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無常なる雨夜
第五話 謝霊と張慧明、水死体の同居人を訪ねること
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次の日、私は朝早くから謝霊の事務所の呼び鈴を鳴らしていた。未だ容赦なく照りつける太陽の下、なけなしの日陰に入って待っていると、扉を開けて出てきたのは一匹の白猫だった。
白猫は私の姿を認めると、異様に長い四つ脚を駆って私の脛に突進してきた——謝霊の飼い猫で、なぜか私を気に入っているらしい七白《チーバイ》だ。ひょろりと長い体が特徴で、後ろ脚で立つと私の腰に鼻の頭が付くほどだ。ぐいぐいとじゃれついてくる七白に苦戦していると、今度はずんぐりと丸っこい黒猫が音もなくやって来て足元に座った。漆黒の毛皮に月のようにぽっかり浮かんだ一対の目が七白に押されてよろめく私をじっと見上げている。
「っ八黒《バーヘイ》、そこで見てないで、君の友だちを止めてくれるか」
私が頼み込むと八黒はミャオと鳴いて立ち上がり、なんと七白と一緒になって私の足にまとわりついてきた。腿を押してくる七白に私はついに均衡を崩し、両足の間に収まろうとする八黒を蹴り飛ばさないようにしながら器用に尻餅をつく羽目になってしまった。
「おはようございます、慧明兄」
どっかりとのしかかってきた七白にあごを舐められながら痛む腰をさすっていると、愉しげな謝霊の声が降ってくる。顔を上げると、いかにも笑いをこらえていますと言わんばかりに口元に手を置いた謝霊が私を見下ろしていた。
「どうも。謝霊兄」
じっとりと睨み返すと、あろうことか謝霊はぷっと吹き出した。
「いやすみません、彼らが私以外をここまで気に入ったことがないもので。ほら、七白、八黒、こっちにおいで」
取り繕うように謝霊は七白と八黒と呼び寄せた。すると二匹はするりと私から離れ、飼い主の足元に戻っていく。
「まったく、慧明兄を困らせてはいけないと言っただろう? 今日は大人しく留守番しているんだよ、分かったね」
謝霊は二匹を軽く撫でてから中に入るよう促した。しかし、小言を言っているような口ぶりとは裏腹に、その目は楽しくて仕方がないというふうに細められている。
それでも七白と八黒は謝霊の言うとおりに玄関の中に戻り、ちょこんと座って扉を閉める飼い主を見送った。
「すみませんねえ。大丈夫でしたか?」
謝霊はようやく私の方を振り返った――とうに立ち上がっていた私は謝霊をもう一度睨みつけると、
「この通り平気ですよ」
と言い返した。
「なら良かった。ですが、あんまり怒ってやらないでくださいね。彼らが私以外をここまで気に入るのは本当に珍しいことなんです。依頼の客にはまず寄っていきませんし、李舵やレスター警部でさえも慧明兄ほどには懐かれていないので」
私は尻を払いながら生返事をした。そう言われても喜んでいいのか悪いのか分からない。
「そんなことより、行くならさっさと行きましょう。范救は同居人の名前を言わなかったんですから、早く行って探すに越したことはない」
私はそう言うとさっさと歩き出した。
***
虹口は元々アメリカが租界を置いていた界隈だ。その後様々な利害の一致によってアメリカ租界はイギリス租界と合体し、取り残された虹口には今は漢人が多く住んでいる。そのせいか、一歩立ち入ると西洋人には耐えられないという生活の匂いが充満する、どこか懐かしい空気が私たちを出迎えた。
用水路の傍では女性たちが馬桶を洗いながら世間話に興じている。焼餅の屋台からは早くも湯気と旨そうな匂いが漂い、どこかの家では母親が子どもを大声で起こしている。そんな中、通りをそそくさと歩いているのは近頃虹口に住みつきつつある日本からの勤め人だ。今や西洋諸国と遜色ない地位にある日本人も——いや、西洋に負けない地位にまで上り詰めたからこそだろう、彼らも私たちの生活の空気は不得手らしい。
そんな朝の風景が広がる中、謝霊と私は早速道ゆく人々に范救とその同居人のことを聞き始めた。幸いなことに、彼とその同居人は虹口の住人にはそこそこ知られた存在のようで、いつも二人で天秤棒を担いで歩いているだとか、天秤棒にはあらゆる品物が入っているだとか、時には滅多とお目にかかれない高級品をも二足三文で売っているだとか、そんな話がいくつも飛び出した。家の場所を知っている者もいくらかいた——彼らは皆、道沿いに漁の網を干している掘立小屋の隣に立つ古い四合院を指差して、あの一室に范救とその商売仲間兼同居人の逼安《ビーアン》が住んでいると告げた。
「しかしここ何日かは二人とも見ていないな。いつもなら毎日この辺りを歩いているんだが」
