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懊悩4
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分厚いカーテンの隙間から差し込む朝陽が、室内に光の筋を投げかけていた。
エミーユは胸に抱いた温もりに頬を摺り寄せた。柔らかな毛髪が頬をくすぐる。
エミーユにこの上ない満足感があった。
(愛おしい人……。このうえなく可愛くて愛おしい……)
その髪に手を差し入れて、柔らかな感触を味わう。
目を開けて、銀髪にビクッと手を止めた。
(風になびく皇帝の銀髪、アウグスト帝……)
目の前にいるのはマリウスだが、皇帝その人でもあった。
エミーユは恐れおののいた。
うなじに触れる。
(つ、がいっ……、と言った。でも、マリウスは嫌がる私を無理に番にしたりはしない。単なるヒート事故で終わるはずだ)
エミーユは何とか気を落ち着かせながらベッドを降りた。
◇
静かな室内、ベッドの上で、頑丈そうな武人の腕がシーツの上を往復する。往復する場所が広がり、広いベッドの隅に届いたとき、ベッドの上でガバッと起き上がる姿があった。
「エ、エミ………。エミーユ、どこ?」
マリウスは情けない声を出していた。
「エミーユ? エミーユ?」
(せっかくこの手に掴んだのに)
エミーユの存在が感じられないことが、マリウスには不安だった。
重厚なしつらえの調度品の置かれた室内は誰もいなかった。
(また、逃げたの………?)
マリウスは扉を開けて居間に出た。そして、ほっと胸を撫で下ろす。
エミーユはソファに座って縫い物をしていた。
エミーユにもマリウスを置いて退出することの非礼さをわからないはずがない。皇帝がエミーユをそこに望むのだ、やすやすと逃げられるはずもない。
それに護衛兵士にエミーユを出すなと伝えてもいる。
エミーユはマリウスを見ると、一瞬、その目に情愛が浮かんだ気がしたが、それは急によそよそしいものに色を変え、手にしたものをテーブルに置いて立ち上がった。
「陛下」
畏まってこうべをさげる。
マリウスは唇を噛んでエミーユを見た。
(どうして、そんな他人行儀なの……?)
マリウスはエミーユに近寄り、引き寄せようとした。
しかし、するりと交わされて、エミーユは廊下に通じるドアに向かう。
「エミーユ……!」
エミーユはマリウスが呼んでも振り向かずに、ドアを開いた。
(逃げないで)
マリウスは慌ててその背中にすがりついた。両膝を床についてエミーユの腰にしがみつく。
「待って、逃げないで。俺を捨てないで、エミーユッ……!」
「逃げるわけでは。ただ、陛下が目覚めたら教えて欲しいと兵士の方が言っておりましたので」
廊下から顔をのぞかせた護衛隊長が、ギクリとした顔でマリウスとエミーユとを交互に見た。
「陛下、あんた………」
エミーユは服をきちんと着込んでいるが、マリウスは全裸だ。全裸の皇帝が情けない顔で一使用人にすがりついている。
護衛隊長は申し訳なさそうな顔をエミーユに向けた。
「楽長さん、俺たちの皇帝がなんかすまねえな。いろいろとこじらせちまったみてえでよ。面倒かけてるけど、許してやってくれよ、悪いやつじゃねえからよ」
マリウスはスンッと、立ち上がった。皇帝然とした顔つきになる。
「護衛隊長、兵団は今どこだ?」
マリウスは長身に筋肉を蓄えており、傷痕も相まって威風堂々たる体躯だが、全裸で、しかも、逆立った銀髪はふぁさっと揺れており、澄ました顔をしたところで格好はつかない。
護衛隊長は笑いをこらえた顔を皇帝に向けた。
「兵団は国境沿いの平原で野営している。リージュ公がいるから安心だが、訪問先はあんたがいなきゃ収まらんだろうな。相手国には皇帝が行くって言ってんだからよ」
「今日の日暮れまでには追い付くと伝えてくれ」
「了解」
扉が閉まるとマリウスは、エミーユに告げた。
「そのときにはあなたも一緒だ。あなたも俺とともに行くんだ」
エミーユは目を見開いた。何を言っているのかわからないといった顔つきだった。
「エミーユ、俺はあなたを俺の番にする」
エミーユを手に入れると決めた以上は、何があっても手に入れる。エミーユを番にする。
しかし、一方的に番にすることは、マリウスにはどうしてもできなかった。昨夜、何度もうなじを噛みたくなったが、かろうじてこらえた。
一緒に過ごすうちにエミーユもいつか許してくれるのではないか。許してくれないのならばそれはそれで構わない。だが逃さない。
エミーユに怯えが浮かんだ。マリウスから後ずさる。
「わ、私の発情に巻き込んだことなら謝ります。でも、私はあなたとは一緒にはいけません」
エミーユはエミーユで、皇帝を発情に巻き込んだと思い込んでいる。
「あなたの事情など関係ない」
マリウスは傲然と言い放つ。エミーユに一歩進んだ。
エミーユは後ずさる。マリウスは前に迫り、エミーユを壁際に追い詰めた。両手を壁についてエミーユを囲う。
もうエミーユはかごの中の鳥も同然だった。
「あなたがこの部屋から出るのは、俺の番になってからだ」
エミーユをひっくり返して背中から抱きしめると、マリウスはうなじに歯を当てた。
「無理矢理、番にしてもいいんだ」
「い、いやっ、マリウス……!」
自分の名で呼ばれて、マリウスはビクッとする。マリウスは途端に皇帝ではなく、ただのマリウスになる。
泣き虫マリウスになる。
エミーユは胸に抱いた温もりに頬を摺り寄せた。柔らかな毛髪が頬をくすぐる。
エミーユにこの上ない満足感があった。
(愛おしい人……。このうえなく可愛くて愛おしい……)
その髪に手を差し入れて、柔らかな感触を味わう。
目を開けて、銀髪にビクッと手を止めた。
(風になびく皇帝の銀髪、アウグスト帝……)
目の前にいるのはマリウスだが、皇帝その人でもあった。
エミーユは恐れおののいた。
うなじに触れる。
(つ、がいっ……、と言った。でも、マリウスは嫌がる私を無理に番にしたりはしない。単なるヒート事故で終わるはずだ)
エミーユは何とか気を落ち着かせながらベッドを降りた。
◇
静かな室内、ベッドの上で、頑丈そうな武人の腕がシーツの上を往復する。往復する場所が広がり、広いベッドの隅に届いたとき、ベッドの上でガバッと起き上がる姿があった。
「エ、エミ………。エミーユ、どこ?」
マリウスは情けない声を出していた。
「エミーユ? エミーユ?」
(せっかくこの手に掴んだのに)
エミーユの存在が感じられないことが、マリウスには不安だった。
重厚なしつらえの調度品の置かれた室内は誰もいなかった。
(また、逃げたの………?)
