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殺された歌姫
第六話 謝霊と張慧明、事件の現場に立ち入ること
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私は謝霊の後ろに回ると、一緒になって警察でもらった資料を読み始めた。
それによると事件のあらましはこうだ。
まず、クリスティン・フォスターを首を絞めて殺害したのはこの劇場に勤める衣装係の沈という男となっていた。彼は事件の夜、裏に残ってその日の公演に使われた衣装に汚れや不具合がないか点検していたという。その途中、ドレスが一着見当たらないことに気づいて女性出演者の楽屋を回っていたと沈は証言した。マダム・フォスターの楽屋も訪れた。しかしノックをしても返事がなく、ドレスも見つからないままだったため、彼は他の仕事を済ませるとこの日は家に帰った——この間彼はずっと一人だったこと、身の丈およそ六尺半と漢人にしてはかなり背が高いこと、さらにマダム・フォスターの楽屋から歩いていく姿が目撃されていたことに加えて衣装が何着か紛失していたことが重なって、彼は容疑者として逮捕されたのだった。
そこまでを読むと謝霊はふむと呟き、パラパラと紙をめくると別の頁に目を止めた。私も後ろからその頁を覗き込んだ。
「……被害者はドアノブから紐で吊るされ、扉に寄りかかるような体勢で発見された。遺体には争った跡こそないものの、下肢には失禁の跡、首に絞められた跡が二本、と。うち一本には首を掻きむしった跡も付いているため、そちらが殺害時に付いたものと思われる——か。たしかに首を絞めた跡がふたつもあれば、ドアノブで首を吊っての自殺とは考えにくい」
謝霊は独り言のように呟くと椅子から立ち上がった。それから扉に向かって歩いていったかと思うとおもむろに膝をつき、四つん這いになって床に貼りついた。
私は呆気に取られて彼の尻を見つめた。一体何を探しているのか、謝霊は肘と膝を交互に動かして向きを変えてはすり切れた絨毯を睨みつけ、さらには振り向いて、赤ん坊のような足取りでこちらにドスドス近付いてきた。私が慌てて飛びのくと謝霊は私が立っていたあたりで止まり、絨毯をじっと見つめてから「ハ!」と笑い声を上げた。
「これがそうか!」
「何がそうなんです?」
私が尋ねると、謝霊は四つん這いのまま振り向いて床の一点を指さした。私は謝霊の隣に膝をつくと、彼の指している場所をじっと見つめた。
そこには不思議な形の染みができていた。円とも楕円ともいえないいびつな丸い形をしているが、鏡台の側がそれなりの幅と長さに大きくへこんでいる。まさしく「凹」の字に見えなくもないその染みは、たしかに少しばかりの興味を引かれるものだ。しかし私には、この染みが笑い声を上げるほど見つけて嬉しいものとは思えなかった。
「……たしかに、面白い形の染みですが」
その場しのぎに私が言うと、謝霊は舌を三度鳴らしてかぶりを振った。
「全く分かっていないですね。先ほど警察の調査報告にクリスティン・フォスターの遺体には失禁の跡があったと書いてあったでしょう? その汚れを一晩も放置していれば水分はすっかり染み込んで乾いてしまうだろうし、警察もそう思ってよく調べていなかったのでしょう」
謝霊はそう言うと立ち上がり、私も立つように手で示した。しかし謝霊はまた私そっちのけで染みの周りを歩き始め、時折へこみを足でつついては考え込んでいる。やがて彼は片方の爪先をへこみに置くと何かを確信したように大きく頷いた。
「慧明兄、ちょっとここに立ってくれますか」
私は頷くと彼の正面に立った。しかし即座に手招きされ、私はそれに従うまま体がぶつかりそうなほど彼に接近する。謝霊は私に扉の方を向くように言うと、なんと私の脚の間に自分の脚を突っ込んできた。
「何するんですか!」
私が驚いて叫ぶと、謝霊はそれにも構わず手巾を私の首に巻き付けてきた!
