「あ、ごめん。何、椎名くん?」

 やっぱり相当の音楽バカだ。哲朗は思わず苦笑する。

「いや、いいんです。謝りたかっただけだから。これ、急に誘っちゃったから、夜は大丈夫だったのかなって。予定とかありませんでした?」

 哲朗は、エントランスで調を見つけた時のことを思い出していた。
 さっきは舞い上がっていて気が回らなかったが、いつもより元気がなかったのではないだろうか。

「……ううん」

 一瞬、調の視線が泳ぐ。

「大丈夫。それより誘ってくれて、どうもありがとう」
「あ、いや、どういたしまして」
「本当にすごくうれしい。ネルソンのピアノ、ずっと聴きたかったから」

 その口調は熱心だが、いつもより少し速かった。

 調はかなり変わっているが、嘘はつかない。やはり何かあったのだろうか。

 それでも自分の誘いを優先してくれた。哲朗にとっては、彼女が隣にいてくれるだけで十分だった。

「真山さん、ありが――」

 全部言い終わる前に照明が落ちて、調は弾かれたように前を向いた。

 背筋を伸ばし、大きく目を見開いて、舞台袖から出てきた奏者たちに盛大な拍手を送っている。さっきまでは何か言いたそうにしていたのに、もうそんな様子は微塵もない。

 だが、それでこそ調らしいと哲朗は思った。

 ひとたび音楽を前にすれば、すべてを忘れて全身全霊でのめり込む。彼女のそんなところが自分はとても――。

 哲朗は大きく息を吐いて、椅子にもたれかかった。

(自分は――何だって?)

 一瞬とんでもない、しかもそうとは認めたくないことを思いかけたような気がした。しかし深く考える間もなく演奏が始まった。

 一曲目は、期待していたスプリングソナタだった。

 ヴァイオリニストのマックスウェルは金髪で、深紅のドレスが似合う華やかな雰囲気の美人で、ピアニストのネルソンも渋い感じの男前だ。
 そのヴィジュアルもさることながら、舞台から流れてきた旋律が一気に会場の雰囲気を変えてしまう。

 緑の野原を吹き抜けるそよ風、心躍らせる芽吹きの気配――透明で繊細な二人の音色が、光あふれる春の景色を織り上げていく。

 ソナタ第五番は、クラシックに疎い人間でも一度は耳にしたことがあるくらい有名だ。
 人気が高い演目であればあるほど、その差異は明確にわかってしまうものだが、彼らの演奏はその名声を裏切らなかった。

 二人の完璧なテクニックに圧倒されて、哲朗は小さなため息をもらす。
 無意識に、隣との境になっているひじ掛けに手をのせた時だった。

「……っ!」

 哲朗は声にならない叫びを上げた。

 あたたかく、なめらかな感触。そこにはすでに調の手が置かれていたのだ。

 一瞬、その体に震えが走ったのがわかった。

 調に直接触れるのは、久しぶりだった。わざとではないにしろ彼女を驚かせたことに慌てふためき、そのせいで哲朗はかえって固まってしまう。

 さり気なく手を下ろせばいいだけなのに、動揺し過ぎて、まったく動けない。心拍数が一気に跳ね上がり、もう音楽鑑賞どころではなかった。

 きっと調はいやがっているはずだ。
 ずいぶん親しくなったとはいえ、そうなる前に腕を握った時は激しく振りほどかれたのだ。このまま哲朗が手をどけなければ、必ず彼女の方から振り払うだろう。

 ところがいつまでたっても、調はひじ掛けから手を下ろそうとしない。

 そんなことも気にならないほど曲に没頭しているのかと隣を盗み見れば、本人は舞台に顔を向けているものの、その頬は真っ赤になっているのだった。

 それをどう解釈すればいいかわからず、けれど触れているぬくもりからは離れがたくて、哲朗は静かに息を吐く。隣からも小さなため息が聞こえた。

 まるで調と一緒に道に迷い、ようやく春の草原にたどり着いたような気がした。

 二人は手を重ね合ったまま、最終楽章まで演奏を聴き続けたのだった。
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