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第3章 螺旋
20 不安の具現化
しおりを挟む大泉を惣一に紹介すると悠真は戻って来て、澪と同じテーブルに腰掛けた。
そして一瞬顔を見合わせてから成り行きを眺める。
意気揚々と福田の手を引いて向かっていった大泉も、惣一と賢木の前では緊張しているようだった。
張り付いたような作り笑顔で、ぎこちなく二人の前に座ったのが見えた。
その背中に手を添えて、苦笑いを浮かべる福田とを悠真との何気ない会話の中で見守った。
たっぷりの時間を惣一との面談に使用して、2人は戻って来た。
大泉は出掛けて行った時よりも更に興奮しているようだった。
「おかえり、どうだった?」
澪が声をかけると大泉が答える。
「ああ、意外と人間臭かったな」
言葉とは裏腹に興奮しているようで、頬が赤い。
「そうだね、でも親近感は湧いた」
隣で福田も頷いた。
「ああ」
大泉は惣一達を振り返り呟く。
「やっぱりすごいよ、あの人は」
澪たちも一緒に賢木たちを振り返った。
二人は大泉たちとの面談前と何も変わらない。
のんびりとしたバカンスの雰囲気を相変わらずキープしている。
一体どんな話をして来たのだろう。
同席すればよかったな、澪はちょっと後悔した。
じっと2人を見つめた後、大泉は急に声を上げる。
「よし、俺もやるぞ、洋!」
「うん、頑張って」
福田は即座に答えながら、また視線を惣一達に戻してしまった大泉にちょっと頬を膨らませた。
「でも」
大泉の顔を両手で挟んで力任せに振り向かせる。
「わ、何するんだっ」
「そろそろ僕にも構ってね?2人で遊びに来ていること、思い出した?」
頬を膨らませたまま顔を覗き込むと、大泉は小さくこくりと頷いた。
「思い出した」
「よかった!」
そんな2人のやりとりに澪と悠真は吹き出すように笑いあった。
あの日から大泉は妙に勉強に励み出したらしく、福田の愚痴のようなメールが届き始めた。
結局お茶会はそんな理由で中止になり。
倉石の授業が終わった残り短い夏休みは悠真と二人で過ごした。
そして新学期。
もう交際を隠しもしない福田と大泉は、休み時間の度に廊下で待ち合わせてる。
それに何故か澪も同伴させられ。
気が付けば、大泉の友人と、澪達のクラスメイトで人だかりが出来てしまっていた。
中心にいるのは大泉と福田のカップル。
澪は、それに添え物のようについていくだけ。
もちろん悪い意味ではない。
夏休み前は1人しかいなかった友人が2人になったようなもの。
正確には3人の周りに人が集まってくるのだが、澪は福田達以外とはあまり話さなかったので。
自然、と悠真のような孤独が澪にもまとわりつき始めたようだった。
そんな風に新学期は進んで行った。
何事もなく、それなりに楽しい日々。
賢木のお腹も、澪の不安を吸収しているかのように、少しずつ大きくなっていった。
悠真は来年、進級テストがある。
入試のようなもので、及第点が取れなければエスカレーター式の高等部に進めず、外部の高校の入試を受けることになるのだが、特にいつもより勉強してる、という感じもなかった。
さすがに冬休み前になると澪も心配して尋ねた。
「進級テストのための勉強、とかしなくていいの?」
逆に悠真にきょとんとされた。
「してるじゃん」
「え?」
「いつも、ずっとしてるだろ?」
そう言われて、ああそうか、と納得した。
倉石の授業がすでにそう、なのだ。
そしてそれはもうずっと前から始まっていて。
澪も気付かないうちに、澪にも起こっていることだった。
悠真の進級が終われば次は澪の大学受験が待っている。
夏休み前、やっと50位以内に入ったと思っていた澪の成績は、冬休みを迎える頃には20位以内になっていた。
澪自身、これには驚いた。
成績表を倉石に見せると、微笑みを返された。
「よく頑張りましたね」
「あ、ありがとうございます。倉石さんのおかげです」
澪は深く頭を下げた。
倉石無くして取れた成績ではない。
「いいえ。澪さんが頑張った成果です」
そう言いながら成績表を澪に丁寧に差し出した。
澪はそれを受け取り、ぎゅっと思わず握りしめる。
「再来年は大学受験ですが、もうお決めになりましたか」
「あ、いえ、まだ」
