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第五楽章①
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哲朗の生活は劇的に変わった。
大学にいる時間が長くなり、授業をさぼらなくなった。
時間を見つけてはレッスン室でヴァイオリンを弾き、連日のように参加していた飲み会や合コンの誘いも断るようになった。今まであえて敬遠していた有名な音楽家のリサイタルにも足を運び始めた。
あれから調とは学内で何度か顔を合わせる機会があった。まともに練習をするようになったせいか、レッスン室が並ぶ特別棟で出会うこともあった。
しかしそのたびに彼女は目ざとく哲朗に気づき、臆病なウサギのように素早く逃げ出してしまう。実際、声をかけるひまさえないほどだった。
哲朗はそのたびに肩をすくめて、彼女を見送った。
今はそうするしかなかった。
無理やりつかまえても、調は怯えるだけだろう。まともに話もできないかもしれない。
あの夜、やはり彼女に何かしてしまったのだろうか? それもこれほど徹底的に避けられるような、とんでもないことを?
(ごめん、真山さん)
哲朗は調の背中に向かって、心の中で謝り続けていた。
そのかわりというわけではないが、練習時間はさらに増えていった。
いくら弾いても追いつかない気がして、ひどく焦ってしまう。めざす音はいつもはるか先にある。
今まで遊びほうけて無駄にした時間が悔やまれてならなかった。
ある日の夕方近く、哲朗は例のホールに足を運んでみる気になった。レッスン室ではなく、調と滝沢がいた舞台に一度立ってみたいと思ったのだ。
室内楽やオーケストラの発表会で弾いたことはあっても、無人とはいえ客席を前にしてソロ演奏するのは久しぶりだった。高三の時にコンクールで滝沢に負けて以来になる。
哲朗は傘をさして、ホールへと向かった。
その日は朝から細かな雨が降っていて、わざわざ遠く離れた場所に練習に来る者もいないだろうと考えてもいた。
ところがホールのドアを開けた時だった。透明なピアノの音があふれるように響いてきたのだ。
「……真山さん?」
弾いていたのは調だった。そばに滝沢はおらず、ひとりで『春』のピアノパートをさらっている。
どこまでも明るく楽しげなメロディー。
鍵盤に向う調の表情も穏やかだ。それでいてその場の空気は、うかつには声をかけられないほど張りつめていた。
調が変わり者と噂され、みんなから距離を置かれているわけが改めてわかった気がした。
ただ言動がエキセントリックなだけでなく、周囲がそうせずにはいられないくらいに、彼女はすべてをピアノに捧げてきたのだろう。
(恋をしているみたいだ……ピアノに)
鍵盤に向かう真摯な姿は本当に満ち足りて見える。
あの夜はひどくナンパにこだわっていたけれど、そんなことをする必要は少しもないのではないかとさえ思った。
哲朗はヴァイオリンケースを抱えたまま困惑していた。
自分がいることに気づいたら、調はまた慌てて逃げだすだろう。これほど懸命に弾いているのだから、邪魔をしたくはなかった。
しかし退散するべきだと思いながらも、その場を動けない。きらめくようなフレーズに、すっかり囚われてしまったのだ。
哲朗は目を閉じて、流れる音を追う。少しでも長く調のピアノを聴いていたかったのだが――。
「ハ、ハ、ハックション!」
間の抜けた大音量のくしゃみが、いきなりホールに響きわたった。
できることなら息も止めて一切の気配を消したかったのに、哲朗は肝心なところで自分の体に裏切られてしまったのだ。
ピアノの音は止んでいた。調は鍵盤に指をのせたまま、凍りついたようにこちらを見ている。
「す、すみません、真山さん」
「椎名くん」
「あの、たまたま来ただけなんです。邪魔するつもりはないので……あの、本当にごめんなさい。すぐ出て行きますから」
唇を噛んで、哲郎は背を向ける。彼女が自分の前から逃げ去る姿はもう見たくなかった。
「待って、椎名くん」
「えっ?」
哲郎は驚いて振り向いた。調は逃げようとするどころか、自分から声をかけてきたのだ。
「ヴァイオリン……弾くつもりで来たんじゃないの? 今からここで」
「いや、いい。いいんです。真山さんが使ってるし」
「椎名くん!」
「は、はい」
調が椅子から立ち上がった。哲朗はわけもなく気押されて、数歩後ずさってしまう。
「よかったら少し弾いてみてくれない? 私、椎名くんのヴァイオリンが聴いてみたいんだけど」
哲郎は言葉を失った。
「前は全然だったのに、最近よく特別棟で会うわよね。中庭で弾いていることもあったし。椎名くん、練習してるんでしょ? だから音、ちゃんと聴かせてくれないかしら」
大学にいる時間が長くなり、授業をさぼらなくなった。
時間を見つけてはレッスン室でヴァイオリンを弾き、連日のように参加していた飲み会や合コンの誘いも断るようになった。今まであえて敬遠していた有名な音楽家のリサイタルにも足を運び始めた。
あれから調とは学内で何度か顔を合わせる機会があった。まともに練習をするようになったせいか、レッスン室が並ぶ特別棟で出会うこともあった。
しかしそのたびに彼女は目ざとく哲朗に気づき、臆病なウサギのように素早く逃げ出してしまう。実際、声をかけるひまさえないほどだった。
哲朗はそのたびに肩をすくめて、彼女を見送った。
今はそうするしかなかった。
無理やりつかまえても、調は怯えるだけだろう。まともに話もできないかもしれない。
あの夜、やはり彼女に何かしてしまったのだろうか? それもこれほど徹底的に避けられるような、とんでもないことを?
