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宮廷楽長の家族Ⅰ
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港湾を案内される間じゅう、マリウスは上の空だった。
(あの楽長はグレン語を話していた。そして……、あれはエミーユの声だった。まさか楽長がエミーユなのか? そんなはずがない。髪の色も目の色も違う。エミーユは茶目茶髪のはずだ。だからエミーユのはずがない)
匂いを嗅げばよかったのだが、衝撃のあまり嗅ぐのを忘れていた。だが、楽長がエミーユだとすればこれほどしっくりくるものはなかった。
(あの声は確かにエミーユだった。俺があの声を聞き間違えるはずがない。でも目と髪の色が違う)
港にいる間じゅうぐるぐると思考と感情は乱れに乱れて、帰りの馬車の中でやっと気が付いた。エミーユは嘘をついていたのだと。
自分の姿を見られないようにマリウスの目に包帯を巻いておいたくらいなのだから、姿かたちについて正直に言うはずがない。
(俺は間抜けだ)
マリウスは項垂れた。しかし、次の瞬間、顔を上げて目をらんらんと輝かせる。
(でも、見つけた! 俺のエミーユ! エミーユを見つけたんだ!)
そのエミーユが今はリージュ公と過ごしている。腹立たしいことこの上ない。リージュ公がエミーユと約束を交わしたのは、マリウスの耳にも届いていた。
(くそう、リージュ公め。あいつ、堂々と港湾視察をさぼりおって。エミーユに何かしたらただじゃおかない)
しかし、次の瞬間には気弱になる。
(でも、エミーユもリージュ公のことを好きなら俺はどうすればいいんだ)
マリウスはまた項垂れる。かと思うとすぐに顔を上げる。
(いや、俺のほうがエミーユが好きだ。ぽっと出のリージュ公なんかに渡してたまるか)
権力でエミーユを自分のものにしようと考えないところが立派ではあるものの、マリウスはうじうじと内心で堂々巡りなことばかりを考えている。
そんなマリウスの様子は側近らを心配させた。
さきほどから皇帝は、項垂れたり、顔をパッと輝かせたり、表情が目まぐるしく変わる。何を話しかけられても上の空で、適当な返事しかしない。
いったい皇帝に何が起きたのか。
いつもは堂々と落ち着き払っているために、側近たちは気が気でならなかった。一番の側近であるリージュ公が、なぜか港湾視察にはついてきていないのも不安だった。
いつもと様子の違う皇帝が、エレナ女王に突拍子もない質問をぶつけてきた。
「使用人の中に、エミーユという名のつく人はいますか」
側近たちが漁獲高や通運について質問し終わり、「では他の質問はありますか」とエレナ女王が言い終えた後の質問だけに、何とも気まずかった。ただし、気まずかったのは側近だけで、当の皇帝は非常に真剣な顔を女王に向けている。
これでもマリウスは考え抜いた上での質問だった。
楽長についてもっと知りたい。エミーユだと決め手になるものがほしい。
楽長の名を聞けば早いが、楽長についてだけあれこれ訊くのも皇帝として公平性に欠ける。ならばエミーユという名前に興味があると思わせればうまくいくのではないか。
しかし、マリウスの目論見は大外れで、エレナ女王を戸惑わせるばかりだった。
「エミーユ、ですか?」
「はい、エミーユです!」
皇帝の食い付きぶりに、側近らはひやひやするも、皇帝の考えていることがわからない以上、下手に手出しもできない。
「料理長に、宮廷楽長に、あと庭師にも一人いますが、あとは、はっきりしませんわ。帰ったら侍従長に確かめてみますけど……?」
マリウスは息を吸い込んだ。
(やはり、楽長がエミーユだ……! ああ、エミーユ!)
