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「……いや」
哲朗は強く首を振る。そのことはもうとっくに――。
パタパタという足音が聞こえてきたのは、その時だった。
「あ!」
足音が止まり、小さな悲鳴が上がる。
顔を上げると、廊下の真ん中で楽譜を抱えた調が硬直していた。哲朗の存在に気づいたのは、向こうが先だったらしい。
今日もワンピース姿だが、水色の清楚なデザインで、それがびっくりするくらい似合っていた。
「椎名くん!」
予期せぬ出会いだったので、哲朗の反応はワンテンポ遅れてしまった。その上、
「まや――」
名前を呼び終わる前に調はきびすを返し、すごい速さで走り始めたのだ。
「あ、待って。真山さん、ちょっと待ってください!」
哲朗も急いで後を追う。滝沢のことはひとまず忘れることにした。
もともと走るのは得意だが、二日酔いの体にはかなりきつかった。
しかも相手はどういうわけか全力疾走している。たちまち二人の距離は広がっていった。
「待って! 頼むから待ってください!」
歯を食いしばって頭痛をこらえ、哲朗は何度も必死に呼びかける。
それに気を取られたのか、前方を走る調が楽譜を落とした。
何枚もの譜面が廊下に散らばった。調が焦ってそれらを拾い集める間に、哲朗はやっと彼女に追いつくことができた。
「どうぞ、真山さん」
落ちていた譜面を拾って差しだしても、調は顔を上げようとしない。
「あの、話があるんですけど」
「私にはありません!」
間を置かずに返ってきた答えは、いやにぎこちなかった。
「ホテル代なら、ちゃんとお払いしました。テーブルの上、見たでしょ? あれで足りなかったのなら、今――」
「いや、真山さんだけに払わせるわけにはいきませんから」
「いいの。気にしないで」
「いや、まずいですって。それに他にも話が――」
「何?」
ようやく調が顔を上げた。しかしメガネ越しの瞳は哲朗を見ていない。
「あ、あの、少しでいいから時間を取ってくれませんか? どこかでちゃんと話をしたいので」
「無理」
「だけど――」
「もう行かなきゃ。人を待たせているから」
調は視線をそらしたまま、拾い集めた楽譜を胸元に引き寄せた。まるでそれを盾にして、哲朗から身を守ろうとしているかのようだ。
その時、冊子になっている楽譜のタイトルが見えた。やはり例の曲――ベートーヴェンのヴァイオリンソナタだった。
「真山さん、今度の学内コンサートで弾く曲はスプリングソナタなんですか?」
「え? う、うん。そうだけど」
急に話題が変わったからか、調はとまどい気味に答える。一瞬、まともに目が合った。
「ヴァオリンは誰が?」
「三年の滝沢裕也くんよ。最近はずっと彼と組んでるの」
哲朗は言葉を失った。よりにもよって調のパートナーがあの滝沢だなんて。
二人の技量からいえば当然過ぎるくらいのデュオだが、さらなる敗北感に打ちのめされそうだった。
「それじゃもう行きます。今から練習なので」
調は警戒するように二、三歩後ずさりすると、そっけなく背を向けた。
「……真山さん」
彼女から全身で拒否されたみたいに思えた。
もう会いたくないし、声もかけないでほしい。だから連絡先を教えなかったのだと、その華奢な背中が言っているような気がした。
昨夜はあんなにも無防備で、かわいかったくせに。キスまでねだってみせたくせに。
「待って」
哲朗は反射的にその細い腕をつかんでしまう。どうしても納得できなかったのだ。
「話はまだ終わってな――」
「離して!」
抵抗は予想外に強かった。調は哲朗の手を振り払うと、振り向きもせずに歩きだした。
「待ってください、真山さん!」
すると、いきなり調の足が止まった。背を向けたままではあるが、出会って初めて耳にするような大きな声が返ってきた。
「椎名くん、もう私にはかまわないで!」
小さな背中が、かすかに震えている。
「そんな……どうして?」
「あなた、器楽科のハンターだから!」
調は再び歩き始めたが、哲朗は何も言えなかった。
なぜこうまで拒否されるのかわからなかったし、その迫力に圧倒されてもいたのだった。