(ごめん、真山さん)
哲朗は調の背中に向かって、心の中で謝り続けていた。
そのかわりというわけではないが、練習時間はさらに増えていった。
いくら弾いても追いつかない気がして、ひどく焦ってしまう。めざす音はいつもはるか先にある。
今まで遊びほうけて無駄にした時間が悔やまれてならなかった。
ある日の夕方近く、哲朗は例のホールに足を運んでみる気になった。レッスン室ではなく、調と滝沢がいた舞台に一度立ってみたいと思ったのだ。
室内楽やオーケストラの発表会で弾いたことはあっても、無人とはいえ客席を前にしてソロ演奏するのは久しぶりだった。高三の時にコンクールで滝沢に負けて以来になる。
哲朗は傘をさして、ホールへと向かった。
その日は朝から細かな雨が降っていて、わざわざ遠く離れた場所に練習に来る者もいないだろうと考えてもいた。
ところがホールのドアを開けた時だった。透明なピアノの音があふれるように響いてきたのだ。
「……真山さん?」
弾いていたのは調だった。そばに滝沢はおらず、ひとりで『春』のピアノパートをさらっている。
どこまでも明るく楽しげなメロディー。
鍵盤に向う調の表情も穏やかだ。それでいてその場の空気は、うかつには声をかけられないほど張りつめていた。
調が変わり者と噂され、みんなから距離を置かれているわけが改めてわかった気がした。
ただ言動がエキセントリックなだけでなく、周囲がそうせずにはいられないくらいに、彼女はすべてをピアノに捧げてきたのだろう。
(恋をしているみたいだ……ピアノに)
鍵盤に向かう真摯な姿は本当に満ち足りて見える。
あの夜はひどくナンパにこだわっていたけれど、そんなことをする必要は少しもないのではないかとさえ思った。
哲朗はヴァイオリンケースを抱えたまま困惑していた。
自分がいることに気づいたら、調はまた慌てて逃げだすだろう。これほど懸命に弾いているのだから、邪魔をしたくはなかった。
しかし退散するべきだと思いながらも、その場を動けない。きらめくようなフレーズに、すっかり囚われてしまったのだ。
哲朗は目を閉じて、流れる音を追う。少しでも長く調のピアノを聴いていたかったのだが――。
「ハ、ハ、ハックション!」
間の抜けた大音量のくしゃみが、いきなりホールに響きわたった。
できることなら息も止めて一切の気配を消したかったのに、哲朗は肝心なところで自分の体に裏切られてしまったのだ。
ピアノの音は止んでいた。調は鍵盤に指をのせたまま、凍りついたようにこちらを見ている。
「す、すみません、真山さん」
「椎名くん」
「あの、たまたま来ただけなんです。邪魔するつもりはないので……あの、本当にごめんなさい。すぐ出て行きますから」
唇を噛んで、哲郎は背を向ける。彼女が自分の前から逃げ去る姿はもう見たくなかった。
「待って、椎名くん」
「えっ?」
哲郎は驚いて振り向いた。調は逃げようとするどころか、自分から声をかけてきたのだ。
「ヴァイオリン……弾くつもりで来たんじゃないの? 今からここで」
「いや、いい。いいんです。真山さんが使ってるし」
「椎名くん!」
「は、はい」
調が椅子から立ち上がった。哲朗はわけもなく気押されて、数歩後ずさってしまう。
「よかったら少し弾いてみてくれない? 私、椎名くんのヴァイオリンが聴いてみたいんだけど」
哲郎は言葉を失った。
「前は全然だったのに、最近よく特別棟で会うわよね。中庭で弾いていることもあったし。椎名くん、練習してるんでしょ? だから音、ちゃんと聴かせてくれないかしら」
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