握りしめた成績表を見下ろしながら答えた。
「早めに決めた方がいいでしょう」
「はい。あ、あの、悠真は、もう決まってるんでしょうか」
まだ高校生にもなっていない悠真に大学の話は早いかもしれないが、不思議と、悠真の道は決められているような気がして。
ちらりと隣の悠真に視線を向けると、悠真はにっこり笑う。
「悠真さんはT大学に進まれます」
当たり前のように倉石から返ってくると、澪は少し俯いた。
「惣一様も、もちろん賢木さんも」
悠真の将来がすでに確定されている事実に、少し悲しい気持ちを覚えたけれど、同時に少し期待が湧き上がる。
本来澪と悠真が一緒に、同じ学校へ通えるのは一年だけ。
でももし同じ大学、同じ学部に進めたら…。
「あ、あの…」
そんな理由で進路を決めるのは不純としか言いようがないが、特に行きたい大学もない澪には唯一の希望動機。
けれど、賢木はともかく倉石には叱られそうな気がして、言えずに黙り込んだ。
しばらく沈黙が流れたが、倉石がふっと、笑いとも溜息とも取れる息を吐いた。
顔を上げた澪に倉石は意外に優しい瞳を向けていた。
「もちろん澪さんもT大学に入学できるよう私は教えて参りましたよ。あともう少し頑張って、更に気を抜いたりしなければ、問題なく合格出来るでしょう」
「え!?」
「よかったな、澪」
悠真にぽん、と肩を叩かれ、澪は困惑する。
倉石の言い方だと、澪もT大学に進むことが決まっていたかのよう。
「…どう、して…」
困惑した視線を向けられ、察した倉石が少し苦笑いした。
「あくまで目標です。私の授業は全てT大学を目標にしてありますから。私の授業について来られるかは澪さん次第でした。よく頑張ったと思います。お陰で澪さんはどの大学も問題なく受験出来るようになりました。もちろん受かるかどうかは澪さん次第ですが」
もう一度悠真が澪の肩を叩いた。
にこにこと嬉しそうな悠真を見て、澪はちょっと安堵の息を漏らす。
「さて。ではこのままT大学を目標に続けますか?」
「はい」
澪はまっすぐ倉石を向き、声を張った。
冬休み。
澪たちの休みに変化はない。
ただ冬休み自体が短いにも関わらず、倉石の冬休みが夏よりも若干長いので、遊ぶ時間はあった。
でもやはり夏と一緒で、そんなに出かけることもない。
一度、勤勉モードのままの大泉におねだりした福田から、別荘へ招待された。
二泊して近くのスキー場で遊ぶだけ。
スキー初心者の澪にみんなで指南してくれ、夜は遅くまで話したり、ゲームしたり。
楽しくてあっという間に時間は過ぎていった。
名残惜しく思いながらも、雪焼けで若干赤くなった顔で帰宅した2人を待っていたかのように、それは起こった。
楽しく過ごして、上機嫌のまま帰宅した2人を賢木が出迎えてくれた。
「お帰りなさい。楽しんだようですね」
大きなお腹で出迎えた賢木に2人は驚いて駆けつけた。
「賢木?」
「賢木さん?」
いつものスーツは着ておらず、ラフな大きめのトレーナーにスウェット姿。
仕事の時も最近ではスーツを着ていない。
大きいと言ってもそこまで張り出しているわけではないので、こういうラフな格好をしているとあまり目立たない。
臨月が近い賢木も冬休みに入っているはずだった。
玖珂の会社自体の冬休みはもうちょっと先だが、賢木は長めに冬休みを取ると言っていたので。
「お休みじゃないんですか?」
澪は心配そうに賢木のお腹を見る。
お腹の中心、ヘソの裏辺りから元気な光の鼓動を感じるとほっと息を吐いた。
それを見て賢木がにっこりと笑う。
「退屈なんですよ」
「は?」
「旦那様に言われて、冬休みを長く頂いたんですが、子供達はそれぞれ泊りがけで遊びに出かけていないし。一人でいてもつまらないし。かと言ってこのお腹じゃ出来ることも限られてて…」
「だからって…」
悠真が呆れた顔をする。
「そういう時は寝てるもんですよ」
澪が言うと、賢木は苦笑いした。
「でもここも退屈でした。いざ来て見るとお二人はお留守だし」
「言ってただろ?」
「忘れてたんですよ」
そう言いながら、よいしょ、と玄関ホールのソファーに腰を下ろした。
「遊びに来たものの誰もいないので帰ろうとしたら、ウロウロするな、と旦那様に怒られて。客間を用意してくださいました」
「じゃあ、賢木、今ここに泊まってるのか?」
悠真が嬉しそうにいう。
