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衝動と黄色の肌、朱鷺色の肌。
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頼りないものと頼り甲斐のあるものが混在した、君の姿はなぜこんなにも美しいのか。と、朝日が朝らしさをぬぐいかけた印象の、初夏の早朝に思う。そこにはない花の香り、脳の芯が溶ける錯覚、あまりの甘美よ、君がいると私は体験したことのない幽玄の世界がかつての記憶のように体に満ちていく気すらする、なんてなんてなんて素敵なのかと。
浮世絵師の境塀水結は、偶然に知り合った男を思い出しては、年ごろの娘のように頬を染めて溜め息をついた。藩というものか、日本というものか、海のはての国々すべての人間に、書き手はしらないけれど作品は知っているよと言わせしめることが夢の、男である。自分を知らしめる気はないが、作品だけは知っていてほしい。それはネガティブというよりも、童歌や昔話のように、いつだれがどこで始めたのかわからない、物心ついたときには自分の世界に満ちた存在を意味するのだから、この男の夢はなかなかにして豪胆であった。治世が続けば、武勇よりもそれをつたえるものが必要なのである。武勇など必要ないと言い始める民達が増えるなか、その言葉を浴びてしまう若者や子供達の心から、強き者や鋼の勇気が消えてしまわないようにすることは、歴史家や文学者よりも娯楽の物書きや芸能に託された使命であると信じていた。いわばこの、箸よりも軽い筆を持つばかりの生活の男は、過去の英雄達の魂をこの世に繋ぎ止める、罪深くも強い杭なのだ。
そのように書き連ねても、彼の人となりがどれだけ伝わろうや。なんてことのない、こじんまりとして、本当に筆より重たいものは持てそうにない頼りがいのない姿である。バサバサのものをくくった程度の髪はどこの浮浪者か、にぃと笑うと歯抜けの笑顔、男が歯をみせて笑うなと親に厳しく言われていたがこの男はよく笑うし、それ故に仕事が少ないときでも生きていられるのだ。そう、なさけなさやみすぼらしさが人を離れさせるどころか、人懐っこく不器用な芸術家として周囲が彼の世話をせずにはいられないでいる…境塀とはそんな男である。境だの塀だのという名前が何を拒絶しているのか不明だが、どちらかといえば誰とも溶け合い、まるであらゆるひとの魂を少しずつ集めて一人の人間にしているのかと錯覚させるような、誰にとっても懐かしい男。
(あらゆるひとを集めたとして、彼自身はどこなのだろう)
さて、その境塀が泊まり込んでの仕事を終えた帰り道のことである。二ヶ月ほどその仕事にうちこんだ代わりに、その間ほかのことはなにもしていない。無収入であり、不義理に思った客もいたかもしれない。それだけかけた仕事の謝礼金を抱えて帰るには、人気のない早朝に通るには心許ない道であるが、よそから出張ってきた仕事であろう境塀が知るよしもない。物語の当然のごとくして、ようようとひったくられ、滅多うちにされた体は彼がこの先しばらく気持ちを筆に通わせることが出来ない程度の麻痺を残した。雇い主がひきとめるか、分割で払えばここまでされなかったかもしれない。大金を奪うからには追撃の執念も上がろうと、賊は彼を死なせるつもりで痛め付けたのだから。起きたことに、こうしていたらこうなっていればとタラレバ語っても仕方のないことなので先を話すと、彼は絵がかけない間は労働したが、力もないので貸本屋の店番や他の戯作者とのやりとりにせいをだした。ただ、絵師と顔を会わせる機会だけは、あとから少しだけ寂しい目をして、すぐに元通りの顔になって笑うのだった。と、番頭のように店内を見渡す蜘蛛だけがみていた話。
じゃあなにかと。君はいつ現れるのだ。
