魔偶と越界の想い人

故水小辰

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第二章:魔鋒無忌

第十五話

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 じっくり言葉を交わしてからというもの、万松柏はそれほど無忌を警戒しなくなった。一人を救うために劫を背負うと語る無忌の姿が、かつて彼が仙師だったころの姿を思い起こさせたのだ。白い衣に白い長靴、束ねた黒髪を風に揺らし、よく鍛えられた剣を手にさっそうと立つ無忌の姿を見てみたいと思ったほどだ。目の色は金色ではないだろうが、皆の模範となる立派な仙師に違いない。修為が高く武功に優れ、蒼生を救うための覚悟もできている――それはまさに仙府の門をくぐったあの日、万松柏がこうありたいと願った姿そのものだった。

 立って歩けるようになると、万松柏は無忌の部屋が意外と広いことを発見した。寝室の隣には浴室や台所があり、浴室から張り出すように作られた小屋は厠になっている。万松柏は何よりも先に風呂桶にたっぷり湯を沸かし、熱々の風呂で髪も体も清めることにした。無忌に手巾で拭いてもらうのも悪くはないのだが、髪はどうしても寝台の上では洗えないし、普段人に見せない場所まで清めようとするのがどうにも居心地が悪い。それに回復してきた以上、いつまでも無忌の手を煩わせるわけにもいかないのだ。

 そんな万松柏が風呂から出ると、無忌は心配そうに万松柏に歩み寄ってきた。

「体の具合は」

「大丈夫だよ、ちょっと風呂に入っただけじゃないか! むしろ今までで一番いい気分だ」

 新しい夜着に着替え、手巾で髪の水分を取りながら万松柏は答える。すると無忌は少し意外そうに、

「風呂が好きなのか」

 と呟いた。

「ないと生きてけないってほどじゃないけどな。別に入らなくても平気だが、やっぱり入ると気持ちいい」

 無忌は万松柏の言葉にこくりと頷く。いつもの無表情の中に小さな驚きが見え隠れしているのが面白くて、万松柏は「そうだ!」と声を上げた。

「俺の師弟は三日風呂に入らない日が続くと『耐えられない!』って叫び出すんだ。それにこの間なんて、久しぶりに会ったら臭いがひどいからってすぐに距離を取られたよ」

 笑いながら話す万松柏を、無忌はきょとんと見つめている。

「弟弟子がいるのか」

「ああ。俺が十二の歳に拝師した奴で、俺たち師兄弟の三番目だ。よく気付く奴できれい好きで、真面目で面倒見が良いんだぜ。それから、いつも風呂の温度が最高だ」

 無忌はゆっくりと目を瞬くと、「そうか」と答えた。万松柏はすぐに少し反省した――今までこれほど親しんだ態度を取ったことがなかったから、困惑させてしまったと思ったのだ。
 無忌はうつむいてしばらく黙ったのちにぽつりと言葉をこぼした。

「私にも弟弟子がいた」

 失敗した、と万松柏は直感した。無忌の触れてはいけない部分に触れてしまった。

「……そうなのか」

 どうすることもできず、万松柏は歯切れの悪いあいづちを打った。

「お前に似ていた。屈託のない、誰とでも交流できる男だった」

 無忌の言葉が沈黙の中に落ちる。万松柏は自分で作り出してしまった神妙な空気に耐えかねて、頭を下げることしかできない。

「そうか。その……すまない、知らなかったんだ」

「当たり前だ。お前の弟弟子も私は知らなかった」

 無忌は抑揚のない声で答えると、くるりと万松柏に向き直った。何事かと思う間もなく右手をずいっと差し出して、手巾を貸せと手招きする。

「髪を」

「いいよ、自分でできるから」

 面食らいつつも万松柏は答えたが、無忌はかたくなに手を下ろそうとしない。仕方なく手巾を手渡すと、無忌は万松柏に椅子に座るよう言った。

「立ったままでは辛い」

 くい、と無忌の手が椅子を指す。

「……じゃあ、お言葉に甘えて」

 そこまでしなくてもいいだろうとは思ったものの、万松柏は無忌の言うとおり椅子に腰かけた。それに無忌のことだ、もし仮に断ったとしても万松柏が折れるまでてこでも動かないだろう。
 髪を拭く無忌の手つきはとても優しく、丁重だった——まるで万松柏の髪の毛一本一本を慈しむかのように、無忌は丁寧に髪の水気を拭きとっていく。それでいて不慣れさはまったく感じられず、万松柏は不思議な気分になった。

 こんなふうに、無忌には洗いたての髪を拭いてやるような相手がいたのだろうか? だが仙門では結婚や恋愛は禁じられている。これは設立以来の掟であり、そもそも色事は修仙における最大の禁忌だ。万松柏の目には、無忌は禁忌を犯すような仙師には見えなかった。
 情人でないとすれば、家族だろうか——もし彼が弟か妹と共に弟子入りしたのなら、情人説よりは説明がつく。しかし、これではなぜ万松柏を身内にするように扱うのかが分からない。
 万松柏は少しだけ首を動かして、後ろの無忌を見た。金色の目もそれに気付き、無忌は手を止めて万松柏を見つめ返す。

「——なあ、無忌」

 万松柏が話しかけると、無忌は身構えるように口を結んだ。

「お前、昔……」

 昔、何だ?

 そもそも赤の他人がこんな踏み入るようなことを聞いていいものか。彼の今までの言葉を思い返しても、その答えは明白なのではないか——万松柏は唐突に無忌の目を見ていられなくなり、逃げるように顔を背けてしまった。

「……すまん。何でもない」

 小声で謝った万松柏に「そうか」とだけ応えると、無忌は再び手を動かしはじめた。
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