魔偶と越界の想い人

故水小辰

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第一章:邂逅

第八話

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 暁晨子は竹簡を留める紐を解き、勢いよく卓上に広げてみせた。万松柏と沈萍は思わず息を飲んだ——端の方はまだ新しく、びっしり書かれた文字も難なく読めるが、時代を遡るにつれて竹がどんどん黒ずみ、墨が剥がれて読めなくなっていく。魔界との戦いで散った犠牲者をまとめた名簿があることは万松柏も沈萍も知っていたが、実際に目にしたのは初めてだ。

「つまりこの中に、あの魔偶の正体がいるかもしれないと?」

 万松柏が尋ねると、暁晨子は「いない可能性もある」と静かに首を横に振った。

「これはあくまでも白凰仙府での犠牲者の記録だ。もしその魔偶が他の仙府の所属なら、中原じゅうの仙府を回って記録を見なければならない」

 万松柏は思わず「えっ」と声を上げた。隣の沈萍に至っては、その果てしのなさに絶句している。

「ですが、それって……藁の山から針を探すようなものでは……」

「その通り。それに事と次第によっては記録が失われている場合もあるし、何より仙門が確立されてより千年の間、功労の如何にかかわらず多くの犠牲があった。まさしく藁の中の針だ、覚悟がないのであれば各地の仙府に警告だけを伝え、正体探しは諦める方が賢明だ」

 暁晨子は冷酷なまでに淡々と告げて二人の弟子を見やる。万松柏は思わず目を逸らし、卓の木目を見つめた。

 万松柏とて、あの魔偶の正体が簡単に分かると思っていたわけではない。しかし、暁晨子その人からはっきりとそれを告げられると、覚悟が揺らがないわけにもいかなかった。
 おまけに、竹簡は文字ばかりで似顔絵の類が一切ない。人相しか分からない人物を探すのにここまで都合の悪いこともないだろう――ちらりと横目に見ると、沈萍は完全に途方に暮れているのか、卓子の木目を睨んだままぎゅっと歯を食いしばっている。

 何か手立てはないものか、必死に考えを巡らせているうちに、万松柏はあることを思い出した。

「……雲歩剣うんぽけん

 ぼそりと呟いた声が沈黙を破り、うつむいていた沈萍がちらりと顔を上げる。万松柏は沈萍と暁晨子を交互に見やると、ゆっくりと口を開いた。

「あの魔偶は我々仙門の雲歩剣を使っていました。雲歩剣の会得にはかなりの修為を要しますし、犠牲になった前輩方の中にも使えた方と使えなかった方がおられるはずです」

 雲歩剣、雲の上を走るがごとくに軽く速く足と剣を繰る、仙門の剣術の中でもずば抜けて難易度の高い技。あの魔偶が万松柏を驚かせ、追い詰めてみせたあの技だ。

「たしかに。使える者が少なければ、それだけ絞り込むこともできます」

 そう言った沈萍の目には、今まで消えていた望みがふつふつと湧き上がっている。暁晨子も納得したのか、「うむ」と頷いて竹簡に指を走らせた。

「それならば、剣譜が確立されてから今までの間に期間を絞ることもできる。ざっと数えて百人といったところか」

 暁晨子はそこで言葉を切り、考え込むようにあごに手を当てた。若々しい額にしわを寄せ、まるでこの百人に見逃しがたい難点があると言わんばかりだ。

「師尊?」

 沈萍が怪訝そうに声をかけると、暁晨子はゆっくりとかぶりを振ってため息をついた。

「何でもない。ただ……」

「ただ、何でしょうか」

 万松柏も沈萍に続いて暁晨子の顔を覗き込んだ。暁晨子はなおも険しい表情で考え込んでいたが、やがて立ち上がると竹簡をさっさと片付けてしまった。

「この件はもっと深く協議する必要がある。今日のところはお開きだ」
 

***


 素朴な味わいのスープ、青菜の包子、たっぷり盛られた白飯に、豆や木の実を塩で炒めたもの、そして串焼きにした川魚がその日の二人の夕餉だった。どれもできたてでほかほかと湯気を立てていて、山の下で買ってきたのであろう菓子までついている——食事の匂いでようやく起き出し、眠そうな目をこすりながら配膳の様子を見ていた比連は、菓子の甘い匂いを嗅ぎつけるなり寝台を飛び降りて、菓子を卓に置こうとしていた仙師に飛びついた。

「うわーっ! なんだこの子ども!」

 菓子の皿を高々と持ち上げて守りつつ、仙師は驚きの声を上げた。その腰には比連がすがりつき、爛々と目を輝かせて皿を狙っている。

「たべもの、たべものほしい、たべものちょうだい」

 動く方の手を思いきり伸ばし、比連は表情の読めない丸い目で皿を見つめる。しかしその目には、獲物を狙う猛禽のような強かさが宿っていた。一緒に配膳をしていた仙師が比連を引き剥がそうとするも、比連は鳥の威嚇のように一声鳴いて、今度は菓子を持つ仙師の脚をよじ登ろうとした。
 その声に仙師たちは仰天し、ますます慌てて比連を退かせようとする。微笑ましく思って見ていた万松柏もこれには驚き、片足を引きずりながら仲裁に入った。

「おいおい、それくらいにしてやれ。比連も、そいつから降りなさい。そいつはお前の食べ物を取りに来たんじゃない」

「でも、たべもの」

「待っていれば食べられるから、大丈夫だ」

 万松柏に言われて比連はようやく大人しくなり、仙師の脚からするりと降りた。一方の仙師たちは恐る恐る比連を見、万松柏を見、そそくさと菓子の皿を卓の中央に置いて配膳を終わらせた。

「どうぞ、先生」

「どうも、二人とも」

 万松柏が悠々と頷く傍らで、比連が飛びつくように椅子によじ登る。比連を手伝って椅子に座らせ、向かいの椅子を引いたとき、仙師の一人が万松柏に耳打ちした。

「……あの、せん……大師兄」

 手招きされるままに顔を寄せて小声で「何だ?」と応じると、仙師はちらりと比連を見やってから声をひそめて尋ねた。

「あの少年……やはり人ならざる気配がしますが、かような者を仙府に連れ込んで、沈仙輔せんほや掌門は何も言われていないのですか?」

 万松柏の追放の顛末は白凰仙府の皆の知るところだ。だからこの仙師が言いたいことも万松柏には分かりきっていた

「あの二人が俺たちをどう言っているかは、お前たちが一番詳しいだろう? 二人から特に話が出ていないってことは、そういうことなんじゃないのか」

 万松柏がきっぱり言い返すと、仙師は返答に詰まってしまった。万松柏はひらりと手を振ると椅子に座り、

「何かあったらまた呼ぶよ」

 と言って比連に向き直った。


 比連は金色の目をいつになく輝かせ、いまにも飛びかかりそうなほど料理の皿を凝視している。万松柏が料理を取り分ける間、比連はその動きをすべて目で追って「早く食べさせろ」と訴えてきた。

「よし、いいぞ。食事にしよう」

 全ての料理を分け終えた万松柏が声をかけるやいなや、比連は目の前に置かれた包子を瞬時にかっさらった。
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