彼が番をはじめてからのこと。手が麻痺していて人並みに動けないことをあらかじめ示してら粗相の際の苦情を避けようと考えた日があった。苦情をいう人はじつにすくないが、心にもやを残す人はいるだろう。知っていれば収まるかもしれないが、怪我を触れ回るのも同情を買おうと必死のようでいやらしい。境塀はそんなことを考えながら、床の上に寝そべってごろごろとしていた。最近やたらと客が増え、おかげで転倒の在庫がすこぶる減った。おかげで、ごろごろとどこまでも転がることができるもんだ。などと、バカなことをしながらふと、印刷所へ新刊を取りに行った店主の帰りがやけに遅いことを思い出す。
はて、良い歳をして迷子もなかろう、ぼけるにも早ければ、自分のように襲われるたまでもない。それならば、彼自信の問題ではなく、印刷所の新館に何かあったのだろうか?ごろりと天井を向く。キセルとは愉快な道具で、酒と違ってこのような体勢でも楽しめてしまうのだから、よくできたものだ。紙を扱う、しかも人様にかすならにおいなどつけてはいけないのに、よくも喫するものだと、妻ならいうだろうが仕事場に妻など来るものか。店主が許しているのだからそれでいい。
「店主、なかなか帰ってこんなぁ」
思っていたことを声に出してみても、何も変わらなかった。結局、店を閉めようかという時刻になって夕焼けに墨を流した景色を背に、店主は帰ってきたのだが、その傍らにいたのが境塀が惚れ込んでしまう男である。つまりは、君と呼ばれる人物なのだった。境塀は息をのんでその動きを目でおったが、店主は彼を紹介もせずに君を奥につれていってしまい、ずいぶんとやきもきしたものだった。用事をつくって声をかけにいったが、そこに君はいなかった。その後も君は何度も現れたが見事にすれ違い、境塀は心のなかに狂おしい何かが芽生えるのを感じた。それは衆道の濃いではなく、浮世絵師の本能が叫んでいたのだった。神代仏よ悪霊でもよい、どうか早くこの体を癒し絵を描く自由を与えよ、この肉体の牢獄から解き放て!
……境塀が君と言葉を交わしたのは、君が貸本屋に連れてこられてから二ヶ月は越えていたはずの、暑い昼下がりだった。それは今でも覚えていると、蜘蛛が言っている。
浮世絵師の境塀水結は、偶然に知り合った男を思い出しては、年ごろの娘のように頬を染めて溜め息をついた。藩というものか、日本というものか、海のはての国々すべての人間に、書き手はしらないけれど作品は知っているよと言わせしめることが夢の、男である。自分を知らしめる気はないが、作品だけは知っていてほしい。それはネガティブというよりも、童歌や昔話のように、いつだれがどこで始めたのかわからない、物心ついたときには自分の世界に満ちた存在を意味するのだから、この男の夢はなかなかにして豪胆であった。治世が続けば、武勇よりもそれをつたえるものが必要なのである。武勇など必要ないと言い始める民達が増えるなか、その言葉を浴びてしまう若者や子供達の心から、強き者や鋼の勇気が消えてしまわないようにすることは、歴史家や文学者よりも娯楽の物書きや芸能に託された使命であると信じていた。いわばこの、箸よりも軽い筆を持つばかりの生活の男は、過去の英雄達の魂をこの世に繋ぎ止める、罪深くも強い杭なのだ。
そのように書き連ねても、彼の人となりがどれだけ伝わろうや。なんてことのない、こじんまりとして、本当に筆より重たいものは持てそうにない頼りがいのない姿である。バサバサのものをくくった程度の髪はどこの浮浪者か、にぃと笑うと歯抜けの笑顔、男が歯をみせて笑うなと親に厳しく言われていたがこの男はよく笑うし、それ故に仕事が少ないときでも生きていられるのだ。そう、なさけなさやみすぼらしさが人を離れさせるどころか、人懐っこく不器用な芸術家として周囲が彼の世話をせずにはいられないでいる…境塀とはそんな男である。境だの塀だのという名前が何を拒絶しているのか不明だが、どちらかといえば誰とも溶け合い、まるであらゆるひとの魂を少しずつ集めて一人の人間にしているのかと錯覚させるような、誰にとっても懐かしい男。
