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無常なる雨夜
第一話 河口で水死体が上がること
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大雨のせいで荒れ狂っていた川も、三日も経てば元の様子を取り戻しつつある。サー・モリソンの用事を済ませた帰り道、うだるような暑さの中を呉淞江沿いに歩いていた私は、ふと前方に人だかりがあるのを見つけた。
近付いてみると誰か川に落ちたのか、幾艘かの小舟に分かれて作業している警察官を皆で見物しているらしかった。呉淞江が黄浦江と合流する辺り、所謂外灘の方まで行けばどこそこの船員が誤って川に落ちた、などという事故が時折起こるが、この辺りまで入ってくると何らかの原因で足を踏み外すか、故意に飛び込みでもしない限り、人が川に落ちることはない。西洋人も漢人も一緒になって川を覗き込んでいる中に混じった私が見たものはしかし、白くふやけて膨張し、早くも肉がところどころ腐って落ちている水死体が工部警察の手によって揚げられる場面だった。
警察官たちは小舟を円形に浮かべて引き揚げ作業をしていたが、それでも死体の影が見えた瞬間、野次馬は一斉に大小の叫び声を上げた。中には卒倒した者もいるのか、大丈夫かと呼びかける声も聞こえてくる。かく言う私も、にわかに起こった吐き気を飲み込まなければならなかった――どんな場面であれ、死体をこの目で見るのはいい気分のするものではない。
「一昨日の雨で溺れたんだろうな。かわいそうに」
隣に立っていた男がぽつりと独り言つ。こんな場面なのだから二言三言返しておくのが礼儀だろうとは思ったものの、この時には私は野次馬から離脱することを決めていた。早く帰って次の仕事をしよう、そう思って返事もせずに踵を返した私の前には、丸眼鏡の奥で人の良い笑みを浮かべる長身の男が立っていた。
西洋人に勝るとも劣らない長身痩躯。細い体を包む深い紅の旗袍。腰に届きそうなほど長い黒髪はうなじで一本の三つ編みにまとめられ、動くたびにふわりと揺れる。細く形の良い手には薄い紫煙をたなびかせる煙管が乗っている。
男と私の視線がかち合い、男の笑みがより一層深くなる。一方の私は、口をあんぐり開けたまま彼を見つめることしかできなかった。
「お久しぶりです、慧明兄。こんなところで会うなんて奇遇ですね」
彼はこちらの逃げ道を塞ぐかのように自分から口を利いた——挨拶と共に吐かれた煙がふわりと彼の顔を覆う。忘れもしない、彼こそがこの上海で知る人ぞ知る、「招魂探偵」こと謝霊だった。
「しかし人というのは不思議なものですね。見たくないものをわざわざ見に人だかりまで作ってしまう。どうやらあなたも例外ではないようですね、慧明兄」
「……今まさに自分の野次馬根性を恨んでいるところですよ。謝霊兄」
私は低い声で言い返した。この手のものに全く動じない謝霊と人並に嫌悪感を抱く私とでは根本的にそりが合わない。一度は彼と一緒にクリスティン・フォスター嬢殺害事件の真犯人を暴いたものの、彼とはやはり顔を合わせないことに越したことはないというのが私の思いだった。それなのに、上海の街角で、しかも今まさに死体が引き上げられたというときに彼と再会してしまった。厄介なことこの上ない——正直なところ、このときの私は、その思いで頭がいっぱいになっていた。
「そういう謝霊兄はなぜここに?」
それでも礼儀は礼儀だ。会話を続けることに決めた私に、謝霊は煙管をふかしながらにっこり笑いかけた。
「少し散歩をと思いましてね。天気も良くなったことですし」
謝霊はちらりと空を見上げたが、すぐに視線をこちらに戻した。
「ですが思わぬ収穫がありましたよ。ちょうど今は依頼もないので、しばらくはこの水死体にお付き合いするとします」
そう言った謝霊の目はもう笑ってはいなかった——代わりに、仕事に取りかかるときの鋭い眼差しが人だかりの向こうに向けられている。
「これは私の勘なのですが、あの水死体が死んだのはおそらくここではない。川でもないのではないでしょうか」
至極真面目に宣言した謝霊だったが、私は首を傾げざるを得なかった。河口で上がった水死体が川で溺れていないなんてことが果たしてあるのだろうか?
