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「えっ?」
哲朗は思わず相手を二度見した。
実は音大にはフォーマルな服装の女子がけっこういる。きちんとした格好を好む教授も多いし、大げさな恰好にも納得できたが……彼女に見覚えはなかった。
規模の小さな大学だから、知り合いでなくても顔くらいはわかりそうなものなのに――。
もっとも最近は前にもまして、授業をサボり気味だからかもしれないが。
「 真山調と申します」
「ええっ!」
哲朗は声が引っくり返ってしまったが、彼女は淡々と話し続けた。
「長調とか単調の調という字を書いて、しらべと読みます。器楽科で、ピアノ専攻の三年生です。最も敬愛している作曲家は楽聖ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンで、来月の学内コンサートでも彼の曲を弾きます」
哲朗は息をするのも忘れて固まっていた。
(ま、真山調? 真山って……まさか例のあれか?)
真山はそうそう聞く名字ではないし、調にいたってはもっと稀だろう。
真山調――実物に会うのは初めてだが、学内でその名を知らない者はまずいない、それはもういろいろな意味で。
「みなさんは、ベートーヴェンの曲では何が一番好きですか。私はピアノを弾くので、やっぱりピアノソナタに心惹かれてしまいますけど」
ピンクの唇から、まったく合コン向きとはいえない質問が飛び出した。
そして答える者は――いない。
(おいおい)
それでも嬉々とした、しかも興奮しているらしく少し上ずった声は止まらない。
「ああ、わかります! 迷っちゃいますよね」
本人は微妙な沈黙に気づいていなかった。明らかにここでベートーヴェンは唐突過ぎるのに。
「私も同じなんです。だって、すばらしい曲が多過ぎると思いませんか?」
やはり反応はない。
真山調は、高名なピアニストで藤芳音大の教授でもある父のもと、高校時代から国内外のコンクールで華々しい成功をおさめている。
すでにプロのオーケストラと何度も共演しており、近々CDデビューも決まっている。学内ではスター的存在と言ってもよかった。
そういえば、とびきりの美人だとも聞いていたが――。
「確かに名曲ばかりですけど……交響曲? それともコンチェルトがいいですか? あ、もちろんご存じでしょうけれど、彼はオペラも書いているんですよ。たった一作ですが、その『フィディリオ』は、序曲の『レオノ―レ』が有名で――」
調はあいかわらず小さな声で、だが身を乗り出し、たたみかけるようにして対面の男子たちに話しかけていた。
一方の彼らは明らかに引き気味で、友人であるはずの女子たちもしらけかけているが、本人はまったく気づいていない。
実は、彼女にはもうひとつの噂があった。
音楽バカの変人――頭の中はピアノ一色で、他にはまったく興味を示さないという。
授業が終わるやいなやレッスン室に閉じこもってしまうので、キャンパスではほとんどその姿を見かけず、たまに遭遇しても意味不明な言動が多く、意思の疎通が困難だと聞いている。
そのせいか、『ピアノ姫』などと呼ばれているのだった。時には前に「変人」がつくこともある。
血統の良さと華麗なキャリアを羨まれつつ、相当な変わり者ぶりを揶揄されてもいるのだが、今の様子を見るかぎり、どうやらそれは限りなく事実らしい。
『調』なんていかにもな名前をつけられたら、そこまで音楽にのめり込むのも無理はないかもしれない。
だけど合コンの席でこれはまず過ぎた。彼女以外のメンバーはすっかり途方に暮れ、しらけかけているのだ。
哲朗は事態を収拾するべく、今日の幹事である親友の深井をつついた。
「おい、深井、乾杯だ。早く乾杯しようぜ」
そこで調のグラスに目が止まった。
グループの十人中九人がシャンパンをオーダーしていたが、彼女の前に置かれているのはどう見てもオレンジジュースだ。ここはソムリエがいるような、評判のワインバーだというのに。
つくづく子どもなみにマイペースだと思ってから、もしかしたらアルコールがだめなのかもと気がついた。まあ、ふつう乾杯くらいはつき合うものだけど。
哲朗は取りあえず、みんなと共に笑顔でグラスを掲げた。
周囲が乾杯の態勢に入ったことに気づいたらしく、調が口をつぐみ、慌てた様子でグラスに手を伸ばすのが見えた。
「それじゃま、今夜の出会いを祝して乾杯!」
深井の音頭で、グラスを合わせる音が響き、テーブルがようやくなごみ始める。
「……やれやれ」
哲朗はこっそりため息をついた。
真山調は噂どおりに変人だが、場の雰囲気が変われば、あとはどうだっていい。
もともとよく知らないし、専攻も違うし、合コンで偶然同席しただけの相手だ。何を飲もうと、うまく空気が読めないヤツだろうと自分には関係ない――はずだった。
それなのに約二時間後、哲朗はトイレで苦しむ彼女の背中を懸命にさするはめになってしまった。
哲朗は思わず相手を二度見した。
実は音大にはフォーマルな服装の女子がけっこういる。きちんとした格好を好む教授も多いし、大げさな恰好にも納得できたが……彼女に見覚えはなかった。
規模の小さな大学だから、知り合いでなくても顔くらいはわかりそうなものなのに――。
もっとも最近は前にもまして、授業をサボり気味だからかもしれないが。
「 真山調と申します」
「ええっ!」
哲朗は声が引っくり返ってしまったが、彼女は淡々と話し続けた。
「長調とか単調の調という字を書いて、しらべと読みます。器楽科で、ピアノ専攻の三年生です。最も敬愛している作曲家は楽聖ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンで、来月の学内コンサートでも彼の曲を弾きます」
哲朗は息をするのも忘れて固まっていた。
(ま、真山調? 真山って……まさか例のあれか?)