必死で逃れようとする私の耳元で謝霊はいたって静かに言った。
「動かないで。自分がクリスティン・フォスター嬢だと思って、少しだけ我慢してください」
私は渋々ながら動きを止めた。後ろの謝霊をちらりと見ると、謝霊は手巾の端をゆるく持ったまま足元を見たり、置く足を変えたり位置を動かしたりしながら思考にふけっている。彼が足を動かすたびに私は両脚の内側を蹴られ、そのたびに本当に首を絞められながらすったもんだしている気分になる。私が耐えかねて文句を言おうとしたとき、謝霊はぱっと私を解放した。
「いや、失敬失敬。しかしこれで良いことが分かりましたよ」
謝霊はそう言うと、染みのへこみに左足をトンと置いた。
「先ほどの体勢で首を絞め、絞められた相手が尿を漏らせば、足を置いた場所がこんなふうにへこんで染みになるはずだ」
「……そうか。しかしそれでは、パドストンの着ていた旗袍も下肢の部分が汚れたはずでは?」
私が尋ねると、謝霊は「いかにも」と頷いた。
「すると今度は旗袍を探すのですか。しかし、見つかりますか? もう二か月も経っているし、何よりパドストンにとっては洗ってしまえばいいだけのことですよ?」
私がこう言うと、謝霊は自信ありげに口の端を持ち上げた。
「考えてもみてください、慧明兄。当時パドストンはパーティーを中座したフォスター嬢を追って自らもパーティーを抜け出し、わざわざ漢人に変装した上で彼女を殺害した。パーティーの客が舞台裏など彷徨いていては目立ちますからね、まあ妥当な策ではあるでしょう。しかし彼女は首を絞められた拍子に失禁し、変装用の服と靴は駄目になってしまった。さらに自分は早いことパーティーに戻って、適当な理由をつけてフォスター嬢の不在を正当化する仕事がある——となると、彼は汚れた衣服をこの部屋のどこかに隠したのでは?」
それによると事件のあらましはこうだ。
まず、クリスティン・フォスターを首を絞めて殺害したのはこの劇場に勤める衣装係の沈という男となっていた。彼は事件の夜、裏に残ってその日の公演に使われた衣装に汚れや不具合がないか点検していたという。その途中、ドレスが一着見当たらないことに気づいて女性出演者の楽屋を回っていたと沈は証言した。マダム・フォスターの楽屋も訪れた。しかしノックをしても返事がなく、ドレスも見つからないままだったため、彼は他の仕事を済ませるとこの日は家に帰った——この間彼はずっと一人だったこと、身の丈およそ六尺半と漢人にしてはかなり背が高いこと、さらにマダム・フォスターの楽屋から歩いていく姿が目撃されていたことに加えて衣装が何着か紛失していたことが重なって、彼は容疑者として逮捕されたのだった。
そこまでを読むと謝霊はふむと呟き、パラパラと紙をめくると別の頁に目を止めた。私も後ろからその頁を覗き込んだ。
「……被害者はドアノブから紐で吊るされ、扉に寄りかかるような体勢で発見された。遺体には争った跡こそないものの、下肢には失禁の跡、首に絞められた跡が二本、と。うち一本には首を掻きむしった跡も付いているため、そちらが殺害時に付いたものと思われる——か。たしかに首を絞めた跡がふたつもあれば、ドアノブで首を吊っての自殺とは考えにくい」
謝霊は独り言のように呟くと椅子から立ち上がった。それから扉に向かって歩いていったかと思うとおもむろに膝をつき、四つん這いになって床に貼りついた。
私は呆気に取られて彼の尻を見つめた。一体何を探しているのか、謝霊は肘と膝を交互に動かして向きを変えてはすり切れた絨毯を睨みつけ、さらには振り向いて、赤ん坊のような足取りでこちらにドスドス近付いてきた。私が慌てて飛びのくと謝霊は私が立っていたあたりで止まり、絨毯をじっと見つめてから「ハ!」と笑い声を上げた。