すると、先ほど雨で流されたのかと呟いていた男が謝霊に話しかけた。
「なんだってまたそんなことを言うんだい? 川じゃないなら海に落ちて溺れたとでも?」
「……いや。海でもないと思います」
謝霊は整った眉間にしわを寄せ、しかしはっきりと断言した。
「ここらは海に近いですが、海に流れ着く前に上がってきたということは海では溺れていないでしょう。ですが水辺で溺れたわけでもないでしょうね……なぜなら、ここには彼の気配がない。たとえ自分で決めて溺れたのだとしても、死ぬ瞬間の恐怖はそう拭えるものではありませんから。この手の強い恐怖は得てして彼を、自分が死んだ場所や死んだ方法に縛り付けます。ですがここにはそれがない……ということは、彼はこの付近では死んでいないということではないかと思うのです」
男と私は黙って謝霊の言葉を聞いていたが、おそらく同じことを考えていたと思う。その証拠に、男は謝霊の頭がおかしいと言わんばかりに彼を一瞥し、何も言わずに立ち去ってしまった。
私はその背中を見送ると謝霊の方に向き直った。謝霊は気にしないでくださいと言って笑ったが、笑顔が明らかに曇っている。
「よくあることなんです。小さい頃は家族にも間に受けてもらまえませんでしたし、もう慣れましたから」
「……そんな、」
「慧明兄も、無理に同調しなくて良いのですよ。おかしなことを言っているのは分かっています」
謝霊はそう言うと、煙管を咥えて大きく息を吸い込んだ。その目は舟を岸に着け、担架に乗せた水死体を運び出そうとしている警察官たちを注視している。
私にはその横顔がどこか寂しそうに思えた――が、次の瞬間、謝霊は突然煙管を口から外してがばりと手を上げた。
「李舵!」
手を振りながら大声で呼ばわる謝霊に、警察官の一人がぱっと振り向く。彼は隣にいた警察官に何やら話しかけると、同僚たちから離れて私たちの方へとやってきた。
李舵は顔つきも体つきも特に目立つところのない漢人の男だった。謝霊と同様人好きのする顔で笑うが、彼の方が何倍も純粋で屈託のない笑みを見せるように思える。
その上、李舵はいそいそと小走りで人混みをかき分けてきた。謝霊に会えるのがよほど嬉しいのか、謝霊に手を振り返しながら「謝霊先生!」と大声を出している。
「謝霊先生、奇遇ですね! 残念ながら我々はもう撤退するところなのですが、今日は何のご用でしょう?」
李舵は申し訳なさそうに眉を下げながら言った。その声音といい、表情といい、一挙手一投足に純朴さがにじみ出ているようだ。
「先ほど上がった水死体が気になりましてね。ただの水難事故ではないような気がするのです」
先ほどまでの影はどこへやら、謝霊は打って変わって人の良い笑みを浮かべている。一方の李舵は謝霊の言葉を聞くなりおおっと声を上げて、まるで秘密を共有する仲間のように顔をぐっと近づけた。
「もしかして、例の勘がそう言っているんですか?」
「ええ。そのもしかして、です」
謝霊も一緒になって声をひそめ、さらに片目をぱちりと瞑ってみせる。李舵は俄然瞳を輝かせ、すでに撤退を始めている同僚たちの方をちらりと指さした。
「実はここの指揮はレスター警部が取っているのですが……お会いになりますか?」
「それは重畳。是非ともご挨拶させていただきたい」
謝霊が答えると、李舵は威勢よく頷いて同僚の中へと戻っていった。
謝霊は今や李舵の純朴さが移ったかのように機嫌よく笑っている。
「そうだ、慧明兄。もしこの後お暇なら、一緒にレスター警部に会ってくれませんか? 私としても助手を紹介したいですし、これから何度もお世話になることと思いますから」