「ええ、昨日からお邪魔させて頂いてます」
賢木はそんな悠真に嬉しそうにする。
よっぽど退屈で、寂しかったんだな、と澪は小さく笑った。
「いつまで居るんだ?今夜も居る?」
悠真が駆け寄ると、賢木は残念そうに首を振った。
「残念ながら、今夜、龍一が帰ってくるので、回収されます」
まるで自分を物のようにいうので、澪は再び笑った。
その澪に賢木も笑う。
「今日お二人が帰ってくると聞いたので、せっかくなのでもう一泊、と思っていたんです。旦那様もいい、と言ってくださったので。でも龍一が…」
「回収に来るって?」
「はい。久しぶりに悠真さんと夕食もいいな、と思ってたんですけど」
「え?!いいじゃん、夕食食ってけば」
「でも龍一が」
「龍一さんも一緒でいいんじゃないですか?」
澪が横から口添えすると、二人がぱあっと顔色を明るくした。
「そうですね」
「そうだよ!」
結局、この二人の想いは同じようで。
澪も思わずにこやかになった。
「あ、とりあえず俺たち、荷物置いて着替えて来る」
「はい」
「ここで大人しくしてろよ」
「はい」
悠真に念を押され、賢木はにっこりと頷いた。
慌てて二階に駆け上がっていく悠真に急かされて、澪も追いかけた。
荷物は部屋の隅に放り出し、まっすぐクローゼットに向かう。
並んで部屋着に着替えながら、澪は不意に笑い出した。
「なんだよ、急に」
訝しみながらも悠真の口元は緩んでいる。
「だって、なんだか賢木さんが可愛くて」
仕事の時間もセーブされ、普段忙しい分、暇を持て余した賢木は良く二人の元へやって来る。
他に行くところがない、と言ってるが、澪は悠真に会いに来てるんだと思っていた。
自分は暇なのに、周りは、子供達はいつも通りで、特に構ってくれる様子もない。
寂しさからか、いつも屋敷にいる悠真を訪ねて来ているんだと。
「ああ。なんか妊娠したら少し幼くなった気がする」
悠真はそんな賢木が大歓迎だ。
いつも忙しくて、構ってもらえなかったのは悠真の方。
ようやく賢木が暇を持て余し、悠真が構ってもらえる時が来たのだ。
ましてやいつも二人きりの夕食に二人もゲストが加わる。
嬉しくて仕方ない、というのが顔に出てしまっている。
「若返ったっていうんだよ」
そんな悠真を見るのは澪にも嬉しいこと。
澪の顔も綻んでしまう。
「でも若返ったっていうより、幼くなったっていう方があってないか?」
「まあ、そうとも言えるけどね」
暇を持て余した賢木に、周りは更に行動をセーブさせる。
あれはするな、これはするな。
上司である惣一だけでなく、子供達からも言われる。
職場でも、家庭でも。
普段の様子を見ている限り、おそらくそれは賢木にとって苦痛で。
最初の頃は黙って従っていたものの、日を追うにつれ、賢木はまるで駄々っ子のようになって来た。
保護の目を盗んでは、あっち行きこっち行き。
澪達の部屋に逃げ込んでは、なんだかんだと世話を焼き始める。
小言を言ってみたり、しなくていい、と悠真が言うのに片付けをしてみたり。
それも二人がかりで取り上げると、ぶすっと、ソファーに座り込む。
そして今度はわがままを言い始める。
あれが飲みたい、これが飲みたい。
TVをつけて欲しい、等々。
普段見られない賢木の様子が楽しくて、悠真も澪も苦笑いを浮かべながら言われるまま。
そして一緒になってソファーに座って話し始めると、いつもの微笑みで話を聞いてくれる。
おそらくはそれが嬉しいのか。
賢木はそれを期待してここへ来たのかもしれない。
きっと玄関ホールのソファーで、二人が降りて来て、構ってくれるのを待っている。
そう思うと、澪はますますにやけてしまう。
友達の別荘で過ごした話をきっと賢木はにこやかに聞いてくれる。
拙い話も楽しそうに。
悠真も同じ気持ちなのか、駆け出すようにクローゼットから出ていってしまったので、澪も慌てて追いかけた。
そして。
そんな楽しい気分を吹き飛ばす声が聞こえて来た。
「この泥棒猫!」
澪は初めて聞く女性の声だった。
小さく賢木の声も聞こえる。
けれどなんと言っているのかは聞こえない。
澪が尋ねるより早く、悠真が猛ダッシュした。
澪も慌てて追いかけた。
「母さんっ?!」
踊り場の手摺りから身を乗り出して、悠真が叫んだ。
一緒に覗き込んだ玄関ホールに、賢木と対峙する派手な女性がいた。