哲朗は強く首を振る。そのことはもうとっくに――。
パタパタという足音が聞こえてきたのは、その時だった。
「あ!」
足音が止まり、小さな悲鳴が上がる。
顔を上げると、廊下の真ん中で楽譜を抱えた調が硬直していた。哲朗の存在に気づいたのは、向こうが先だったらしい。
今日もワンピース姿だが、水色の清楚なデザインで、それがびっくりするくらい似合っていた。
「椎名くん!」
予期せぬ出会いだったので、哲朗の反応はワンテンポ遅れてしまった。その上、
「まや――」
名前を呼び終わる前に調はきびすを返し、すごい速さで走り始めたのだ。
「あ、待って。真山さん、ちょっと待ってください!」
哲朗も急いで後を追う。滝沢のことはひとまず忘れることにした。
もともと走るのは得意だが、二日酔いの体にはかなりきつかった。
しかも相手はどういうわけか全力疾走している。たちまち二人の距離は広がっていった。
「待って! 頼むから待ってください!」
歯を食いしばって頭痛をこらえ、哲朗は何度も必死に呼びかける。
それに気を取られたのか、前方を走る調が楽譜を落とした。
何枚もの譜面が廊下に散らばった。調が焦ってそれらを拾い集める間に、哲朗はやっと彼女に追いつくことができた。
「どうぞ、真山さん」
落ちていた譜面を拾って差しだしても、調は顔を上げようとしない。
「あの、話があるんですけど」
「私にはありません!」
間を置かずに返ってきた答えは、いやにぎこちなかった。
「ホテル代なら、ちゃんとお払いしました。テーブルの上、見たでしょ? あれで足りなかったのなら、今――」
「いや、真山さんだけに払わせるわけにはいきませんから」
「いいの。気にしないで」
「いや、まずいですって。それに他にも話が――」
「何?」
ようやく調が顔を上げた。しかしメガネ越しの瞳は哲朗を見ていない。
「あ、あの、少しでいいから時間を取ってくれませんか? どこかでちゃんと話をしたいので」
「無理」
「だけど――」
「もう行かなきゃ。人を待たせているから」
調は視線をそらしたまま、拾い集めた楽譜を胸元に引き寄せた。まるでそれを盾にして、哲朗から身を守ろうとしているかのようだ。
その時、冊子になっている楽譜のタイトルが見えた。やはり例の曲――ベートーヴェンのヴァイオリンソナタだった。
「真山さん、今度の学内コンサートで弾く曲はスプリングソナタなんですか?」
「え? う、うん。そうだけど」
急に話題が変わったからか、調はとまどい気味に答える。一瞬、まともに目が合った。
「ヴァオリンは誰が?」
「三年の滝沢裕也くんよ。最近はずっと彼と組んでるの」
哲朗は言葉を失った。よりにもよって調のパートナーがあの滝沢だなんて。
二人の技量からいえば当然過ぎるくらいのデュオだが、さらなる敗北感に打ちのめされそうだった。
「それじゃもう行きます。今から練習なので」
調は警戒するように二、三歩後ずさりすると、そっけなく背を向けた。
「……真山さん」
彼女から全身で拒否されたみたいに思えた。
もう会いたくないし、声もかけないでほしい。だから連絡先を教えなかったのだと、その華奢な背中が言っているような気がした。
昨夜はあんなにも無防備で、かわいかったくせに。キスまでねだってみせたくせに。
「待って」
哲朗は反射的にその細い腕をつかんでしまう。どうしても納得できなかったのだ。
「話はまだ終わってな――」
「離して!」
抵抗は予想外に強かった。調は哲朗の手を振り払うと、振り向きもせずに歩きだした。
「待ってください、真山さん!」
すると、いきなり調の足が止まった。背を向けたままではあるが、出会って初めて耳にするような大きな声が返ってきた。
「椎名くん、もう私にはかまわないで!」
小さな背中が、かすかに震えている。
「そんな……どうして?」
「あなた、器楽科のハンターだから!」
調は再び歩き始めたが、哲朗は何も言えなかった。
なぜこうまで拒否されるのかわからなかったし、その迫力に圧倒されてもいたのだった。
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