私は帰って片付けようと思っていた仕事のことを思い返し、そのどうということのない中身に悪態をつきそうになった。同時に、これ以上首を突っ込むとますます厄介なことになるぞと頭の片隅から忠告の声がする。
しかし私は首を縦に振った。これも勘というものなのだろうか、ここで断ると後悔するような気がしたのだ。
謝霊は満足げに煙を吐くと、李舵と一緒にこちらを見ている英国人に向かって鷹揚に手を上げた。
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警察官たちは小舟を円形に浮かべて引き揚げ作業をしていたが、それでも死体の影が見えた瞬間、野次馬は一斉に大小の叫び声を上げた。中には卒倒した者もいるのか、大丈夫かと呼びかける声も聞こえてくる。かく言う私も、にわかに起こった吐き気を飲み込まなければならなかった――どんな場面であれ、死体をこの目で見るのはいい気分のするものではない。
「一昨日の雨で溺れたんだろうな。かわいそうに」
隣に立っていた男がぽつりと独り言つ。こんな場面なのだから二言三言返しておくのが礼儀だろうとは思ったものの、この時には私は野次馬から離脱することを決めていた。早く帰って次の仕事をしよう、そう思って返事もせずに踵を返した私の前には、丸眼鏡の奥で人の良い笑みを浮かべる長身の男が立っていた。
西洋人に勝るとも劣らない長身痩躯。細い体を包む深い紅の旗袍。腰に届きそうなほど長い黒髪はうなじで一本の三つ編みにまとめられ、動くたびにふわりと揺れる。細く形の良い手には薄い紫煙をたなびかせる煙管が乗っている。
男と私の視線がかち合い、男の笑みがより一層深くなる。一方の私は、口をあんぐり開けたまま彼を見つめることしかできなかった。
「お久しぶりです、慧明兄。こんなところで会うなんて奇遇ですね」
彼はこちらの逃げ道を塞ぐかのように自分から口を利いた——挨拶と共に吐かれた煙がふわりと彼の顔を覆う。忘れもしない、彼こそがこの上海で知る人ぞ知る、「招魂探偵」こと謝霊だった。
「しかし人というのは不思議なものですね。見たくないものをわざわざ見に人だかりまで作ってしまう。どうやらあなたも例外ではないようですね、慧明兄」
「……今まさに自分の野次馬根性を恨んでいるところですよ。謝霊兄」
私は低い声で言い返した。この手のものに全く動じない謝霊と人並に嫌悪感を抱く私とでは根本的にそりが合わない。一度は彼と一緒にクリスティン・フォスター嬢殺害事件の真犯人を暴いたものの、彼とはやはり顔を合わせないことに越したことはないというのが私の思いだった。それなのに、上海の街角で、しかも今まさに死体が引き上げられたというときに彼と再会してしまった。厄介なことこの上ない——正直なところ、このときの私は、その思いで頭がいっぱいになっていた。
「そういう謝霊兄はなぜここに?」
それでも礼儀は礼儀だ。会話を続けることに決めた私に、謝霊は煙管をふかしながらにっこり笑いかけた。
「少し散歩をと思いましてね。天気も良くなったことですし」
謝霊はちらりと空を見上げたが、すぐに視線をこちらに戻した。
「ですが思わぬ収穫がありましたよ。ちょうど今は依頼もないので、しばらくはこの水死体にお付き合いするとします」
そう言った謝霊の目はもう笑ってはいなかった——代わりに、仕事に取りかかるときの鋭い眼差しが人だかりの向こうに向けられている。
「これは私の勘なのですが、あの水死体が死んだのはおそらくここではない。川でもないのではないでしょうか」
至極真面目に宣言した謝霊だったが、私は首を傾げざるを得なかった。河口で上がった水死体が川で溺れていないなんてことが果たしてあるのだろうか?
