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「うーん」
ふんわりした雲が浮かぶ青空の下、小川にはキラキラと陽光が踊り、緑の野原にも色とりどりの花が咲き乱れている。軽やかに舞い飛ぶ白や黄色の蝶が愛らしい。
哲朗は春真っ盛りの景色の中に立っていた。優しい風が気持ちよくて、思わず何度も深呼吸してしまう。
やがてどこか遠くから、ピアノの音色が響いてきた。軽快で楽しげな澄んだ音色は、今の情景にぴったりだ。
哲朗はつられて、小さくハミングする。
自分でも前に演奏したことがあり、よく知っているメロディーだった。なつかしくて、自然と笑顔になってしまう。
ベートーヴェン作曲、ヴァイオリンソナタ第五番へ長調。
明るく伸びやかな曲想から『春』と呼ばれているが、その第一楽章のピアノパートだ。
少し調律が甘いけれど、かなりハイレベルな演奏だった。
このソナタはそれほど難しくはないものの、ここまで正確に、それでいて鮮烈に弾けるピアニストはなかなかいない。
たとえば腕に覚えのあるヴァイオリニストに、一度は組んでみたいと思わせてしまうくらいみごとな音だった。
「えっ? あ……あいたた」
ふいに目の前から青空や野原がかき消えて、愛らしい音色も途絶えた。
代わりに重苦しい頭痛とかすかな吐き気が襲ってきた。この症状には覚えがある。二日酔いだ。
そういえば昨夜はワインバーで女子大生たちと会って、それから……。
大げさでクラシックなワンピース、大きなリボン、そして真山調。それから合コン、ミモザのグラス。さらにオトシマエ――雑多な記憶が頭痛や吐き気と入り乱れながら、一気に押し寄せてきた。
「ええっ?」
目を開けると、大きなキングサイズのベッドに横たわる自分が見えた。ミラー張りの天井に映る、艶やかな紫のサテン地が目に痛い。
哲朗がいたのはのどかな春の野原などではなく、ラブホテルの一室だったのだ。
「いたた……あ、そうだ。真山さん?」
たしかここへは調と一緒に来たはずだった。それなのに同行を強要した彼女の姿はなく、部屋の中にも見当たらない。
枕元のデジタルクロックを見ると、「6:30AM」と表示されていた。
哲朗は痛む頭を押さえて、なんとかベッドから這い降りた。よろけながらバスルームをのぞいてみたが、やはり調はいない。
「真山さん?」
もしかして先に帰ったのだろうか?
部屋の中を見回していると、昨夜のことが断片的に、しかし鮮やかによみがえってきた。
調のみずみずしいピンクの唇とか、潤んだ瞳や桜色に上気した頬とか、抱きしめた時の柔らかさやぬくもりとか―――。さらにおぼろげではあるが、ベッドの上に調を横たえた覚えもある。
それから彼女に何度もキスをした。けれどもその後はどうだっただろう?
「まさか」
最後までやってしまったのだろうか? 調子にのって、あのピアノ姫と?
「……うそだろ」
哲朗がサイドテーブルの上にある金に気づいたのは、その時だった。
一万円札と五千円札と千円札が一枚ずつ。ホテル代の税込一万六千円だが、紙幣はどれもしわひとつない新札だ。調が置いていったものに違いないが、他にはメモ一枚なかった。
なりゆきとはいえ一晩を共に過ごしたのに、電話番号もSNSの連絡先もわからない。哲朗には、その意味がはかりかねた。
今後はコンタクトを取りたくないということだろうか。
昨夜の一件が恥ずかしいのか、それとも怒っているのか。しかしいずれにしろこんな事態に陥ったのは、そもそも調が妙な提案を持ち出したからであって、哲朗から誘ったわけではないのだ。
とはいえ、よく覚えていないが、自分はそれに乗じて彼女にとんでもないことをしてしまったのかもしれない。
とりあえずちゃんと服を着ているし、周囲を見回してもティッシュやらコンドームやらは落ちていないみたいだけれど。
とにかく彼女だけにホテル代を負担させるわけにはいかない。まずは調と話をしようと思った。
状況をきちんと確認しなければ。
「ったく」
哲朗は頭痛をこらえながら、合コンの幹事である深井に電話をかけた。だが、彼の思いきり眠そうな返答は予想外のものだった。
「真山さんの電話番号? 俺は知らないけど」
「何で知らないんだよ? お前、昨日の幹事だろ?」
「うん。だけど親父さんがすごく厳しいらしくて、連絡先教えてくれなかったんだ。ていうか何なの、椎名? こんな朝早くから。真山さんと何かあったわけ?」
「いや、そういうことじゃなくて……うん、とにかくわかった。起こして悪かった」
哲朗は調の言葉を思いだした。
真山教授は娘の通信履歴を毎日必ずチェックするらしい。それを恐れて、自分にも連絡先を教えてくれなかったのだろうか。
「あ」
その時、部屋の奥に置かれた白いピアノに目が止まった。昨夜は閉められていたはずのふたが開いている。
一瞬、夢の中で聴いたベートーヴェンのメロディーが響いたような気がした。
アレグロで奏でられるうららかな春の情景。
きっと調は眠っている自分の横で、このピアノを弾いていたのだ。そのせいであんな夢を見たに違いない。
「真山……調か」
胸がおかしな具合に波立ち始めていた。
哲朗はひとつ深呼吸をして、シャワーを浴びるためにバスルームへと向った。