真山はそうそう聞く名字ではないし、調にいたってはもっと稀だろう。
真山調――実物に会うのは初めてだが、学内でその名を知らない者はまずいない、それはもういろいろな意味で。
「みなさんは、ベートーヴェンの曲では何が一番好きですか。私はピアノを弾くので、やっぱりピアノソナタに心惹かれてしまいますけど」
ピンクの唇から、まったく合コン向きとはいえない質問が飛び出した。
そして答える者は――いない。
(おいおい)
それでも嬉々とした、しかも興奮しているらしく少し上ずった声は止まらない。
「ああ、わかります! 迷っちゃいますよね」
本人は微妙な沈黙に気づいていなかった。明らかにここでベートーヴェンは唐突過ぎるのに。
「私も同じなんです。だって、すばらしい曲が多過ぎると思いませんか?」
やはり反応はない。
真山調は、高名なピアニストで藤芳音大の教授でもある父のもと、高校時代から国内外のコンクールで華々しい成功をおさめている。
すでにプロのオーケストラと何度も共演しており、近々CDデビューも決まっている。学内ではスター的存在と言ってもよかった。
そういえば、とびきりの美人だとも聞いていたが――。
「確かに名曲ばかりですけど……交響曲? それともコンチェルトがいいですか? あ、もちろんご存じでしょうけれど、彼はオペラも書いているんですよ。たった一作ですが、その『フィディリオ』は、序曲の『レオノ―レ』が有名で――」
調はあいかわらず小さな声で、だが身を乗り出し、たたみかけるようにして対面の男子たちに話しかけていた。
一方の彼らは明らかに引き気味で、友人であるはずの女子たちもしらけかけているが、本人はまったく気づいていない。
実は、彼女にはもうひとつの噂があった。
音楽バカの変人――頭の中はピアノ一色で、他にはまったく興味を示さないという。
授業が終わるやいなやレッスン室に閉じこもってしまうので、キャンパスではほとんどその姿を見かけず、たまに遭遇しても意味不明な言動が多く、意思の疎通が困難だと聞いている。
そのせいか、『ピアノ姫』などと呼ばれているのだった。時には前に「変人」がつくこともある。
血統の良さと華麗なキャリアを羨まれつつ、相当な変わり者ぶりを揶揄されてもいるのだが、今の様子を見るかぎり、どうやらそれは限りなく事実らしい。
『調』なんていかにもな名前をつけられたら、そこまで音楽にのめり込むのも無理はないかもしれない。
だけど合コンの席でこれはまず過ぎた。彼女以外のメンバーはすっかり途方に暮れ、しらけかけているのだ。
哲朗は事態を収拾するべく、今日の幹事である親友の深井をつついた。
「おい、深井、乾杯だ。早く乾杯しようぜ」
そこで調のグラスに目が止まった。
グループの十人中九人がシャンパンをオーダーしていたが、彼女の前に置かれているのはどう見てもオレンジジュースだ。ここはソムリエがいるような、評判のワインバーだというのに。
つくづく子どもなみにマイペースだと思ってから、もしかしたらアルコールがだめなのかもと気がついた。まあ、ふつう乾杯くらいはつき合うものだけど。
哲朗は取りあえず、みんなと共に笑顔でグラスを掲げた。
周囲が乾杯の態勢に入ったことに気づいたらしく、調が口をつぐみ、慌てた様子でグラスに手を伸ばすのが見えた。
「それじゃま、今夜の出会いを祝して乾杯!」
深井の音頭で、グラスを合わせる音が響き、テーブルがようやくなごみ始める。
「……やれやれ」
哲朗はこっそりため息をついた。
真山調は噂どおりに変人だが、場の雰囲気が変われば、あとはどうだっていい。
もともとよく知らないし、専攻も違うし、合コンで偶然同席しただけの相手だ。何を飲もうと、うまく空気が読めないヤツだろうと自分には関係ない――はずだった。
それなのに約二時間後、哲朗はトイレで苦しむ彼女の背中を懸命にさするはめになってしまった。
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