僕とピアノ姫のソナタ

麻倉とわ

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 哲朗はベッド脇に置かれた冷蔵庫に歩み寄って、扉を開けた。取りあえず何か飲もうと思ったのだ。

「真山さん、喉かわいてませんか?」
「う、ううん。別に」

 ピアノにはりついている調の背中は痛々しいくらい硬い。

「じゃ、俺は飲ませてもらいます」

 哲朗は少し考えてから、冷蔵庫から缶入りの梅酒を取り出した。
 策を思いついたのは偶然だった。いつもなら迷わずビールを選ぶ。でも今は――。

「真山さん」

 哲朗は調の背後に近づくと、改めて名前を呼んだ。
 彼女が振り向くタイミングに合わせて梅酒を口に含み、細い顎を右手でしっかりと固定する。

「何、椎名く――」

 返事をしかけて半開きになっている、ふっくらした桜色の唇。
 哲朗は調にキスしながら、すかさずその口中に酒を流し込んだ。

 こくん、と白い喉が動いた。

 とたんに胸元に衝撃が走る。調に強く突き飛ばされたのだ。

「な、何? 今、何したの、椎名くん?」
「挨拶」
「あい……さつぅ?」

 たちまち白い頬が赤くなり、大きな目がトロンと潤んでいく。

「キ、キ、キスしたわね、い、今?」

 膝から力が抜けたらしく、調の体が前後に揺れる。

「キスでしょ? 今の、キスよね?」
「だから挨拶ですってば」

 哲朗は急いで彼女を支えた。あまりの反応の早さに、少しばかり動揺してしまう。

 もちろん口移しする量には十分気をつけたつもりだ。
 リラックスさせるためにアルコールを飲ませたのだが、くどき方を教えるのが目的なので、さっきみたいに酩酊されては話にならない。

「真山さん、しっかりしてください。俺のやり方を見せてほしいんでしょ?」
「あ……う、うん、そう……だけど」

 哲朗は調を抱えたまま、さらに梅酒をあおる。
 すでに前の店でもかなり飲んでいたが、酒の勢いがなければ自分もこの先に進めそうもないと思ったのだ。

 しかしその時、まったく予期せぬことが起きた。

「あの……椎名……くん」

 腕の中で、調が哲朗を見上げていた。メガネがずり落ちたために視界がぼやけるのか、必死に目を見開いている。

「あ、あり……がと」

 薄紅色に染まる頬、すがるような視線――調は可憐だった、思わず見とれてしまうくらいに。

「か、かわいいです、真山さん」

 意識するより先に言葉がこぼれ落ちていた。

 それに反応するように調の小さな耳が赤くなって、哲朗は思わず目を見開く。なんだか脈が急に速くなったような気がした。

「い、いや、だから、俺の場合はまず今の要領で、相手のいいところをほめます」
「ほめる?」

 哲朗は大きな黒縁メガネをそっと外してやり、調の体に手を回した。

「たとえば……真山さん、あなたの目はすごくきれいです。こうしていると吸い込まれそうです」

 ふしぎだった。

 歯が浮くようなセリフだったし、いつもはこんなこと言わない。だいたい調に対して下心などないはずなのに、言葉を重ねるたびに体温が上がっていく。
 しかも少しの迷いもなく思ったことが声になってしまうのだ。

「その唇にもそそられます。きれいなピンク色で、キスしたくなる」

 調は逃げなかった。本気で実践テクニックを学ぶつもりらしく、潤んだ瞳で哲朗をじっと見つめている。

「いいですか、真山さん。ここまで来たら、まずキスです。こんな感じで」

 哲朗はとまどいながら調の顎に手を添えた。

 もちろん改めてキスするつもりはなかった。あくまで今は、つつがなくゴールまで到達する過程を教えているのだから。

 それに調だって本当にキスなんかされたくないはずだ。

「安心してください。実際にはしませんから」

 ところが――。

「キ、キス……して、椎名くん」
「えっ?」
「もう一度、きちんとキスしてくれない? さっきの挨拶じゃ……あまりよくわからなかったから」
「えっ?」

 まだ、ちゃんとしたキスをしたことがないの――恥ずかしそうに告白する調を見た時、哲朗の中で何かが弾けた。
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