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柑橘パッション君らと踊る
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うららかな春という言葉をよく聞くが、具体的にどのようなものがウララなのかは知らない。ウララとは何なのか、何故この時間のバスはこんなにも出掛ける前のシャワーあがりのように強く香料を背負った姫君の多きことや。
その日、ぼくの脳内には三十年前のケーキの味が満ち溢れていた。三十年前のケーキを食べてしまった味ではなく、三十年前に食べたケーキの味だということは、ぼくの平凡さに裏打ちされていた。しかし三十年間誰にも食べられることなく、朽ち果てて形を失い虫に分解されもしないケーキが目の前にあったとしたら、それはどのような経緯をもって保管されていたのか気にならなくもない。また帰ってこれるはずとカメにいれて土で蓋をして、火山の噴火にみまわれ灰に埋もれた都市で発掘されたのだろうか。いや、もっとシンプルに、引っ越しただけかもしれないし、誕生日パーティー前の惨劇を隠すべく誰かが遺体と冷凍庫にしまいこんだとしたら。
「また難しい顔してる」
「でも嫌いではないって顔してるよ」
「そ?でも、喜びはしないわよ、できれば笑っててほしい」
彼女ら竹の子族にぶりっ子だねと口笛を吹かれそうなパーマネントの髪を揺らして唇を尖らせた。
「善処する」
いつも通りにいうと、彼女の輪郭は崩れて消えた。竹の子族だなんて笑ってしまうもので、そんなものはいまは誰かの作品の中に描かれるだけの過去のブームだった。ムーブメント、あるいはフィーバー、いっときの熱だった。だからこれは記憶の再生なのだ。
なにより、ぼくはその時代に青春を送っていたわけでもなく、さて時代を振り返りましょうといった番組でその存在を知った程度の認識しかない。
「でも、彼女はたぶんオキャンってやつだ」
と、空気につぶやいた。オキャンという表現も知らないが、先程のゴーストが現役の時代には彼女のようなひとをそういっていたのではないかと何となく思った。知らない時代の言葉なら、ズルズルメッギョポンだとかハンヌビバズゴラーとか適当な文字列でもいいのだけど、人との会話にそれがでるととりあえず記号に置き換えて聞き流して意味を探ればいい…と、思うのだけれど、オキャンはオキャンでやはり概念に近いものなのだろうか今一つ腹にストンとこない。オキャンのオは御だろう、キャンはなにか、キャンキャラ煩い小型犬のようなキャンパスガールだろうか?女子大生ブームだとか、短大生ブームとかあったときくけれど、それと時代は合うのだろうか?ぼくには分からない。かといって、わざわざ調べる気持ちにもならない。
ゴーストは誰かの記憶、人体は絶えず微弱な電流を発し意志といわれる思考回路も電子の行き交いならば、結局のところデジタルデータとして残せるものであろうし、また空間に静電気のように溜まることもあるだろう。思考や感情と呼ばれるものが。だったらぼくが思うに、ゴーストという空間に記録されたデジタルデータを我々が認識するとき、もし怪奇現象としてのゴーストの価値を損なわないようにするならば、彼女たちは髪を下敷きで擦られた小学生のように静電気にあちこちひっぱられたマヌケな姿で出てきていただかねばならない…本末転倒、さよなら威厳。
「なによ!あんたなんかパイナップルの詰まったキリンのパイでも食べてなさいな」
「いいね、もってきてよ。ぼくは珈琲をいれるから」
これもきっと誰かの記憶だ、この空間に残ってる。プロジェクターと透明シートで映す、なにかの標本だ。
母国語の会話でも、同じ地域の方言であっても、ぼくの知らない単語で喋る人はいくらでもいる。ぼくがその言葉が指すものを理解できなくても、相手の認識して語ろうとしてる事実がなかったことになるわけでもない。
ぼくの知らない時代にもブームはあって、その頃にぼくの年齢だったひとがそれを楽しいと感じたことも、別におかしくない。いまのぼくがそれを面白いとおもわなくても、それは前後の出来事が違うからコンテンツの意味が全く変わってくる。
「ねぇ、なんでそんな顔してるの?」
ゴーストよ、貴女が誰か思い出せないからだよ。ぼくの知ってる人なのか、そうではないのか、それとも初めから存在しないというありがちな物語なのかい?
