【本編完結】溺愛してくる敵国兵士から逃げたのに、数年後、××になった彼に捕まりそうです

結婚の約束

　エミーユが自宅に帰るとリベルが走り出てきた。

「エミーユ、おかえりなしゃい」

　最近ではまた少し大きくなって、拗ねて階段の後ろに隠れることも減ってきた。そのかわり、帰宅するたびに、それまでにあった出来事を話してくる。

「しぇしるのいえのこいぬ、かわいかったの」
「子犬、生まれたんだね」
「てのひらにのるくらい、ちいしゃいの」
「リベルの小さい手のひらに乗るの？」
「うん、ちいしゃくて、あったかくて、くうくう、ねてるの」

　リベルは合わせた両手を頬に当てて首を傾けた。目を閉じて眠る真似をする。

「ふふ、可愛い」
「うん、こいぬ、とても、かわいいの」

　エミーユはリベルに言ったつもりだったが、リベルは子犬のことを言ったと思ったようだった。
　リベルを寝かしつけたあと、エミーユは母親のヘレナに切り出した。

「リベルの父親と再会しました」
「まあ……！　マリウスさんと？」

　エミーユもヘレナも過去をそれほど多くは語っていない。おそらくヘレナには口に出せるようになるにはまだ時間が必要なのだろうし、エミーユも会話の間にぽつぽつとしか語っていない。
　エミーユはマリウスを受け入れることを考えていた。拒否するにはもう遅すぎる。

「今は皇帝なんだ」

　そう言えばヘレナは唖然としていたが「まあそういうこともあるでしょうよ」の一言で片づけた。
　視察のときに、皇帝を間近で見て、もしかしたらリベルに重なるものを感じたのかもしれなかった。
　しかしながらエミーユにはまだ怯えがある。目の前のマリウスはただの甘えん坊でも、皇帝のマリウスはあまりに遠い人である。それは退位したとしてもあまり変わらないことのように思える。
　マリウスはエミーユからリベルを奪いはしない。それはもうマリウスを見ていればわかる。そんなひどいことをやらかすような人ではない。
　けれども、マリウスが本当に皇帝をやめることができるのか、それがマリウスにとって良いことなのか、そして、人民にとっても良いことなのか、わからない。いろいろと考えてしまうと怖気づいて逃げたくなる。エミーユは庶民だが、マリウスは大国の貴族どころか皇帝なのだ。そんな人と結婚だなんて途方もなさすぎる。

「マリウスに結婚を申し込まれています。お母さん、どう思う？」
「あなたの気持ちはどうなの？」
「マリウスには幸せになってもらいたいと思ってる」
「本当に幸せになってもらいたいなら、思うだけじゃダメでしょ」
「うん、そうだね」

　あれだけエミーユに懐いているマリウスをエミーユ以上に幸せにできる人がいるとは思えない。

（思いあがっているかな。でも、幸せにしてあげたい、マリウスを）

　心の底では、とっくに答えが出ている。
　何より、リベルが「おとうしゃん」と言ってより、それがだんだんとエミーユの中で大きくなっている。
　このまま二人を会わせないでいるのは、どちらからも奪うことだった。リベルからマリウスを、マリウスからリベルを。
　エミーユは心を決めた。

◇

「マリウス、次にエルラントに来るのはいつですか？」

　楽長室のテーブルで、マリウスはほお張っていた干しイチジクを喉に詰まらせかけた。
　そんなことをエミーユが訊いてくるのは珍しかった。次を約束するような素振りを見せることは。

「次？　次に何かあるってこと？」
「次は私の自宅に来てください」
「い、家？　ほ、ほんと？　行ってもいいの？　じゃあ、次に来られるのは、に、二週間後だけど、そのとき！　いや、がんばって仕事を済ませて十日後には来る！」
「では、家に直接来てください。母と息子と待っています」
「エ、エミーユ……！」

　マリウスは早速目に大粒の涙を浮かべ始めている。
　エミーユは覚悟を決めた目で言った。

「マリウス、私と結婚してください」
「エミーユ……！」

　マリウスは椅子から飛び上がると、よろよろとエミーユの元まで来て、エミーユを抱きしめた。

「エミーユが俺にプロポーズしてくれた………！」

　マリウスは嗚咽を上げ始めていた。

（ふふ、マリウス……、やっぱり泣き虫だな……、可愛い人……）


　初めて約束を交わし合って会うことになった日、しかし、マリウスがエミーユの自宅に足を踏み入れることはできなかった。