すると、先ほど雨で流されたのかと呟いていた男が謝霊に話しかけた。
「なんだってまたそんなことを言うんだい? 川じゃないなら海に落ちて溺れたとでも?」
「……いや。海でもないと思います」
謝霊は整った眉間にしわを寄せ、しかしはっきりと断言した。
「ここらは海に近いですが、海に流れ着く前に上がってきたということは海では溺れていないでしょう。ですが水辺で溺れたわけでもないでしょうね……なぜなら、ここには彼の気配がない。たとえ自分で決めて溺れたのだとしても、死ぬ瞬間の恐怖はそう拭えるものではありませんから。この手の強い恐怖は得てして彼を、自分が死んだ場所や死んだ方法に縛り付けます。ですがここにはそれがない……ということは、彼はこの付近では死んでいないということではないかと思うのです」
男と私は黙って謝霊の言葉を聞いていたが、おそらく同じことを考えていたと思う。その証拠に、男は謝霊の頭がおかしいと言わんばかりに彼を一瞥し、何も言わずに立ち去ってしまった。
私はその背中を見送ると謝霊の方に向き直った。謝霊は気にしないでくださいと言って笑ったが、笑顔が明らかに曇っている。
「よくあることなんです。小さい頃は家族にも間に受けてもらまえませんでしたし、もう慣れましたから」
「……そんな、」
「慧明兄も、無理に同調しなくて良いのですよ。おかしなことを言っているのは分かっています」
謝霊はそう言うと、煙管を咥えて大きく息を吸い込んだ。その目は舟を岸に着け、担架に乗せた水死体を運び出そうとしている警察官たちを注視している。
私にはその横顔がどこか寂しそうに思えた――が、次の瞬間、謝霊は突然煙管を口から外してがばりと手を上げた。
「李舵!」
手を振りながら大声で呼ばわる謝霊に、警察官の一人がぱっと振り向く。彼は隣にいた警察官に何やら話しかけると、同僚たちから離れて私たちの方へとやってきた。
李舵は顔つきも体つきも特に目立つところのない漢人の男だった。謝霊と同様人好きのする顔で笑うが、彼の方が何倍も純粋で屈託のない笑みを見せるように思える。
その上、李舵はいそいそと小走りで人混みをかき分けてきた。謝霊に会えるのがよほど嬉しいのか、謝霊に手を振り返しながら「謝霊先生!」と大声を出している。
「謝霊先生、奇遇ですね! 残念ながら我々はもう撤退するところなのですが、今日は何のご用でしょう?」
李舵は申し訳なさそうに眉を下げながら言った。その声音といい、表情といい、一挙手一投足に純朴さがにじみ出ているようだ。
「先ほど上がった水死体が気になりましてね。ただの水難事故ではないような気がするのです」
先ほどまでの影はどこへやら、謝霊は打って変わって人の良い笑みを浮かべている。一方の李舵は謝霊の言葉を聞くなりおおっと声を上げて、まるで秘密を共有する仲間のように顔をぐっと近づけた。
「もしかして、例の勘がそう言っているんですか?」
「ええ。そのもしかして、です」
謝霊も一緒になって声をひそめ、さらに片目をぱちりと瞑ってみせる。李舵は俄然瞳を輝かせ、すでに撤退を始めている同僚たちの方をちらりと指さした。
「実はここの指揮はレスター警部が取っているのですが……お会いになりますか?」
「それは重畳。是非ともご挨拶させていただきたい」
謝霊が答えると、李舵は威勢よく頷いて同僚の中へと戻っていった。
謝霊は今や李舵の純朴さが移ったかのように機嫌よく笑っている。
「そうだ、慧明兄。もしこの後お暇なら、一緒にレスター警部に会ってくれませんか? 私としても助手を紹介したいですし、これから何度もお世話になることと思いますから」
私は帰って片付けようと思っていた仕事のことを思い返し、そのどうということのない中身に悪態をつきそうになった。同時に、これ以上首を突っ込むとますます厄介なことになるぞと頭の片隅から忠告の声がする。
しかし私は首を縦に振った。これも勘というものなのだろうか、ここで断ると後悔するような気がしたのだ。
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