ただ、そう言って首を傾げる彼らに私たちは返す言葉を持たなかった。范救の死は工部警察が発表するまで——あるいはレスター警部が逼安に訃報を伝えるまでの間に私たちが勝手に言いふらせるものではないからだ。たしかに招魂の術を使えば一足飛びに答えが得られるが、世間を納得させるためには知り得た全てを裏付け、説得力を持たせなければならない——それが謝霊のやり方であり、「招魂探偵」としての矜持だった。
「しかしどうしましょう。もし警察がまだ訃報を伝えていないなら、どうやって逼安から話を聞きますか?」
私はひっそりとした四合院を横目で見ながら謝霊に聞いた。隣の掘立小屋からは住人が姿を現して干していた網を点検しているが、四合院にはまるで人気がない。
「そこなんですよねえ。少なくとも近隣の住民たちは范救のことを知らなさそうですし」
謝霊も珍しく困っているらしく、あごに手を置いて眉根を下げている。
「いっそのこと、思い切って踏み込んでみますか。警部が昨夜のうちに伝えていることに賭けて」
「……こういう時に七白でもいたら、上手く口実をでっち上げられたんでしょうかね」
私はぽつりと呟いた。
ところが、適当な思いつきのつもりだったこの一言に謝霊がにわかに食いついた。
「それです!」
謝霊は目を爛々と輝かせ、私にぐいと体を近づけてきた。
「名案ですよ慧明兄! 実は慧明兄に気を取られすぎると困るので留守番させることにしたんですが、やはりあいつがいないと何かと難儀しますね」
謝霊は喋りながら裏路地へと私を追いやった。抗議の声を上げる隙もないままに私は家の壁際に押しつけられ、その上全身を探るように撫で回される。
「どうやら慧明兄も七白が気に入ってきたようですね。あいつもきっと喜びますよ、なんたって大好きな慧明兄が捜査の手伝いに自分を指名してくれたんですから……」
「分かった! 分かったから、ひとまずそれをやめてください!」
私はついに耐えかねて悲鳴を上げ、謝霊の体を思いきり突き放した——が、それを見越したように謝霊が身を引いて、私は半ばつんのめるように謝霊から解放された。
「大変失礼いたしました。ですがこれで七白を呼び出せますよ」
謝霊はさして悪びれもせずに謝ると、指でつまんだものを私の鼻先に突きつけた。朝日を浴びて淡く光っているのは白い猫の毛だ。
謝霊は反対の手で印を結び、何やらぶつぶつと唱えて白い毛を宙に放った。瞬きをするほどの間にも数本の毛はひょろ長い白猫に変化し、現れた七白は器用に体をひねって軽々と地面に着地する。
「いきなり呼び出してすまないね、七白」
現れるなり飼い主を威嚇した七白に謝霊が笑いながら声をかける。
「でも、慧明兄がお前がいてほしいって言ったから出てきてもらったんだよ。辛抱してくれるかい?」
謝霊にそう言われた途端七白は怒りを引っ込め、それどころか甘えるように鳴きながら私の足に突進してきた——ところが、とっさに踏ん張った私の足には何の感触もない。私が首を傾げていると、謝霊が顔を寄せて
「魂だけを呼び出して毛に憑依させたんです。本当の肉体は事務所で眠っていますよ」
とささやいた。
「ともあれ、今は作戦開始と行きましょう。……七白、あの四合院を見てくれ。気に入ったかい?」
謝霊はしゃがみ込んで七白の幻影に話しかけた。七白が大人しく尻尾を一振りして答えると、謝霊はにやりと笑って告げた。
「よし。じゃあ遊んできていいぞ」
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「おはようございます、慧明兄」
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「どうも。謝霊兄」
じっとりと睨み返すと、あろうことか謝霊はぷっと吹き出した。
「いやすみません、彼らが私以外をここまで気に入ったことがないもので。ほら、七白、八黒、こっちにおいで」
取り繕うように謝霊は七白と八黒と呼び寄せた。すると二匹はするりと私から離れ、飼い主の足元に戻っていく。
「まったく、慧明兄を困らせてはいけないと言っただろう? 今日は大人しく留守番しているんだよ、分かったね」
謝霊は二匹を軽く撫でてから中に入るよう促した。しかし、小言を言っているような口ぶりとは裏腹に、その目は楽しくて仕方がないというふうに細められている。
それでも七白と八黒は謝霊の言うとおりに玄関の中に戻り、ちょこんと座って扉を閉める飼い主を見送った。
「すみませんねえ。大丈夫でしたか?」
謝霊はようやく私の方を振り返った――とうに立ち上がっていた私は謝霊をもう一度睨みつけると、
「この通り平気ですよ」
と言い返した。
