半熟卵とメリーゴーランド

ゲル純水

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あの日の朱鷺色の話を

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  さて、浮世絵師の境塀水結きょうへいすいけつの話であるが、あいもかわらぬ日々のなかあいもかわらず君を見ているのだった。二人称ではなく、尊い一人を指すならば「まさに、心の我が君よ」と似合いもせぬ声をあげるほかない、何かに酔いしれた日々である。
  浮世絵師といってもそれだけで生きていけるのは一握り、雇われてお屋敷の中の仕事をしてみれば、その帰りに襲われ商売道具の体を痛め付けられたのだからどうもしようもない。彼に言わせてみれば、身に余る仕事をもらった罰なのだろうかというし、周囲がいうには腕一本しかも治る見込みがあるのはこれまでの行いが守ったのだと言う。本人にしてみれば生きた心地のしない痛みも、彼を好む人々にしてみればしの気持ちもわからなくはない。

  そのような経緯で、描けない体にされた浮世絵師が食いつなぐために働きに出ているわけだが、ここにある日あらわれたのが、謎の男。その肌は、郷里のおっかさんが祝いの席で炊いてくれる玄米の鶏飯の色をしていた。腹が減っている中の出会いは、あやうくむしゃぶりつきたくなりそうな印象であった。しかし、郷里のおっかさんの玄米の鶏飯の色を知らないであろう人に分かりやすくいうと、黄色かった。
  
 「キョウヘイ先生よ、近頃すっかり顔色がいいやね」

  君の肌を思い浮かべていたせいで、声をかけられるとどきりとする。考えていることが顔に出ていたろうか、無意識に呟いてなかったか。

「そうかい?よかったぃ、元来、絵師なんざやくざな商売だもんで、いまの暮らしが何倍もいいんだろやぃ」
「やだねぇ、何がやくざさ、あんたらはそんなもんじゃない、やくざもんも狂人も逃げ出す修羅どもだよ」

  版元の玄八郎は恰幅のいい腹を揺らして笑った。貸本屋の与平とひとりの女を取り合った仲であるが、女はどちらも選ばず旅役者の二枚目を追ってついには一団に加わってしまったと風の便りにきく。なるほど、ばったりにも町であうことがないはずであるし、その話の真偽よりも、あのひとらしいなと笑い話になったことがきっかけで二人は今では無二の親友である。そうした繋がりでいうと、玄八郎の息子の交際相手の弟の交際相手は境塀をこっぴどく袖にした町娘で、玄八郎は何かしらの縁であろうという思いを持っていた。

「キョウヘイさんよ、三町先の先生のことだけじゃないんだよ、あんたらみーんなそうなんだ。儂らはとんでもない修羅を見つけては世にだす、とんでもねぇことを生業にしてるんだよ」

  といわれても、絵が描けるはずなのに描けない体は、どうにも答えられない。

「キョウヘイさんよ、」
「なんだい、きいてるよ、どうしたんだよ今日は」
「ずっと治りかけの怪我の顔やら青白いやら、あんたは笑顔を崩さないけど、みてるこっちはつらかったんだ。」
「そうか、すまねぇ、心配かけたね」
「だからいますごく、嬉しいんだ。わかるか?」
「わかるよ、こんなやつを愛してくれて、こんなに嬉しいこたぁねぇ」

  はっはっは。
  境塀はどう答えればいいかわからなかった。ただ笑うしかできず、殴られたときから具合の良くならない奥歯の歯茎がズキリとした。

  喜んでくれるなんて。ただ顔色がいいというだけで。それほどに、ひどい有り様だったのだろう、いつもと変わらぬようにしていたつもりなのに。境塀は、なぜか反省をした。

  それが店を開けた頃の話で、しばらくたって昼である。実にぎらついた昼の日差しにまけ、与平の厚意に甘えて縁側で休むことにした。中庭は日陰になり、あつい昼でも熱しきられてない冷たい空気が少し残っている。体温が上がれば血流がよくなり、傷口がどくどくと痛み始める程度には、まだ治りきっていない。軽度だが麻痺もある。いっそ泣き叫んだり塞ぎ込めたらいいのかもしれないが、境塀は落ち込みかたがわからない明るさをもって生まれたがために、落ち込みこそしないが悲しめないことはある意味で不健康で歪であった。

「ねぇねぇ、あれも貴方が描いたんですか?」

  少し練っとりとした印象のある、それでいて爽やかで甘い声だった。冷やし飴に似ているなと思いながら顔を向けると、中庭のわずかな日向で照らされて真っ白な世界のなかに黒いかげがたっていた。眩しそうに目を細めるより早く、影は日陰にはいってきた。

「私は墨の里から来ました。なんどか伺ったおりに、遠くから拝見しておりましたが、今日はこんなに近くで」

  境塀のそれににた、どこかひとなつっこい笑顔と八重歯。

「絵はからっきしなもんで、すごいなって、見せていただいてましたよ」

顔を見たい間合いで日陰にきて、尋ねたい間合いで名乗り、なんという心地のよい人だろうかと境塀は思った。もちろんそれは、それこそ、君なのだ。

「境塀さん、」

名前を呼ばれただけである。しかも、仕事の名前を。本名ではない。それなのに、はじめて女性に名前を親しみを込めて呼ばれたときのような胸のざわめきを感じる。それは、浮世絵師として認められて名を呼ばれたときのような感覚ではない、まぎれもなく、幼い日の懐かしさにむせかあるあのときめきであった。

  目の前にいるのは、男である。境塀は男色の嗜みもなければ、君が女のような姿というわけでもない。それなりの太さのある声、風貌、そして。郷里のおっかさんの炊いてくれる玄米の鶏飯の色の肌は、にっこりと嗤う。こみあげるなつかしさ、いとおしさ、眩暈、君は何者なんだ。

「あ、気が利かず失礼、涼しいから、ここらへん」

  境塀がジリジリと尻で横移動をする。なにもそ尻であったまった床に座れというわけではなく、昇り口を開けたかった。
 
「ありがとう、優しいひと」

  また嗤う。そのたびに境塀は胸がたかなり、紅潮した。それはまさしく朱鷺色の。それを見た墨の里の君は、微笑ましくうかぶ笑顔をも本人が「笑い者にされた」ときにしてはならないという配慮にて自然に抑えられた優しい表情をしていた。

  運命的な事件があったわけではない、他愛ない出会いの一幕。このとき、場所を開ける境塀の動きを見て事件のことも怪我のこともしらないはずの墨の里の君は境塀の体の問題に気づき、微笑みと同じようにそれとなく気遣う。いや、気を遣わなくても自然と相手に負担の少ない立ち居振舞いをしてしまう性格である。それは本能ににていて、落ち込めないことが歪な境塀ともどこか似ていた。

 (懐かしさが込み上げたのは、二人の魂の根元が同じところにあるということなのだろうか)

  日陰は涼しい。風鈴が心のなかで鳴る。二人は出会った。生き苦しい本能をもつ、あかるいあかるい星が。

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