エレナ女王にとって楽長のエミーユはノルラント亡命中に出会った思い入れのある使用人のようで、エレナ女王は自分からエミーユについて話し始めた。
しかし、そのことがマリウスをどん底に突き落とすことになるとは、目を細めてエミーユに関する話に耳を傾け始めたマリウスは思いもしなかった。
「あの子は、路上でバイオリンを弾いていたのですわ。とても繊細な音色で私はすぐに気に入りました。出会ったときには可哀想なほどに痩せこけていましたが、今は、立派な宮廷楽長になってくれました。それも、あの子を支える家族のおかげですわ」
「家族?」
「ええ、エミーユは、愛息と母親の三人暮らしです」
「ええっ?!」
(愛息とその母親?!)
マリウスは胸を銃で穿たれる程の衝撃を受けた。かろうじて馬車の中で立ち上がるのをこらえることができたが、大声を出してしまったことを咳払いでごまかす。
「ゴホゴホンッ」
エレナ女王の目に涙が浮かんでいた。
「母親は戦場から戻ってきました。それも、皇帝陛下のおかげですわ。エルラント国民に家族を返してくれたのはあなたです! 戦争が終わって皆が帰ってきた。それもこれも、陛下、あなたの、そしてあなた方の、おかげです…………!」
しんみりとした声を出すエレナ女王が、深い感謝の言葉を向けてきたが、マリウスにはそれどころではなかった。
(エミーユに妻と子どもが?!)
マリウスの目にもじんわりと涙が浮かんできた。
エレナ女王は皇帝の涙に、ますます涙を誘われる。
「ああ、陛下、あなたは本当に情の深い立派なお方です……」
エレナ女王はマリウスの涙を人々のために流す涙と勘違いしていた。しかし、そのときのマリウスは個人的ショックに涙を浮かべただけだった。
(エミーユに妻子……)
「本当に新グレン帝国には感謝しております……!」
エレナ女王の涙に側近たちも鼻をすすり上げ、一同は温かい涙に包まれていた。
しかし、マリウスだけは冷たく凍えていた。
(エミーユに妻子……)
エルラント王宮に戻ってきたマリウスは指で押せば倒れそうなほどに魂が抜けた顔つきをしていた。
(あの楽長はグレン語を話していた。そして……、あれはエミーユの声だった。まさか楽長がエミーユなのか? そんなはずがない。髪の色も目の色も違う。エミーユは茶目茶髪のはずだ。だからエミーユのはずがない)
匂いを嗅げばよかったのだが、衝撃のあまり嗅ぐのを忘れていた。だが、楽長がエミーユだとすればこれほどしっくりくるものはなかった。
(あの声は確かにエミーユだった。俺があの声を聞き間違えるはずがない。でも目と髪の色が違う)
港にいる間じゅうぐるぐると思考と感情は乱れに乱れて、帰りの馬車の中でやっと気が付いた。エミーユは嘘をついていたのだと。
自分の姿を見られないようにマリウスの目に包帯を巻いておいたくらいなのだから、姿かたちについて正直に言うはずがない。
(俺は間抜けだ)
マリウスは項垂れた。しかし、次の瞬間、顔を上げて目をらんらんと輝かせる。
(でも、見つけた! 俺のエミーユ! エミーユを見つけたんだ!)