マリウスは扉を開けて居間に出た。そして、ほっと胸を撫で下ろす。
エミーユはソファに座って縫い物をしていた。
エミーユにもマリウスを置いて退出することの非礼さをわからないはずがない。皇帝がエミーユをそこに望むのだ、やすやすと逃げられるはずもない。
それに護衛兵士にエミーユを出すなと伝えてもいる。
エミーユはマリウスを見ると、一瞬、その目に情愛が浮かんだ気がしたが、それは急によそよそしいものに色を変え、手にしたものをテーブルに置いて立ち上がった。
「陛下」
畏まってこうべをさげる。
マリウスは唇を噛んでエミーユを見た。
(どうして、そんな他人行儀なの……?)
マリウスはエミーユに近寄り、引き寄せようとした。
しかし、するりと交わされて、エミーユは廊下に通じるドアに向かう。
「エミーユ……!」
エミーユはマリウスが呼んでも振り向かずに、ドアを開いた。
(逃げないで)
マリウスは慌ててその背中にすがりついた。両膝を床についてエミーユの腰にしがみつく。
「待って、逃げないで。俺を捨てないで、エミーユッ……!」
「逃げるわけでは。ただ、陛下が目覚めたら教えて欲しいと兵士の方が言っておりましたので」
廊下から顔をのぞかせた護衛隊長が、ギクリとした顔でマリウスとエミーユとを交互に見た。
「陛下、あんた………」
エミーユは服をきちんと着込んでいるが、マリウスは全裸だ。全裸の皇帝が情けない顔で一使用人にすがりついている。
護衛隊長は申し訳なさそうな顔をエミーユに向けた。
「楽長さん、俺たちの皇帝がなんかすまねえな。いろいろとこじらせちまったみてえでよ。面倒かけてるけど、許してやってくれよ、悪いやつじゃねえからよ」
マリウスはスンッと、立ち上がった。皇帝然とした顔つきになる。
「護衛隊長、兵団は今どこだ?」
マリウスは長身に筋肉を蓄えており、傷痕も相まって威風堂々たる体躯だが、全裸で、しかも、逆立った銀髪はふぁさっと揺れており、澄ました顔をしたところで格好はつかない。
護衛隊長は笑いをこらえた顔を皇帝に向けた。
「兵団は国境沿いの平原で野営している。リージュ公がいるから安心だが、訪問先はあんたがいなきゃ収まらんだろうな。相手国には皇帝が行くって言ってんだからよ」
「今日の日暮れまでには追い付くと伝えてくれ」
「了解」
扉が閉まるとマリウスは、エミーユに告げた。
「そのときにはあなたも一緒だ。あなたも俺とともに行くんだ」
エミーユは目を見開いた。何を言っているのかわからないといった顔つきだった。
「エミーユ、俺はあなたを俺の番にする」
エミーユを手に入れると決めた以上は、何があっても手に入れる。エミーユを番にする。
しかし、一方的に番にすることは、マリウスにはどうしてもできなかった。昨夜、何度もうなじを噛みたくなったが、かろうじてこらえた。
一緒に過ごすうちにエミーユもいつか許してくれるのではないか。許してくれないのならばそれはそれで構わない。だが逃さない。
エミーユに怯えが浮かんだ。マリウスから後ずさる。
「わ、私の発情に巻き込んだことなら謝ります。でも、私はあなたとは一緒にはいけません」
エミーユはエミーユで、皇帝を発情に巻き込んだと思い込んでいる。
「あなたの事情など関係ない」
マリウスは傲然と言い放つ。エミーユに一歩進んだ。
エミーユは後ずさる。マリウスは前に迫り、エミーユを壁際に追い詰めた。両手を壁についてエミーユを囲う。
もうエミーユはかごの中の鳥も同然だった。
「あなたがこの部屋から出るのは、俺の番になってからだ」
エミーユをひっくり返して背中から抱きしめると、マリウスはうなじに歯を当てた。
「無理矢理、番にしてもいいんだ」
「い、いやっ、マリウス……!」
自分の名で呼ばれて、マリウスはビクッとする。マリウスは途端に皇帝ではなく、ただのマリウスになる。
泣き虫マリウスになる。
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