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昼休みに入って、学生で混み始めた中庭のベンチに座り、哲朗は例のノートを開いた。
『椎名くんが一番好きな作曲家は誰ですか。それから一番好きなピアノソナタも教えてください』
最初のページを読むと、自然に笑みが浮かんでくる。
休講で時間ができたのでホールから日記を取ってきたのだが、この箇所は何度見ても、いかにも調らしいと思う。だいたい合コンの時も同じようなことを訊いていたし。
交換日記を始めてから一週間が過ぎた。
今日までに調は四回分を書いてくれたが、冒頭と同じようにほとんどが音楽の話題だった。
『俺はブラームスが一番。でもベートーヴェンもいいと思います』
最初の質問に答えた後、哲朗は簡単な自己紹介と趣味について書き、二人のやり取りは今日まで順調に続いていた。
しかし調はたとえ家族や中高時代の思い出を記していても、いつの間にかその関心が音楽にシフトしてしまう。
丁寧できれいな文字でびっしり綴られた日記からは、いろいろなメロディーが聞こえてきそうなほどだった。
話題の中心はいつも音楽だが、日記のおかげで調本人についても少しずつわかってきた。
ペットは黒のトイプードルで、名前はラルゴ。
ラルゴの朝の散歩は彼女の役目だとか、音大に来なければ理学部で数学を勉強したかったとか、チョコレートケーキが大好きで毎日食べたいとか、情報が少しずつ増えていくたびに哲朗はうれしくなる。
哲朗は笑みを浮かべて、ページをめくった。
今日の話題は過去のコンクールのことだった。
調がこれまで参加したものの名称や成績、そこで演奏した曲がいくつも几帳面に書き出されていて、哲朗はその経験に圧倒されてしまう。
「さすがピアノ姫だな」
だがさらに読み進んで、今度は息が止まりそうになった。
『ところで椎名くん、言う機会がなかったけど、私は大学に入る前からあなたのことを知っていました。二年前の東日本学生音楽コンクールに出ていましたよね? 私はファイナルで君のヴァイオリンを聴きました。今でもはっきり覚えています』
「えっ?」
それこそは、哲朗が最後に滝沢に敗れた因縁のコンクールだったのだ。
『優勝できなくて残念だったけど、私はたとえ百回負けてもいいと思っています。百一回目に勝てばいいし、順位ではかれないような大切なものもあるはずだから。あの時のヴァイオリンソナタはブラームスの一番でしたよね。本当にすばらしい演奏だったと思います。特に第一楽章の』
そこで調はなぜか慌てた様子で、行を変えていた。
『ごめんね、椎名くん。滝沢さんが来たみたいだから、続きはまた今度書きます。練習、がんばってね』
最後の方は彼女にしては珍しく、少し字が乱れていた。
「滝沢が……」
声に出して名前を呟いたことで、哲朗は少し不安になった。最近、調のパートナーである滝沢裕也のことが気にかかっていたのだ。
まず調自身が「練習が終わってからも、滝沢さんがなかなか帰してくれない」と、ぼやいていた。
さらに哲朗も学内で彼とすれ違うたびに、妙に含みのある目つきで見られるような気がした。考え過ぎかもしれないが、以前は決してなかったことだ。
調とは、会えばなごやかに話をするようになったが、もしかして滝沢はそれが気に入らないのだろうか。
哲朗は初めて二人を見た日のことを思い返してみた。
あの古いホールに向う彼らは距離の近さを感じさせて、うらやましかったのを覚えている。特に滝沢は調を呼び捨てにして、ずいぶん親しげにふるまっていた。
彼の調に対する気持ちはどんなものなのだろう?
二人がアンサンブルを披露する学内コンサートは五日日後に迫っている。才能あるパートナーとして大切にしているだけなのか、それとも?
「それとも――って何だよ?」
哲朗は少しうろたえて、ノートを閉じた。
『椎名くんが一番好きな作曲家は誰ですか。それから一番好きなピアノソナタも教えてください』
最初のページを読むと、自然に笑みが浮かんでくる。
休講で時間ができたのでホールから日記を取ってきたのだが、この箇所は何度見ても、いかにも調らしいと思う。だいたい合コンの時も同じようなことを訊いていたし。
交換日記を始めてから一週間が過ぎた。
今日までに調は四回分を書いてくれたが、冒頭と同じようにほとんどが音楽の話題だった。
『俺はブラームスが一番。でもベートーヴェンもいいと思います』
最初の質問に答えた後、哲朗は簡単な自己紹介と趣味について書き、二人のやり取りは今日まで順調に続いていた。
しかし調はたとえ家族や中高時代の思い出を記していても、いつの間にかその関心が音楽にシフトしてしまう。
丁寧できれいな文字でびっしり綴られた日記からは、いろいろなメロディーが聞こえてきそうなほどだった。
話題の中心はいつも音楽だが、日記のおかげで調本人についても少しずつわかってきた。
ペットは黒のトイプードルで、名前はラルゴ。
ラルゴの朝の散歩は彼女の役目だとか、音大に来なければ理学部で数学を勉強したかったとか、チョコレートケーキが大好きで毎日食べたいとか、情報が少しずつ増えていくたびに哲朗はうれしくなる。
哲朗は笑みを浮かべて、ページをめくった。
今日の話題は過去のコンクールのことだった。
調がこれまで参加したものの名称や成績、そこで演奏した曲がいくつも几帳面に書き出されていて、哲朗はその経験に圧倒されてしまう。
「さすがピアノ姫だな」
だがさらに読み進んで、今度は息が止まりそうになった。
『ところで椎名くん、言う機会がなかったけど、私は大学に入る前からあなたのことを知っていました。二年前の東日本学生音楽コンクールに出ていましたよね? 私はファイナルで君のヴァイオリンを聴きました。今でもはっきり覚えています』
「えっ?」
それこそは、哲朗が最後に滝沢に敗れた因縁のコンクールだったのだ。
『優勝できなくて残念だったけど、私はたとえ百回負けてもいいと思っています。百一回目に勝てばいいし、順位ではかれないような大切なものもあるはずだから。あの時のヴァイオリンソナタはブラームスの一番でしたよね。本当にすばらしい演奏だったと思います。特に第一楽章の』
そこで調はなぜか慌てた様子で、行を変えていた。
『ごめんね、椎名くん。滝沢さんが来たみたいだから、続きはまた今度書きます。練習、がんばってね』
最後の方は彼女にしては珍しく、少し字が乱れていた。
「滝沢が……」
声に出して名前を呟いたことで、哲朗は少し不安になった。最近、調のパートナーである滝沢裕也のことが気にかかっていたのだ。
まず調自身が「練習が終わってからも、滝沢さんがなかなか帰してくれない」と、ぼやいていた。
さらに哲朗も学内で彼とすれ違うたびに、妙に含みのある目つきで見られるような気がした。考え過ぎかもしれないが、以前は決してなかったことだ。
調とは、会えばなごやかに話をするようになったが、もしかして滝沢はそれが気に入らないのだろうか。
哲朗は初めて二人を見た日のことを思い返してみた。
あの古いホールに向う彼らは距離の近さを感じさせて、うらやましかったのを覚えている。特に滝沢は調を呼び捨てにして、ずいぶん親しげにふるまっていた。
彼の調に対する気持ちはどんなものなのだろう?
二人がアンサンブルを披露する学内コンサートは五日日後に迫っている。才能あるパートナーとして大切にしているだけなのか、それとも?
「それとも――って何だよ?」
哲朗は少しうろたえて、ノートを閉じた。
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