ぼくは、懐かしいあの味を口のなかいっぱいに広げる。あの風味はどこから来るのだろうと色々な店を食べ歩き、ある日まさか自分の作ったものからあの風味を感じたとき。味のクオリティは比べることも失礼なほどのハンドメイドだったが、あの風味はまさに。
「マダム・パインアップル、ぼくのゴースト、珈琲はこのままでいい?何かいれるの?」
「知らないの?ゴーストはコンデンスミルクで出来てるの、それから左手の小指は蜂蜜がでる」
「そう、便利なんだね」
ゴーストは得意気にコーヒーに小指を浸してかきまぜた。喉越しにはコンデンスミルクがとけいっているのだろうか?それでも消えてしまわないなら、どこで補充しているんだろう?スーパーで買うのかしら?
「もっと煙みたいなものかとおもってたよ」
「煙は涙がでるからだめよ、涙はゴーストを閉じ込める。だからもっと楽しいもので出来てなきゃいけないの」
ゴーストは笑って、ぼくの口角にほのかに溜まった珈琲を舐めとった。冗談のように甘いのは、舐めとってるつもりで付着させてしまうほど、彼女の珈琲が蜂蜜の入れすぎでべたついていたからか。
「なによ、喜んでよ。難しい顔ばっかりしてさ」
「ごめんね、ぼく、いまさぁ」
映画を早回しで見たんだ、とてもとても早くて、この空間で起きたあらゆる強い記憶のツギハギが目の前で再生されていた。勝手に。
だからこのゴーストよ、それも一人ではなくツギハギなのか。何度めぐってもどこか似ている人達の記憶が融け合って生まれた、誰でもない誰か、誰でもある誰か、ほかでもないみんな。マダム・パインアップル。
貴女のぼくへの気持ちの正体がわかったよ。あぁ、それはとても単純で、貴女のようなゴーストはつまるところ情報をからめとった綿菓子なんだね。
松笠や
束の間でさえ
さぐり指
いとしいとおし
あの者たぐり
「だからどうして泣くの」
「ごめん、貴女がいてくれるのに、ぼくは会いたい人が居てね」
「うん知ってる。だって私は」
私は。
ゴーストは涙に閉じ込められる、そうかあの日ぼくが泣いたから。貴女は涙に焼き付けられて、ぼくに所有されてるのか。道理で。
空間はホログラフ。ふぃと消える。口をひらけば、君への気持ちがどうしようもなくて、こんなにも不安なのになぜか不思議な安心感をくれる一つの信仰、あぁ戸惑い。こんなぼくなんか、キリンのパイでも食べてなさいな。
その日、ぼくの脳内には三十年前のケーキの味が満ち溢れていた。三十年前のケーキを食べてしまった味ではなく、三十年前に食べたケーキの味だということは、ぼくの平凡さに裏打ちされていた。しかし三十年間誰にも食べられることなく、朽ち果てて形を失い虫に分解されもしないケーキが目の前にあったとしたら、それはどのような経緯をもって保管されていたのか気にならなくもない。また帰ってこれるはずとカメにいれて土で蓋をして、火山の噴火にみまわれ灰に埋もれた都市で発掘されたのだろうか。いや、もっとシンプルに、引っ越しただけかもしれないし、誕生日パーティー前の惨劇を隠すべく誰かが遺体と冷凍庫にしまいこんだとしたら。
「また難しい顔してる」
「でも嫌いではないって顔してるよ」
「そ?でも、喜びはしないわよ、できれば笑っててほしい」
彼女ら竹の子族にぶりっ子だねと口笛を吹かれそうなパーマネントの髪を揺らして唇を尖らせた。
「善処する」
いつも通りにいうと、彼女の輪郭は崩れて消えた。竹の子族だなんて笑ってしまうもので、そんなものはいまは誰かの作品の中に描かれるだけの過去のブームだった。ムーブメント、あるいはフィーバー、いっときの熱だった。だからこれは記憶の再生なのだ。
なにより、ぼくはその時代に青春を送っていたわけでもなく、さて時代を振り返りましょうといった番組でその存在を知った程度の認識しかない。
「でも、彼女はたぶんオキャンってやつだ」
と、空気につぶやいた。オキャンという表現も知らないが、先程のゴーストが現役の時代には彼女のようなひとをそういっていたのではないかと何となく思った。知らない時代の言葉なら、ズルズルメッギョポンだとかハンヌビバズゴラーとか適当な文字列でもいいのだけど、人との会話にそれがでるととりあえず記号に置き換えて聞き流して意味を探ればいい…と、思うのだけれど、オキャンはオキャンでやはり概念に近いものなのだろうか今一つ腹にストンとこない。オキャンのオは御だろう、キャンはなにか、キャンキャラ煩い小型犬のようなキャンパスガールだろうか?女子大生ブームだとか、短大生ブームとかあったときくけれど、それと時代は合うのだろうか?ぼくには分からない。かといって、わざわざ調べる気持ちにもならない。