(あらゆるひとを集めたとして、彼自身はどこなのだろう)
さて、その境塀が泊まり込んでの仕事を終えた帰り道のことである。二ヶ月ほどその仕事にうちこんだ代わりに、その間ほかのことはなにもしていない。無収入であり、不義理に思った客もいたかもしれない。それだけかけた仕事の謝礼金を抱えて帰るには、人気のない早朝に通るには心許ない道であるが、よそから出張ってきた仕事であろう境塀が知るよしもない。物語の当然のごとくして、ようようとひったくられ、滅多うちにされた体は彼がこの先しばらく気持ちを筆に通わせることが出来ない程度の麻痺を残した。雇い主がひきとめるか、分割で払えばここまでされなかったかもしれない。大金を奪うからには追撃の執念も上がろうと、賊は彼を死なせるつもりで痛め付けたのだから。起きたことに、こうしていたらこうなっていればとタラレバ語っても仕方のないことなので先を話すと、彼は絵がかけない間は労働したが、力もないので貸本屋の店番や他の戯作者とのやりとりにせいをだした。ただ、絵師と顔を会わせる機会だけは、あとから少しだけ寂しい目をして、すぐに元通りの顔になって笑うのだった。と、番頭のように店内を見渡す蜘蛛だけがみていた話。
じゃあなにかと。君はいつ現れるのだ。
彼が番をはじめてからのこと。手が麻痺していて人並みに動けないことをあらかじめ示してら粗相の際の苦情を避けようと考えた日があった。苦情をいう人はじつにすくないが、心にもやを残す人はいるだろう。知っていれば収まるかもしれないが、怪我を触れ回るのも同情を買おうと必死のようでいやらしい。境塀はそんなことを考えながら、床の上に寝そべってごろごろとしていた。最近やたらと客が増え、おかげで転倒の在庫がすこぶる減った。おかげで、ごろごろとどこまでも転がることができるもんだ。などと、バカなことをしながらふと、印刷所へ新刊を取りに行った店主の帰りがやけに遅いことを思い出す。
はて、良い歳をして迷子もなかろう、ぼけるにも早ければ、自分のように襲われるたまでもない。それならば、彼自信の問題ではなく、印刷所の新館に何かあったのだろうか?ごろりと天井を向く。キセルとは愉快な道具で、酒と違ってこのような体勢でも楽しめてしまうのだから、よくできたものだ。紙を扱う、しかも人様にかすならにおいなどつけてはいけないのに、よくも喫するものだと、妻ならいうだろうが仕事場に妻など来るものか。店主が許しているのだからそれでいい。
「店主、なかなか帰ってこんなぁ」
思っていたことを声に出してみても、何も変わらなかった。結局、店を閉めようかという時刻になって夕焼けに墨を流した景色を背に、店主は帰ってきたのだが、その傍らにいたのが境塀が惚れ込んでしまう男である。つまりは、君と呼ばれる人物なのだった。境塀は息をのんでその動きを目でおったが、店主は彼を紹介もせずに君を奥につれていってしまい、ずいぶんとやきもきしたものだった。用事をつくって声をかけにいったが、そこに君はいなかった。その後も君は何度も現れたが見事にすれ違い、境塀は心のなかに狂おしい何かが芽生えるのを感じた。それは衆道の濃いではなく、浮世絵師の本能が叫んでいたのだった。神代仏よ悪霊でもよい、どうか早くこの体を癒し絵を描く自由を与えよ、この肉体の牢獄から解き放て!
……境塀が君と言葉を交わしたのは、君が貸本屋に連れてこられてから二ヶ月は越えていたはずの、暑い昼下がりだった。それは今でも覚えていると、蜘蛛が言っている。
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