そのエミーユが今はリージュ公と過ごしている。腹立たしいことこの上ない。リージュ公がエミーユと約束を交わしたのは、マリウスの耳にも届いていた。
(くそう、リージュ公め。あいつ、堂々と港湾視察をさぼりおって。エミーユに何かしたらただじゃおかない)
しかし、次の瞬間には気弱になる。
(でも、エミーユもリージュ公のことを好きなら俺はどうすればいいんだ)
マリウスはまた項垂れる。かと思うとすぐに顔を上げる。
(いや、俺のほうがエミーユが好きだ。ぽっと出のリージュ公なんかに渡してたまるか)
権力でエミーユを自分のものにしようと考えないところが立派ではあるものの、マリウスはうじうじと内心で堂々巡りなことばかりを考えている。
そんなマリウスの様子は側近らを心配させた。
さきほどから皇帝は、項垂れたり、顔をパッと輝かせたり、表情が目まぐるしく変わる。何を話しかけられても上の空で、適当な返事しかしない。
いったい皇帝に何が起きたのか。
いつもは堂々と落ち着き払っているために、側近たちは気が気でならなかった。一番の側近であるリージュ公が、なぜか港湾視察にはついてきていないのも不安だった。
いつもと様子の違う皇帝が、エレナ女王に突拍子もない質問をぶつけてきた。
「使用人の中に、エミーユという名のつく人はいますか」
側近たちが漁獲高や通運について質問し終わり、「では他の質問はありますか」とエレナ女王が言い終えた後の質問だけに、何とも気まずかった。ただし、気まずかったのは側近だけで、当の皇帝は非常に真剣な顔を女王に向けている。
これでもマリウスは考え抜いた上での質問だった。
楽長についてもっと知りたい。エミーユだと決め手になるものがほしい。
楽長の名を聞けば早いが、楽長についてだけあれこれ訊くのも皇帝として公平性に欠ける。ならばエミーユという名前に興味があると思わせればうまくいくのではないか。
しかし、マリウスの目論見は大外れで、エレナ女王を戸惑わせるばかりだった。
「エミーユ、ですか?」
「はい、エミーユです!」
皇帝の食い付きぶりに、側近らはひやひやするも、皇帝の考えていることがわからない以上、下手に手出しもできない。
「料理長に、宮廷楽長に、あと庭師にも一人いますが、あとは、はっきりしませんわ。帰ったら侍従長に確かめてみますけど……?」
マリウスは息を吸い込んだ。
(やはり、楽長がエミーユだ……! ああ、エミーユ!)
エレナ女王にとって楽長のエミーユはノルラント亡命中に出会った思い入れのある使用人のようで、エレナ女王は自分からエミーユについて話し始めた。
しかし、そのことがマリウスをどん底に突き落とすことになるとは、目を細めてエミーユに関する話に耳を傾け始めたマリウスは思いもしなかった。
「あの子は、路上でバイオリンを弾いていたのですわ。とても繊細な音色で私はすぐに気に入りました。出会ったときには可哀想なほどに痩せこけていましたが、今は、立派な宮廷楽長になってくれました。それも、あの子を支える家族のおかげですわ」
「家族?」
「ええ、エミーユは、愛息と母親の三人暮らしです」
「ええっ?!」
(愛息とその母親?!)
マリウスは胸を銃で穿たれる程の衝撃を受けた。かろうじて馬車の中で立ち上がるのをこらえることができたが、大声を出してしまったことを咳払いでごまかす。
「ゴホゴホンッ」
エレナ女王の目に涙が浮かんでいた。
「母親は戦場から戻ってきました。それも、皇帝陛下のおかげですわ。エルラント国民に家族を返してくれたのはあなたです! 戦争が終わって皆が帰ってきた。それもこれも、陛下、あなたの、そしてあなた方の、おかげです…………!」
しんみりとした声を出すエレナ女王が、深い感謝の言葉を向けてきたが、マリウスにはそれどころではなかった。
(エミーユに妻と子どもが?!)
マリウスの目にもじんわりと涙が浮かんできた。
エレナ女王は皇帝の涙に、ますます涙を誘われる。
「ああ、陛下、あなたは本当に情の深い立派なお方です……」
エレナ女王はマリウスの涙を人々のために流す涙と勘違いしていた。しかし、そのときのマリウスは個人的ショックに涙を浮かべただけだった。
(エミーユに妻子……)
「本当に新グレン帝国には感謝しております……!」
エレナ女王の涙に側近たちも鼻をすすり上げ、一同は温かい涙に包まれていた。
しかし、マリウスだけは冷たく凍えていた。
(エミーユに妻子……)
エルラント王宮に戻ってきたマリウスは指で押せば倒れそうなほどに魂が抜けた顔つきをしていた。
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