ゴーストは誰かの記憶、人体は絶えず微弱な電流を発し意志といわれる思考回路も電子の行き交いならば、結局のところデジタルデータとして残せるものであろうし、また空間に静電気のように溜まることもあるだろう。思考や感情と呼ばれるものが。だったらぼくが思うに、ゴーストという空間に記録されたデジタルデータを我々が認識するとき、もし怪奇現象としてのゴーストの価値を損なわないようにするならば、彼女たちは髪を下敷きで擦られた小学生のように静電気にあちこちひっぱられたマヌケな姿で出てきていただかねばならない…本末転倒、さよなら威厳。
「なによ!あんたなんかパイナップルの詰まったキリンのパイでも食べてなさいな」
「いいね、もってきてよ。ぼくは珈琲をいれるから」
これもきっと誰かの記憶だ、この空間に残ってる。プロジェクターと透明シートで映す、なにかの標本だ。
母国語の会話でも、同じ地域の方言であっても、ぼくの知らない単語で喋る人はいくらでもいる。ぼくがその言葉が指すものを理解できなくても、相手の認識して語ろうとしてる事実がなかったことになるわけでもない。
ぼくの知らない時代にもブームはあって、その頃にぼくの年齢だったひとがそれを楽しいと感じたことも、別におかしくない。いまのぼくがそれを面白いとおもわなくても、それは前後の出来事が違うからコンテンツの意味が全く変わってくる。
「ねぇ、なんでそんな顔してるの?」
ゴーストよ、貴女が誰か思い出せないからだよ。ぼくの知ってる人なのか、そうではないのか、それとも初めから存在しないというありがちな物語なのかい?
ぼくは、懐かしいあの味を口のなかいっぱいに広げる。あの風味はどこから来るのだろうと色々な店を食べ歩き、ある日まさか自分の作ったものからあの風味を感じたとき。味のクオリティは比べることも失礼なほどのハンドメイドだったが、あの風味はまさに。
「マダム・パインアップル、ぼくのゴースト、珈琲はこのままでいい?何かいれるの?」
「知らないの?ゴーストはコンデンスミルクで出来てるの、それから左手の小指は蜂蜜がでる」
「そう、便利なんだね」
ゴーストは得意気にコーヒーに小指を浸してかきまぜた。喉越しにはコンデンスミルクがとけいっているのだろうか?それでも消えてしまわないなら、どこで補充しているんだろう?スーパーで買うのかしら?
「もっと煙みたいなものかとおもってたよ」
「煙は涙がでるからだめよ、涙はゴーストを閉じ込める。だからもっと楽しいもので出来てなきゃいけないの」
ゴーストは笑って、ぼくの口角にほのかに溜まった珈琲を舐めとった。冗談のように甘いのは、舐めとってるつもりで付着させてしまうほど、彼女の珈琲が蜂蜜の入れすぎでべたついていたからか。
「なによ、喜んでよ。難しい顔ばっかりしてさ」
「ごめんね、ぼく、いまさぁ」
映画を早回しで見たんだ、とてもとても早くて、この空間で起きたあらゆる強い記憶のツギハギが目の前で再生されていた。勝手に。
だからこのゴーストよ、それも一人ではなくツギハギなのか。何度めぐってもどこか似ている人達の記憶が融け合って生まれた、誰でもない誰か、誰でもある誰か、ほかでもないみんな。マダム・パインアップル。
貴女のぼくへの気持ちの正体がわかったよ。あぁ、それはとても単純で、貴女のようなゴーストはつまるところ情報をからめとった綿菓子なんだね。
松笠や
束の間でさえ
さぐり指
いとしいとおし
あの者たぐり
「だからどうして泣くの」
「ごめん、貴女がいてくれるのに、ぼくは会いたい人が居てね」
「うん知ってる。だって私は」
私は。
ゴーストは涙に閉じ込められる、そうかあの日ぼくが泣いたから。貴女は涙に焼き付けられて、ぼくに所有されてるのか。道理で。
空間はホログラフ。ふぃと消える。口をひらけば、君への気持ちがどうしようもなくて、こんなにも不安なのになぜか不思議な安心感をくれる一つの信仰、あぁ戸惑い。こんなぼくなんか、キリンのパイでも食べてなさいな。
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