魔偶と越界の想い人

故水小辰

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第四章:再聚

第四十話

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 翌日、万松柏は比連を連れて暁晨子の部屋を訪れた。

 沈萍ほどではないが、やはり比連は暁晨子に良い印象を持っていないらしい。用意された椅子に座らず、万松柏の後ろに隠れてじっと暁晨子を睨む様子は、魔偶から元に戻ったばかりで人間に慣れていない頃の比連を思い出させる。

「大丈夫だ、比連。この方は老師せんせいのお知り合いだよ」

 万松柏が暁雲子のことを持ち出すと、比連の警戒が少しだけ解けた。万松柏の陰から少しだけ身体を出した比連に、暁晨子は愛おしむような微笑を浮かべている。


「いい人?」

「そう、良い人だ」

「でも、ぼくたちを追い出した」

 緩みつつあった空気が比連の一言で再び張り詰めた。比連にとって白凰仙府の仙師たちは、いまだに路頭に迷う羽目になった原因なのだ。暁雲子と打ち解けられたのも、万松柏ともども比連を追い出した中に暁雲子が含まれていなかったからなのだろう。
 しかし、この嫌な緊張の中でも暁晨子は微笑を絶やさず、逆に比連を手招きした。万松柏に背中を押され、渋々ながらも歩み寄った比連を暁晨子はじっと見つめた。

「比連。私たちが君にしたことはすまないと思っている。こちらの事情を理解しろとは言わないし、分かってもらえなくても受け入れよう。ただ、私の言葉は白凰仙府の言葉だということを忘れないでおくれ」

 比連は戸惑うように万松柏を振り返った。万松柏が深く頷くと、金色の目がわずかに明るい光を帯びる。
「もし君がまだ白凰山を好きでいてくれるなら、私たちは君を迎えよう。もちろん松柏おじさんも一緒にね」

「せんせいは?」

老師せんせいはどうだろう。あの人はあの小屋に一人でいるのが役目だから、難しいかもしれない。だけど、比連が会いに行けば必ず喜んでくれるよ」

 比連は金色の目を難しげにひそめてじっと考え込んだ——程なくして、比連はこくりと頷くと、なんと自ら暁晨子の膝の上に座り込んだ。

「良い子だ。少しだけ、触ってもいいかな」

 比連はこくりと頷き、大人しく右腕を出した。暁晨子に手首の内側を触られ、脈を見られても、嫌そうな素振りすら見せない。

 万松柏は呆けたようにその光景に見入っていた。魔偶から妖鳥に戻ったばかりで万松柏以外の全ての人間を警戒していた頃を知っているだけに、比連の成長を感じずにはいられない。
 同時に、ずっと抱いていた疑念を晴らす糸口が見えたような気がした。万松柏は溢れていた涙をそっと拭うと、平静を装って暁晨子に声をかけた。

「どうでしょう?」

 暁晨子は「ふむ」と呟くと、比連の手首から指を退けた。

「邪気はほとんど見られない。修為もこの歳の人間では高すぎるくらいだ。つい最近まで魔力に侵されていたとは思えない」

 暁晨子に解放されると、比連はトトトと小走りに万松柏のところまで戻ってきた。

「言動さえ見た目にそぐうものになれば人間社会にも溶け込めるだろう。最後に見たときより随分と進歩したように思える」

「実は、白凰山が襲撃を受けた際に私とははぐれておりまして。山を逃げる間に師伯が閉関されている庵まで行ってしまったらしく、再会したときは師伯のもとで修行をしておりました」

 万松柏はそう言いながら比連の柔らかい巻き毛を撫でてやった。どのくらいの年月を魔偶として過ごしていたのかは定かではないが、その間阻害されていた思考や意識さえ年齢につり合わせることができたら、比連は一人の青年として立派にやっていけるだろう。

「……師尊」

 万松柏が暁晨子を見上げると、暁晨子は先を促すように思慮深い眉を持ち上げた。

「実は、ずっと考えていたことがあるのです。私が魔偶だった比連を元に戻したことは、正直に言うとある種の賭けでした。もちろん彼が元々修為のある妖鳥だったことや私の体力など、様々な要因があって成功した賭けであることは承知しています。……願わくはもう一度、この賭けができないものかと」

 万松柏の言葉に、暁晨子は何も答えない。沈黙の中、そよ風に運ばれてきた蓮の香りが微かに部屋を横切っていく。
 暁晨子はおもむろに立ち上がると、背後の書棚と向かい合った。ややあって一冊の書物を取り出した暁晨子は、比連に歩み寄って本を差し出した。

「『妖修』を読んだことはあるかな?」

 比連は金色の目をぱちくりしながら本を受け取り、こくこくと頷く。

「せんせいのほん。ここまで、よんだ」

 比連が真ん中の少し後ろを乱雑に開き、頁を繰って指差すと、暁晨子はにこりと笑って「そうか」と頷いた。

「では、外で続きを読んでいてくれるかな? 私と松柏叔叔おじさんは大切な話があるから」


 比連が外に出ると、暁晨子の顔から優しげな笑みが消えた。

「遼無忌のことだな」

 暁晨子が重々しく呟く。

「私の傲慢なのは分かっています。ですが、あいつの言う『劫』から救ってやりたいのです。もうこれ以上、俺のために犠牲になる必要はないのだと伝えたいのです」

 万松柏は迷いなく宣言した。誰かを救うことに躊躇はいらないが、無忌を救うと思えば思うほどためらいが消えていくような錯覚を覚える。
 それはむしろ、義務感のようでもあった。前世の恩、今世の恩に応えることを魂が欲しているかのような感覚——それが望遠春の望みであり、万松柏の望みであると手に取るように分かる。それまでは別々に混在していた二つの意識がひとつに融合したような気分だった。

「劫とは、天から与えられる苦行のこと。時が満ち、十分な行いを積んだと天が判断したときに初めて解放される。第三者が独善で終わらせて良いものではない」

「承知の上です。ですが、望遠春を救う代償として背負った劫を救われた本人が解くことは独善とは言えないのではないですか? 俺は、俺自身が生きて再びあいつと巡り会えたことは、あいつの行いの証だと思うのです。俺ごときが天意を語るなどおこがましいでしょうが、無忌が魔偶に身をやつした年月が俺という存在によって報われるのならば、それこそが天命だと思うのです」

 万松柏はまっすぐに暁晨子を見つめて言った。こればかりは何があっても曲げられない、曲がらないと心の底から言える。

 暁晨子は無言で聞いていたが、やがて細いため息をついた。

「……あるいは、それがお前の天命なのかもしれぬな」

 独り言のようだったが、万松柏にもはっきり聞こえる声で暁晨子は言った。

「師兄からお前を預かったときに、いつか望遠春としての記憶や意識がよみがえるかもしれないと聞かされていた。万松柏が望遠春を受け入れられずに大事に至るかもしれないとも聞かされたが、その心配はなさそうだ」

 暁晨子はそう言うと、また書棚の方を向いた。ずらりと並ぶ書物に指を這わせ、あった、という声とともに暁晨子が取り出したのはとりわけ古い一冊だ。

「幸い、お前はもう仙師の掟には縛られない身だ。だが、何をするにしても、この書物には目を通しなさい。……そして、どのような結末になっても、己を恨まぬと約束してくれ」

 重々しく差し出された書物は黄色く変色し、四隅は丸く脆くなっている。万松柏は力強く頷くと、書物をしっかりと受け取った。
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