魔偶と越界の想い人

故水小辰

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第四章:再聚

第三十六話

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 万物には陰と陽の性質がある。陰陽倒転法はそれを反転させる方術で、魔を聖に、聖を魔に変えるというものだった。

「暁晨子は立場上、私が禁を犯したり、道を踏み外すようであれば止めねばならなかった。さりとて遠春を見捨てることもできず、それで密かに私に陰陽倒転法の写しをくれたのだ。私たちは二人だけでことを完結させることに決め、外には遠春が反噬を起こして亡くなったと宣言した。その裏で私たちはこの庵を修繕し、遠春を運び込んで術を使った。だが救うことはできなかった……こちらの予想以上に汚染が進んでいたのだ。結局、魂魄を取り出して邪気を除き、まっさらな状態にすることしかできなかった。望遠春としての生を一度終わらせ、新たに生を授けることが精一杯だった」

「だから母親の中で死んで間もない胎児が必要だったのですね。魂魄の新しい器とするために」

 万松柏がまとめると、暁雲子は静かに頷いた。

「無論、これも邪道の術に当たるから、私はまた罪を重ねたことになる。しかも死んだばかりの胎児となると、藁山の中から針を探すより困難だ……それに魂魄に少しでも邪が混ざっていると、人の理から外れた子が生まれてしまう。結局、遠春の魂魄を完全に浄化するのに五十年、その後の旅に二百年を費やした。そうして巡り合ったのがお前のご両親だ」

 万松柏は目を瞬いた。幼い頃聞かされた自身の生い立ちにそんな途方もない経緯があったとは知らなかったのだ。


 万松柏の両親は長い間子に恵まれなかった。だが、二人は周囲が離縁を勧めても断固として別れず、妻がようやく身籠ったときには十年近く経っていたという。
 そして妊娠中のある日、夫婦を訪ねて仙人がやってきた。無論それが暁雲子なのだが、そんなことは知らない二人は仙人を歓待した。仙人は妻の胎にいる子が弱っていると告げて霊薬を渡し、術を使って生き永らえさせた。そして生まれた赤ん坊は、永遠に変わらぬ夫婦の証として門前に植えた松と柏の木から「松柏」と名付けられた——松柏と亀鶴きかくと、其のよわいな千年。千秋の時の中で緑の葉を茂らせる松柏のように、息災延命であるようにと願いを込めたのだ。


 聞いたのは大昔でも、万松柏はこの話をよく覚えている。そして今、暁雲子の話を聞くうちに、自身の生い立ちに秘められたものが見えてきた。

「母からは師伯が霊薬で私を生かしたと聞かされていましたが、それこそが望遠春の魂魄を移す儀式だったのですね。元々万松柏として生まれるはずだった赤ん坊はすでに世になく、流れ出るのを待つだけだったと」

 にわかには信じがたいことだったが、そうとしか考えられない。そんな万松柏の想いを受け止めるように、暁雲子は「そうだ」と答えた。

「覚えているね。私がお前の誕生日になるたびに内密に会いに行っていたのを。そして五歳になるときに、この子には天賦の才があると告げて白凰仙府に迎え入れた」

「望遠春である俺に異変が起こらないか、監視するためにですか?」

「そうだ。陰陽倒転法がなぜ禁じられているかは知っているな」

 暁雲子の問いに万松柏は頷いた――魔界の侵略が激化し始めた頃、ある仙府で将軍格の魔族が捕らえられて陰陽倒転法で浄化され、仙師として新たに教育されていたことがあった。ところが、仙師の中にあった生来の魔性が目覚めてしまい、魔族の将軍が復活してしまった。以来その魔族は仙師の姿を装って各地の仙府を襲撃し、ついに討ち取られるまで甚大な被害が出た。そのために、仙門の崩壊を招きかねないとして陰陽倒転法は禁じられることになり、今日まで覆されたことはない。

「原因となった仙師と遠春が違うのは元となる性質だ。魔に染められた聖を元に戻すことは理論上は問題ないが、前例がない以上何が起こるか分からないという懸念があった。ふとしたことで前世の記憶がよみがえり、精神に異常をきたすことも十分にあり得たから、あのまま夫婦の元に置いておくのは親子にとって危険だと考えたのだ。ようやく得た子に俗世を捨てさせるのは酷な決断だったが……」

 万松柏は最後に見た両親の姿を思い出さずにはいられなかった。おぼろげな家族の記憶の中で唯一鮮明に残っている、門前の松と柏の木の下でいつまでも手を振っている父と母——一介の農夫とその妻だったが、優しくて、温かくて、決して涙を見せなかった。他の弟子たちが音を上げるような厳しい修行も、いつかあの二人を守る未来に繋がるならと思うと不思議と苦にならなかったものだ。

「そういえば当時、師尊に私を預けることが最後の任だと仰っていましたね」

 万松柏は、ふと暁雲子の言葉を思い出した。それまでずっと見守っていた仙人様と遠く離れてしまうのが、幼い万松柏には親元を出るよりも寂しかったのだ。

「禁術を使うに当たり、私と暁晨子は取り決めをした。禁を犯すからには私はもう仙長ではいられないゆえ、さらなる修行のために地方を遊歴するという名目で暁晨子に仙長の座を譲っていたのだ。そしてお前を連れて戻ってからはこの庵で閉関している。暁晨子には元からお前のことを一任していたし、緊急時には私を呼びつけることも折り込み済みだった」

 暁雲子はそう言うと立ち上がり、ごちゃごちゃと積み上がった書物の山を漁りだした。雪崩を起こさないようにしているのだろう、慎重な手つきで山のまだ低い場所を拓いている。
 しばらくして、「ああ、これだ」という声とともに暁雲子は振り返った。その手には黒ずんだ鈴の掛かった澄んだ翡翠色の台座が乗っている。

「これと全く同じものを暁晨子が持っていてね。元は白かったのだが、例の襲撃があってから鈴が黒ずんで使えなくなってしまった。何か、彼の消息に繋がることを覚えていないか?」
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