ふんわりした雲が浮かぶ青空の下、小川にはキラキラと陽光が踊り、緑の野原にも色とりどりの花が咲き乱れている。軽やかに舞い飛ぶ白や黄色の蝶が愛らしい。
哲朗は春真っ盛りの景色の中に立っていた。優しい風が気持ちよくて、思わず何度も深呼吸してしまう。
やがてどこか遠くから、ピアノの音色が響いてきた。軽快で楽しげな澄んだ音色は、今の情景にぴったりだ。
哲朗はつられて、小さくハミングする。
自分でも前に演奏したことがあり、よく知っているメロディーだった。なつかしくて、自然と笑顔になってしまう。
ベートーヴェン作曲、ヴァイオリンソナタ第五番へ長調。
明るく伸びやかな曲想から『春』と呼ばれているが、その第一楽章のピアノパートだ。
少し調律が甘いけれど、かなりハイレベルな演奏だった。
このソナタはそれほど難しくはないものの、ここまで正確に、それでいて鮮烈に弾けるピアニストはなかなかいない。
たとえば腕に覚えのあるヴァイオリニストに、一度は組んでみたいと思わせてしまうくらいみごとな音だった。
「えっ? あ……あいたた」
ふいに目の前から青空や野原がかき消えて、愛らしい音色も途絶えた。
代わりに重苦しい頭痛とかすかな吐き気が襲ってきた。この症状には覚えがある。二日酔いだ。
そういえば昨夜はワインバーで女子大生たちと会って、それから……。
大げさでクラシックなワンピース、大きなリボン、そして真山調。それから合コン、ミモザのグラス。さらにオトシマエ――雑多な記憶が頭痛や吐き気と入り乱れながら、一気に押し寄せてきた。
「ええっ?」
目を開けると、大きなキングサイズのベッドに横たわる自分が見えた。ミラー張りの天井に映る、艶やかな紫のサテン地が目に痛い。
哲朗がいたのはのどかな春の野原などではなく、ラブホテルの一室だったのだ。
「いたた……あ、そうだ。真山さん?」
たしかここへは調と一緒に来たはずだった。それなのに同行を強要した彼女の姿はなく、部屋の中にも見当たらない。
枕元のデジタルクロックを見ると、「6:30AM」と表示されていた。
哲朗は痛む頭を押さえて、なんとかベッドから這い降りた。よろけながらバスルームをのぞいてみたが、やはり調はいない。
「真山さん?」
もしかして先に帰ったのだろうか?
部屋の中を見回していると、昨夜のことが断片的に、しかし鮮やかによみがえってきた。
調のみずみずしいピンクの唇とか、潤んだ瞳や桜色に上気した頬とか、抱きしめた時の柔らかさやぬくもりとか―――。さらにおぼろげではあるが、ベッドの上に調を横たえた覚えもある。
それから彼女に何度もキスをした。けれどもその後はどうだっただろう?
「まさか」
最後までやってしまったのだろうか? 調子にのって、あのピアノ姫と?
「……うそだろ」
哲朗がサイドテーブルの上にある金に気づいたのは、その時だった。
一万円札と五千円札と千円札が一枚ずつ。ホテル代の税込一万六千円だが、紙幣はどれもしわひとつない新札だ。調が置いていったものに違いないが、他にはメモ一枚なかった。
なりゆきとはいえ一晩を共に過ごしたのに、電話番号もSNSの連絡先もわからない。哲朗には、その意味がはかりかねた。
今後はコンタクトを取りたくないということだろうか。
昨夜の一件が恥ずかしいのか、それとも怒っているのか。しかしいずれにしろこんな事態に陥ったのは、そもそも調が妙な提案を持ち出したからであって、哲朗から誘ったわけではないのだ。
とはいえ、よく覚えていないが、自分はそれに乗じて彼女にとんでもないことをしてしまったのかもしれない。
とりあえずちゃんと服を着ているし、周囲を見回してもティッシュやらコンドームやらは落ちていないみたいだけれど。
とにかく彼女だけにホテル代を負担させるわけにはいかない。まずは調と話をしようと思った。
状況をきちんと確認しなければ。
「ったく」
哲朗は頭痛をこらえながら、合コンの幹事である深井に電話をかけた。だが、彼の思いきり眠そうな返答は予想外のものだった。
「真山さんの電話番号? 俺は知らないけど」
「何で知らないんだよ? お前、昨日の幹事だろ?」
「うん。だけど親父さんがすごく厳しいらしくて、連絡先教えてくれなかったんだ。ていうか何なの、椎名? こんな朝早くから。真山さんと何かあったわけ?」
「いや、そういうことじゃなくて……うん、とにかくわかった。起こして悪かった」
哲朗は調の言葉を思いだした。
真山教授は娘の通信履歴を毎日必ずチェックするらしい。それを恐れて、自分にも連絡先を教えてくれなかったのだろうか。
「あ」
その時、部屋の奥に置かれた白いピアノに目が止まった。昨夜は閉められていたはずのふたが開いている。
一瞬、夢の中で聴いたベートーヴェンのメロディーが響いたような気がした。
アレグロで奏でられるうららかな春の情景。
きっと調は眠っている自分の横で、このピアノを弾いていたのだ。そのせいであんな夢を見たに違いない。
「真山……調か」
胸がおかしな具合に波立ち始めていた。
哲朗はひとつ深呼吸をして、シャワーを浴びるためにバスルームへと向った。
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