「なら良かった。ですが、あんまり怒ってやらないでくださいね。彼らが私以外をここまで気に入るのは本当に珍しいことなんです。依頼の客にはまず寄っていきませんし、李舵やレスター警部でさえも慧明兄ほどには懐かれていないので」
私は尻を払いながら生返事をした。そう言われても喜んでいいのか悪いのか分からない。
「そんなことより、行くならさっさと行きましょう。范救は同居人の名前を言わなかったんですから、早く行って探すに越したことはない」
私はそう言うとさっさと歩き出した。
***
虹口は元々アメリカが租界を置いていた界隈だ。その後様々な利害の一致によってアメリカ租界はイギリス租界と合体し、取り残された虹口には今は漢人が多く住んでいる。そのせいか、一歩立ち入ると西洋人には耐えられないという生活の匂いが充満する、どこか懐かしい空気が私たちを出迎えた。
用水路の傍では女性たちが馬桶を洗いながら世間話に興じている。焼餅の屋台からは早くも湯気と旨そうな匂いが漂い、どこかの家では母親が子どもを大声で起こしている。そんな中、通りをそそくさと歩いているのは近頃虹口に住みつきつつある日本からの勤め人だ。今や西洋諸国と遜色ない地位にある日本人も——いや、西洋に負けない地位にまで上り詰めたからこそだろう、彼らも私たちの生活の空気は不得手らしい。
そんな朝の風景が広がる中、謝霊と私は早速道ゆく人々に范救とその同居人のことを聞き始めた。幸いなことに、彼とその同居人は虹口の住人にはそこそこ知られた存在のようで、いつも二人で天秤棒を担いで歩いているだとか、天秤棒にはあらゆる品物が入っているだとか、時には滅多とお目にかかれない高級品をも二足三文で売っているだとか、そんな話がいくつも飛び出した。家の場所を知っている者もいくらかいた——彼らは皆、道沿いに漁の網を干している掘立小屋の隣に立つ古い四合院を指差して、あの一室に范救とその商売仲間兼同居人の逼安《ビーアン》が住んでいると告げた。
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ただ、そう言って首を傾げる彼らに私たちは返す言葉を持たなかった。范救の死は工部警察が発表するまで——あるいはレスター警部が逼安に訃報を伝えるまでの間に私たちが勝手に言いふらせるものではないからだ。たしかに招魂の術を使えば一足飛びに答えが得られるが、世間を納得させるためには知り得た全てを裏付け、説得力を持たせなければならない——それが謝霊のやり方であり、「招魂探偵」としての矜持だった。
「しかしどうしましょう。もし警察がまだ訃報を伝えていないなら、どうやって逼安から話を聞きますか?」
私はひっそりとした四合院を横目で見ながら謝霊に聞いた。隣の掘立小屋からは住人が姿を現して干していた網を点検しているが、四合院にはまるで人気がない。
「そこなんですよねえ。少なくとも近隣の住民たちは范救のことを知らなさそうですし」
謝霊も珍しく困っているらしく、あごに手を置いて眉根を下げている。
「いっそのこと、思い切って踏み込んでみますか。警部が昨夜のうちに伝えていることに賭けて」
「……こういう時に七白でもいたら、上手く口実をでっち上げられたんでしょうかね」
私はぽつりと呟いた。
ところが、適当な思いつきのつもりだったこの一言に謝霊がにわかに食いついた。
「それです!」
謝霊は目を爛々と輝かせ、私にぐいと体を近づけてきた。
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謝霊はさして悪びれもせずに謝ると、指でつまんだものを私の鼻先に突きつけた。朝日を浴びて淡く光っているのは白い猫の毛だ。
謝霊は反対の手で印を結び、何やらぶつぶつと唱えて白い毛を宙に放った。瞬きをするほどの間にも数本の毛はひょろ長い白猫に変化し、現れた七白は器用に体をひねって軽々と地面に着地する。
「いきなり呼び出してすまないね、七白」
現れるなり飼い主を威嚇した七白に謝霊が笑いながら声をかける。
「でも、慧明兄がお前がいてほしいって言ったから出てきてもらったんだよ。辛抱してくれるかい?」
謝霊にそう言われた途端七白は怒りを引っ込め、それどころか甘えるように鳴きながら私の足に突進してきた——ところが、とっさに踏ん張った私の足には何の感触もない。私が首を傾げていると、謝霊が顔を寄せて
「魂だけを呼び出して毛に憑依させたんです。本当の肉体は事務所で眠っていますよ」
とささやいた。
「ともあれ、今は作戦開始と行きましょう。……七白、あの四合院を見てくれ。気に入ったかい?」
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