悠真の言葉からその人が悠真の母親と知る。
子供の澪から見ても判る厚い化粧。
恐らく顔立ちはいいはずなのに、派手なメイクで台無しになっている。
真っ赤な口紅に青い瞼、濃いピンクの太い線が目立つ頬、目の下は真っ黒でボサボサとしたつけ睫毛。
ちゃんとしたメイクならきっと美人なのではないかと、思うほど。
格好もそうだ。
バランスなど一切考えていないのが判る。
分厚い毛皮の長いコート。
その下に赤く光るドレス。
胸元とサイドのスリットはぎりぎりまで開いている。
その胸に大きな宝石がいくつも付いた重そうなネックレス。
足元の細い折れそうなヒールの靴にも大きな宝石。
手にもいくつも大きな宝石のついた指輪が嵌められていて、振り乱した髪の隙間から見えた耳にも大きすぎるほど大きい宝石が光っていた。
全身のバランスやコーディネートよりも、身につけた物の総額を大切にしているかのよう。
悠真を見上げると明らかに顔を顰めた。
振り上げた手の位置と、斜めに俯いた賢木の頬の赤さから、二人してさあっと血の気が引いた。
「何してんだっ?!」
妊婦相手に手を上げたことは澪にも分かったので、澪も慌てて賢木に駆け寄った。
その二人の前に立ちはだかるように女性は立ち、近付く悠真に手を振り回す。
近付くときつい香水の匂いに混じってぷん、とアルコールのすえた匂いがした。
彼女の注意は主に悠真に向いているようで、澪はその腕を掻い潜り賢木に近付いた。
澪を見上げてくる表情には、先程までの可愛い賢木はいなくなっていた。
澪に小さく笑いかけると、赤くなった頬を抑える。
女性に邪魔をされ、賢木に近付けない悠真が舌打ちをしながら、鼻を擦った。
「酔ってんのか!?」
すると女性が高笑いを始める。
ふらふらと今にも折れそうなヒールでよろめいた。
「その口の聞き方!この雌犬に教わったの!?」
笑うのをやめたかと思うと、急に腕を振り上げた。
その腕を立ち上がった賢木が縋るように止めた。
「やめてください、奥様!子供に乱暴は…」
きっ、と賢木に視線を移すと、振り上げた腕をそのまま賢木の方へ振り抜いた。
賢木がバランスを崩して倒れこむ。
「賢木さん!」
「賢木!」
澪が慌てて駆け寄ると、その澪にしがみつきながら賢木が体を起こした。
そして恭しく頭を下げる。
大きなお腹が仕えて思うようには下がらない。それでも懸命に賢木は腰を折る。
「奥様、申し訳ございません。旦那様のご厚意に甘え、厚かましく長い致しました。すぐに退散致しますので、何卒、子供達には…」
賢木の言葉も途中で、再び女性が腕を振り回した。
「やめろ!」
今度は悠真が女性の腕を捕まえた。
抗って、腕を抜こうとする女性の手を悠真はしっかり捕まえたまま。
「賢木は妊婦だぞ?!乱暴にするな」
何度も腕を抜こうとして叶わないことを知った女性は、唇を噛み締め、今度は悠真に体当たりをした。
バランスを崩し、不意に手の力が抜けて、女性の手を離してしまった。
肩で息をしながら女性は悠真を憎々しげに見下ろし、また高笑いする。
「こいつが妊婦だって!?そんなの知ってるわ!だから来たんじゃないっ!」
そして賢木に近付く。
「あんたがまた妊娠したって聞いて、お祝いに来たんじゃないの!ねえ、賢木」
賢木の前で仁王立ちすると、眉を寄せ、口元を醜く歪ませて見下ろした。
賢木は無言で腰を折ったままそれを見上げる。
澪は賢木の腕を必死で支え、女性の挙動を見守った。
彼女は酔っているせいか何を仕出かすかわからない雰囲気を出していた。
「私を馬鹿にしてんじゃないの?!」
腕も、ふらつく足も、賢木に向けては少し逸れ、また戻って…。
繰り返し、繰り返し。
それが澪にとって不安だった。
いつでも賢木を攻撃できると言わんばかりで。
賢木は妊婦である以上に、なぜか無抵抗で。
更に澪を不安にさせた。
そしてその攻撃対象は悠真でもあって。
賢木に向けられたきつい視線は、時々悠真にも向けられた。
憎悪の塊。
誰か、誰か来て。
どうすればいいのかわからない。
助けを呼びに行ったほうがいいのか。
行けるのか、わからない。
誰か、来て!
緊迫した空気の中、澪は何度も心で叫んだ。
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