僕とピアノ姫のソナタ

麻倉とわ

文字の大きさ
上 下
5 / 32

第二楽章①

しおりを挟む
 部屋のドアを開けると、横から「うわっ」という小さな叫び声が聞こえた。

 言葉も出ないほど驚いているらしく、隣にいる調は顔を強ばらせて立ちすくんでいる。
 その幼過ぎる反応に、哲朗はあきれてしまった。

 彼らが訪れたのは、『ホテル・アリア』のエクセレント・ラグジュアリー・ルーム。名前こそ仰々しいが、ごくありふれたラブホテルの一室だ。

(……やれやれ)

 同じ大学とはいえ何だって初対面の、それもかの有名な『(変人)ピアノ姫』と、こんなところに来なきゃいけないのだろう。

 心底うんざりしながら、哲朗は調に声をかけた。

「ほら、真山さん。入りますよ」
「う、うん。わかった。わかったわよ、うん」

 すぐに答えが返ってきたが、依然その足は動かない。

「早く入りましょう。真山さんが言いだしたんだから」

 哲朗は調の腕をつかむと、引きずるようにして部屋の中へ入った。すべては、調が主張する『オトシマエ』のせいだった。

「今夜は地方公演で父さんがいないの。そんな貴重な日って半年に一度あるかないかなのよ」

 例のワインバーのトイレで、嘔吐の合間に調はそう訴えた。
 声が小さい上に泣いているのでなかなか要領を得なかったが、要は彼女の父で、ピアノ科の教授でもある真山信三が演奏旅行に出かけて、明日の夜まで不在なのだという。

 これまで調に浮いた話はひとつもなかったそうだ。
 
 そんなことになったのは厳格過ぎる父のせいだと思い込んでいて、その目が届かない今日の合コンに、彼女はずいぶんと期待していたらしい。
 すてきな男子との出会いと、燃えるような甘い情事――けれど、そんな脳内ラブ妄想が不首尾に終わったため、『オトシマエ』などという物騒なことを言い出したようだ。

「……そうなんですね」
「だって電話もアプリも毎日履歴を調べられるのよ。恋愛厳禁! 男に使う時間があるなら、少しでも多く練習しなさいって」

 確かに気の毒な話ではあった。
 真山教授の厳しさは有名で、彼が受け持つピアノ実技は藤芳音大では最難関科目として知れわたっているし、その苛烈なダメ出しに泣きだす学生も数多い。

 それを思えば調の異様なテンションも理解できないではないが、哲朗には問題がそれだけとは思えなかった。

 実際いくらベートーヴェンを熱く語ったところで、合コンで男子は落とせないだろう。ましてそれから先のあれこれなどクリアできはずがない。

(ズレてるな……完璧に)

 しかしうっかりそれを口に出してしまったために、こんなふうに彼女とラブホテルに入るはめになったのである。

「真山さん、ひとつ忠告させてください。めくるめく一夜のためにはもう少し話題を選んだ方がいいですよ」
「それ、どういう意味?」
「だからベートーヴェンじゃなくて」
「じゃ、ショパン?」
「いやいや」
「そんなに私のやり方がまずいなら、椎名くんが実際に手本を見せてくれればいいじゃないの。お持ち帰り度百パーセントで、『器学科のハンター』って言われてるんだしさ」
「ハンター?」

 調は妙な具合にではあるが、とにかく哲朗の存在を知っていたのだ。

 それも意外だったが、さらに驚かされたのはその頑固さだ。
 どんなに説得を試みても、調は決して家に帰るとは言わなかった。とにかく「手本を見せろ」と繰り返して譲らない。

 けれどここに来るまでは一歩も引かなかったくせに、今はすっかり固まってしまっている。

 ピンクがかった薄暗い照明、ミラー張りの天井、紫のサテン地のベッドカバーがかかったキングサイズのベッド――ラブホテルという未知の世界で、どうふるまえばいいかわからないのだろう。

