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第二楽章①
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部屋のドアを開けると、横から「うわっ」という小さな叫び声が聞こえた。
言葉も出ないほど驚いているらしく、隣にいる調は顔を強ばらせて立ちすくんでいる。
その幼過ぎる反応に、哲朗はあきれてしまった。
彼らが訪れたのは、『ホテル・アリア』のエクセレント・ラグジュアリー・ルーム。名前こそ仰々しいが、ごくありふれたラブホテルの一室だ。
(……やれやれ)
同じ大学とはいえ何だって初対面の、それもかの有名な『(変人)ピアノ姫』と、こんなところに来なきゃいけないのだろう。
心底うんざりしながら、哲朗は調に声をかけた。
「ほら、真山さん。入りますよ」
「う、うん。わかった。わかったわよ、うん」
すぐに答えが返ってきたが、依然その足は動かない。
「早く入りましょう。真山さんが言いだしたんだから」
哲朗は調の腕をつかむと、引きずるようにして部屋の中へ入った。すべては、調が主張する『オトシマエ』のせいだった。
「今夜は地方公演で父さんがいないの。そんな貴重な日って半年に一度あるかないかなのよ」
例のワインバーのトイレで、嘔吐の合間に調はそう訴えた。
声が小さい上に泣いているのでなかなか要領を得なかったが、要は彼女の父で、ピアノ科の教授でもある真山信三が演奏旅行に出かけて、明日の夜まで不在なのだという。
これまで調に浮いた話はひとつもなかったそうだ。
そんなことになったのは厳格過ぎる父のせいだと思い込んでいて、その目が届かない今日の合コンに、彼女はずいぶんと期待していたらしい。
すてきな男子との出会いと、燃えるような甘い情事――けれど、そんな脳内ラブ妄想が不首尾に終わったため、『オトシマエ』などという物騒なことを言い出したようだ。
「……そうなんですね」
「だって電話もアプリも毎日履歴を調べられるのよ。恋愛厳禁! 男に使う時間があるなら、少しでも多く練習しなさいって」
確かに気の毒な話ではあった。
真山教授の厳しさは有名で、彼が受け持つピアノ実技は藤芳音大では最難関科目として知れわたっているし、その苛烈なダメ出しに泣きだす学生も数多い。
それを思えば調の異様なテンションも理解できないではないが、哲朗には問題がそれだけとは思えなかった。
実際いくらベートーヴェンを熱く語ったところで、合コンで男子は落とせないだろう。ましてそれから先のあれこれなどクリアできはずがない。
(ズレてるな……完璧に)
しかしうっかりそれを口に出してしまったために、こんなふうに彼女とラブホテルに入るはめになったのである。
「真山さん、ひとつ忠告させてください。めくるめく一夜のためにはもう少し話題を選んだ方がいいですよ」
「それ、どういう意味?」
「だからベートーヴェンじゃなくて」
「じゃ、ショパン?」
「いやいや」
「そんなに私のやり方がまずいなら、椎名くんが実際に手本を見せてくれればいいじゃないの。お持ち帰り度百パーセントで、『器学科のハンター』って言われてるんだしさ」
「ハンター?」
調は妙な具合にではあるが、とにかく哲朗の存在を知っていたのだ。
それも意外だったが、さらに驚かされたのはその頑固さだ。
どんなに説得を試みても、調は決して家に帰るとは言わなかった。とにかく「手本を見せろ」と繰り返して譲らない。
けれどここに来るまでは一歩も引かなかったくせに、今はすっかり固まってしまっている。
ピンクがかった薄暗い照明、ミラー張りの天井、紫のサテン地のベッドカバーがかかったキングサイズのベッド――ラブホテルという未知の世界で、どうふるまえばいいかわからないのだろう。
「あ、ピ、ピ、ピアノだ!」
うろたえきって部屋を見回していた調が、声を上げた。
それがエクセレント・ラグジュアリー・ルームの売りなのか、奥の方にアップライトの白いピアノが置かれていたのだ。
「すごいわね、椎名くん。このホテル、ピアノがあるわ!」
調は救われたようにピアノに駆け寄った。
哲朗は思わず微笑んでしまう。あからさまに動揺する姿がかわいく見えたのだ。今どきなかなかここまで取り乱す子はいない。
だが、問題はこれからどうするかだ。「手本を見せろ」と言われても、さすがに彼女には何をどうすればいいか見当がつかない。
(うーん)