「これがそうか!」
「何がそうなんです?」
私が尋ねると、謝霊は四つん這いのまま振り向いて床の一点を指さした。私は謝霊の隣に膝をつくと、彼の指している場所をじっと見つめた。
そこには不思議な形の染みができていた。円とも楕円ともいえないいびつな丸い形をしているが、鏡台の側がそれなりの幅と長さに大きくへこんでいる。まさしく「凹」の字に見えなくもないその染みは、たしかに少しばかりの興味を引かれるものだ。しかし私には、この染みが笑い声を上げるほど見つけて嬉しいものとは思えなかった。
「……たしかに、面白い形の染みですが」
その場しのぎに私が言うと、謝霊は舌を三度鳴らしてかぶりを振った。
「全く分かっていないですね。先ほど警察の調査報告にクリスティン・フォスターの遺体には失禁の跡があったと書いてあったでしょう? その汚れを一晩も放置していれば水分はすっかり染み込んで乾いてしまうだろうし、警察もそう思ってよく調べていなかったのでしょう」
謝霊はそう言うと立ち上がり、私も立つように手で示した。しかし謝霊はまた私そっちのけで染みの周りを歩き始め、時折へこみを足でつついては考え込んでいる。やがて彼は片方の爪先をへこみに置くと何かを確信したように大きく頷いた。
「慧明兄、ちょっとここに立ってくれますか」
私は頷くと彼の正面に立った。しかし即座に手招きされ、私はそれに従うまま体がぶつかりそうなほど彼に接近する。謝霊は私に扉の方を向くように言うと、なんと私の脚の間に自分の脚を突っ込んできた。
「何するんですか!」
私が驚いて叫ぶと、謝霊はそれにも構わず手巾を私の首に巻き付けてきた!
必死で逃れようとする私の耳元で謝霊はいたって静かに言った。
「動かないで。自分がクリスティン・フォスター嬢だと思って、少しだけ我慢してください」
私は渋々ながら動きを止めた。後ろの謝霊をちらりと見ると、謝霊は手巾の端をゆるく持ったまま足元を見たり、置く足を変えたり位置を動かしたりしながら思考にふけっている。彼が足を動かすたびに私は両脚の内側を蹴られ、そのたびに本当に首を絞められながらすったもんだしている気分になる。私が耐えかねて文句を言おうとしたとき、謝霊はぱっと私を解放した。
「いや、失敬失敬。しかしこれで良いことが分かりましたよ」
謝霊はそう言うと、染みのへこみに左足をトンと置いた。
「先ほどの体勢で首を絞め、絞められた相手が尿を漏らせば、足を置いた場所がこんなふうにへこんで染みになるはずだ」
「……そうか。しかしそれでは、パドストンの着ていた旗袍も下肢の部分が汚れたはずでは?」
私が尋ねると、謝霊は「いかにも」と頷いた。
「すると今度は旗袍を探すのですか。しかし、見つかりますか? もう二か月も経っているし、何よりパドストンにとっては洗ってしまえばいいだけのことですよ?」
私がこう言うと、謝霊は自信ありげに口の端を持ち上げた。
「考えてもみてください、慧明兄。当時パドストンはパーティーを中座したフォスター嬢を追って自らもパーティーを抜け出し、わざわざ漢人に変装した上で彼女を殺害した。パーティーの客が舞台裏など彷徨いていては目立ちますからね、まあ妥当な策ではあるでしょう。しかし彼女は首を絞められた拍子に失禁し、変装用の服と靴は駄目になってしまった。さらに自分は早いことパーティーに戻って、適当な理由をつけてフォスター嬢の不在を正当化する仕事がある——となると、彼は汚れた衣服をこの部屋のどこかに隠したのでは?」
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