「あ、ピ、ピ、ピアノだ!」

 うろたえきって部屋を見回していた調が、声を上げた。

 それがエクセレント・ラグジュアリー・ルームの売りなのか、奥の方にアップライトの白いピアノが置かれていたのだ。

「すごいわね、椎名くん。このホテル、ピアノがあるわ!」

 調は救われたようにピアノに駆け寄った。

 哲朗は思わず微笑んでしまう。あからさまに動揺する姿がかわいく見えたのだ。今どきなかなかここまで取り乱す子はいない。

 だが、問題はこれからどうするかだ。「手本を見せろ」と言われても、さすがに彼女には何をどうすればいいか見当がつかない。

(うーん)

 これまではコトの手順なんて、改めて考えたこともなかった。教えろと言われても、そんなものはその場の流れというか、ケース・バイ・ケースだし。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

セーラー服美人女子高生 ライバル同士の一騎討ち

ヒロワークス
ライト文芸
女子高の2年生まで校内一の美女でスポーツも万能だった立花美帆。しかし、3年生になってすぐ、同じ学年に、美帆と並ぶほどの美女でスポーツも万能な逢沢真凛が転校してきた。 クラスは、隣りだったが、春のスポーツ大会と夏の水泳大会でライバル関係が芽生える。 それに加えて、美帆と真凛は、隣りの男子校の俊介に恋をし、どちらが俊介と付き合えるかを競う恋敵でもあった。 そして、秋の体育祭では、美帆と真凛が走り高跳びや100メートル走、騎馬戦で対決! その結果、放課後の体育館で一騎討ちをすることに。

一夏の性体験

風のように
恋愛
性に興味を持ち始めた頃に訪れた憧れの年上の女性との一夜の経験

女難の男、アメリカを行く

灰色 猫
ライト文芸
本人の気持ちとは裏腹に「女にモテる男」Amato Kashiragiの青春を描く。 幼なじみの佐倉舞美を日本に残して、アメリカに留学した海人は周りの女性に振り回されながら成長していきます。 過激な性表現を含みますので、不快に思われる方は退出下さい。 背景のほとんどをアメリカの大学で描いていますが、留学生から聞いた話がベースとなっています。 取材に基づいておりますが、ご都合主義はご容赦ください。 実際の大学資料を参考にした部分はありますが、描かれている大学は作者の想像物になっております。 大学名に特別な意図は、ございません。 扉絵はAI画像サイトで作成したものです。

ナツキス -ずっとこうしていたかった-

帆希和華
ライト文芸
 紫陽花が咲き始める頃、笹井絽薫のクラスにひとりの転校生がやってきた。名前は葵百彩、一目惚れをした。  嫉妬したり、キュンキュンしたり、切なくなったり、目一杯な片思いをしていた。  ある日、百彩が同じ部活に入りたいといい、思わぬところでふたりの恋が加速していく。  大会の合宿だったり、夏祭りに、誕生日会、一緒に過ごす時間が、二人の距離を縮めていく。  そんな中、絽薫は思い出せないというか、なんだかおかしな感覚があった。フラッシュバックとでも言えばいいのか、毎回、同じような光景が突然目の前に広がる。  なんだろうと、考えれば考えるほど答えが遠くなっていく。  夏の終わりも近づいてきたある日の夕方、絽薫と百彩が二人でコンビニで買い物をした帰り道、公園へ寄ろうと入り口を通った瞬間、またフラッシュバックが起きた。  ただいつもと違うのは、その中に百彩がいた。  高校二年の夏、たしかにあった恋模様、それは現実だったのか、夢だったのか……。      17才の心に何を描いていくのだろう?  あの夏のキスのようにのリメイクです。  細かなところ修正しています。ぜひ読んでください。  選択しなくちゃいけなかったので男性向けにしてありますが、女性の方にも読んでもらいたいです。   よろしくお願いします!  

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

処理中です...