これまではコトの手順なんて、改めて考えたこともなかった。教えろと言われても、そんなものはその場の流れというか、ケース・バイ・ケースだし。
言葉も出ないほど驚いているらしく、隣にいる調は顔を強ばらせて立ちすくんでいる。
その幼過ぎる反応に、哲朗はあきれてしまった。
彼らが訪れたのは、『ホテル・アリア』のエクセレント・ラグジュアリー・ルーム。名前こそ仰々しいが、ごくありふれたラブホテルの一室だ。
(……やれやれ)
同じ大学とはいえ何だって初対面の、それもかの有名な『(変人)ピアノ姫』と、こんなところに来なきゃいけないのだろう。
心底うんざりしながら、哲朗は調に声をかけた。
「ほら、真山さん。入りますよ」
「う、うん。わかった。わかったわよ、うん」
すぐに答えが返ってきたが、依然その足は動かない。
「早く入りましょう。真山さんが言いだしたんだから」
哲朗は調の腕をつかむと、引きずるようにして部屋の中へ入った。すべては、調が主張する『オトシマエ』のせいだった。
「今夜は地方公演で父さんがいないの。そんな貴重な日って半年に一度あるかないかなのよ」
例のワインバーのトイレで、嘔吐の合間に調はそう訴えた。
声が小さい上に泣いているのでなかなか要領を得なかったが、要は彼女の父で、ピアノ科の教授でもある真山信三が演奏旅行に出かけて、明日の夜まで不在なのだという。
これまで調に浮いた話はひとつもなかったそうだ。
そんなことになったのは厳格過ぎる父のせいだと思い込んでいて、その目が届かない今日の合コンに、彼女はずいぶんと期待していたらしい。
すてきな男子との出会いと、燃えるような甘い情事――けれど、そんな脳内ラブ妄想が不首尾に終わったため、『オトシマエ』などという物騒なことを言い出したようだ。
「……そうなんですね」
「だって電話もアプリも毎日履歴を調べられるのよ。恋愛厳禁! 男に使う時間があるなら、少しでも多く練習しなさいって」
確かに気の毒な話ではあった。
真山教授の厳しさは有名で、彼が受け持つピアノ実技は藤芳音大では最難関科目として知れわたっているし、その苛烈なダメ出しに泣きだす学生も数多い。
それを思えば調の異様なテンションも理解できないではないが、哲朗には問題がそれだけとは思えなかった。
実際いくらベートーヴェンを熱く語ったところで、合コンで男子は落とせないだろう。ましてそれから先のあれこれなどクリアできはずがない。
(ズレてるな……完璧に)
しかしうっかりそれを口に出してしまったために、こんなふうに彼女とラブホテルに入るはめになったのである。
「真山さん、ひとつ忠告させてください。めくるめく一夜のためにはもう少し話題を選んだ方がいいですよ」
「それ、どういう意味?」
「だからベートーヴェンじゃなくて」
「じゃ、ショパン?」
「いやいや」
「そんなに私のやり方がまずいなら、椎名くんが実際に手本を見せてくれればいいじゃないの。お持ち帰り度百パーセントで、『器学科のハンター』って言われてるんだしさ」
「ハンター?」
調は妙な具合にではあるが、とにかく哲朗の存在を知っていたのだ。
それも意外だったが、さらに驚かされたのはその頑固さだ。
どんなに説得を試みても、調は決して家に帰るとは言わなかった。とにかく「手本を見せろ」と繰り返して譲らない。
けれどここに来るまでは一歩も引かなかったくせに、今はすっかり固まってしまっている。
ピンクがかった薄暗い照明、ミラー張りの天井、紫のサテン地のベッドカバーがかかったキングサイズのベッド――ラブホテルという未知の世界で、どうふるまえばいいかわからないのだろう。
「あ、ピ、ピ、ピアノだ!」
うろたえきって部屋を見回していた調が、声を上げた。
それがエクセレント・ラグジュアリー・ルームの売りなのか、奥の方にアップライトの白いピアノが置かれていたのだ。
「すごいわね、椎名くん。このホテル、ピアノがあるわ!」
調は救われたようにピアノに駆け寄った。
哲朗は思わず微笑んでしまう。あからさまに動揺する姿がかわいく見えたのだ。今どきなかなかここまで取り乱す子はいない。
だが、問題はこれからどうするかだ。「手本を見せろ」と言われても、さすがに彼女には何をどうすればいいか見当がつかない。
(うーん)
これまではコトの手順なんて、改めて考えたこともなかった。教えろと言われても、そんなものはその場の流れというか、ケース・バイ・ケースだし。
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