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哲朗は目を閉じて、大きく息を吐いた。
弓を手にしたのは、ずいぶん久しぶりのような気がした。
もちろんそんなはずはなくて、授業やレッスンでそれなりに弾いているし、父親が自宅に作ってくれたこの練習室にもたまには入る。
それでもヴァイオリンにきちんと向き合うのは、ここしばらくなかったことだ。
譜面台に楽譜を置き、一音ずつ確かめながらチューニングをする。それから哲朗は改めてヴァイオリンを構え直した。
一瞬、虚空を見つめて、鋭く息を吸う。吐息と共に弓を引いた。
空気を震わせて、荘厳な『アルマンド』が響き始めた。
ヨハン・セバスチャン・バッハの手による『無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第一番ロ短調』。
実技の課題曲で、さらわなければいけないのは第三楽章の『サラバンド』だが、哲朗はあえて最初から弾き始めた。
バッハの『パルティータ』はいくつか書かれているが、どれも重音が多く、フィンガリングもボウイングも決して容易ではない。
しかしその難しさが、今の哲朗にはかえって心地よかった。作曲家が作り上げようとした世界を描くため、ただひたすら音を追う。
息つく間もなく、つかれたように『クーランド』、『サラバンド』と進み、最後の楽章まで一気に弾き続けた。
小さな拍手が聞こえてきたのは、弓を下ろして深く息を吐いた時だった。
「美優!」
「お兄ちゃん、今のバッハ、とってもすてきだったよ!」
気づかぬうちに、妹の美優が部屋の隅に座り込んでいたのだ。
「驚かせるなよ。ていうか、勝手に入るなよ」
哲朗は顔をしかめてみせたが、もちろん本気で怒ってはいない。かなり年が離れているため、まだ小学生の妹がかわいくてしかたがないのだ。
「ったく。美優だって、黙って練習を聴かれたら怒るくせに」
実際、美優は兄によく似た美少女で、性格も素直で優しかった。
「ごめんね。だけど本当にきれいな音だったから」
「いつも弾いてるだろ」
「うん。だけど今日の音は全然違ってたの」
「……本当か」
哲朗の声はわずかに震えてしまった。
美優はまだ十二歳だが、幼い時からピアノを弾いている。兄のように音大を目指しているので、音楽に関してはかなりうるさいのだ。
その彼女が言うのだから、あながち嘘ではないかもしれないと思った。
「本当だよ。前みたいな音だったもん」
大きく頷いて、美優はまた拍手してみせる。
「前みたいな音?」
「お兄ちゃんが大学に入る前に弾いていた時みたいに、すごく一生懸命できれいな音。美優、うれしいよ。またああいう音が聴きたいなって、ずっと思ってたから」
弓を手にしたのは、ずいぶん久しぶりのような気がした。
もちろんそんなはずはなくて、授業やレッスンでそれなりに弾いているし、父親が自宅に作ってくれたこの練習室にもたまには入る。
それでもヴァイオリンにきちんと向き合うのは、ここしばらくなかったことだ。
譜面台に楽譜を置き、一音ずつ確かめながらチューニングをする。それから哲朗は改めてヴァイオリンを構え直した。
一瞬、虚空を見つめて、鋭く息を吸う。吐息と共に弓を引いた。
空気を震わせて、荘厳な『アルマンド』が響き始めた。
ヨハン・セバスチャン・バッハの手による『無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第一番ロ短調』。
実技の課題曲で、さらわなければいけないのは第三楽章の『サラバンド』だが、哲朗はあえて最初から弾き始めた。
バッハの『パルティータ』はいくつか書かれているが、どれも重音が多く、フィンガリングもボウイングも決して容易ではない。
しかしその難しさが、今の哲朗にはかえって心地よかった。作曲家が作り上げようとした世界を描くため、ただひたすら音を追う。
息つく間もなく、つかれたように『クーランド』、『サラバンド』と進み、最後の楽章まで一気に弾き続けた。
小さな拍手が聞こえてきたのは、弓を下ろして深く息を吐いた時だった。
「美優!」
「お兄ちゃん、今のバッハ、とってもすてきだったよ!」
気づかぬうちに、妹の美優が部屋の隅に座り込んでいたのだ。
「驚かせるなよ。ていうか、勝手に入るなよ」
哲朗は顔をしかめてみせたが、もちろん本気で怒ってはいない。かなり年が離れているため、まだ小学生の妹がかわいくてしかたがないのだ。
「ったく。美優だって、黙って練習を聴かれたら怒るくせに」
実際、美優は兄によく似た美少女で、性格も素直で優しかった。
「ごめんね。だけど本当にきれいな音だったから」
「いつも弾いてるだろ」
「うん。だけど今日の音は全然違ってたの」
「……本当か」
哲朗の声はわずかに震えてしまった。
美優はまだ十二歳だが、幼い時からピアノを弾いている。兄のように音大を目指しているので、音楽に関してはかなりうるさいのだ。
その彼女が言うのだから、あながち嘘ではないかもしれないと思った。
「本当だよ。前みたいな音だったもん」
大きく頷いて、美優はまた拍手してみせる。
「前みたいな音?」
「お兄ちゃんが大学に入る前に弾いていた時みたいに、すごく一生懸命できれいな音。美優、うれしいよ。またああいう音が聴きたいなって、ずっと思ってたから」
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