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両親を奪われた夜のこと2
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エミーユにはその夜のことをはっきりと思い出せる。
夕暮れ、南の丘が一面黒い兵団に覆われたかと思うと、瞬く間に騎兵が町へ乗り込んできた。
石畳の通りを蹄が打つ轟音が鳴り響く。
通りの家の戸口は片っ端から開けられて、ずかずかと兵士が入り込む。そして、住人の叫び声に、兵士の怒声。
やがて叫び声は聞こえなくなり、残されるのは泣き声に呻き声。
異変に気付いたときにはもう逃げる時間はなかった。父親が母親とエミーユに地下の工房に入るように指示した。
工房に降りればドア向こうから物音がしていたから、おそらく父親は家具を動かして地下室の入り口を何とか隠そうとしていたのだろう。
工房では母親が血相を変えて戸棚の中身を出した。エミーユに戸棚に入るように言ったので、エミーユは震えながら体を折って入り込んだ。
母親は「物音が聞こえなくなるまで出てきてはいけません」と怖い顔で言った。
そのあと、忘れられない微笑をエミーユに向けた。
――エミーユ、愛しているわ、またあとでね。
それが生きた父親と母親を見た最後だった。
足音に怒声、ものをぶつける音に空気を切る音、いろんな暴力的な音が聞こえた。それらが途絶えると、長く暗い夜があった。
やがて蹄の轟音が遠ざかっていった。
エミーユがそろそろと地下室から出ると、錆のような匂いが鼻を突いた。
階段を上り切ると、父親の――かろうじてその衣服で父親だと認識できる父親の体が横たわっていた。顔だった部分はぐちゃぐちゃになっていた。
エミーユは声も出せなかった。
――父さん………。
ガクリと膝を突けば、父親の形を取り戻そうとするかのように肉片を集めた。無我夢中でもう元に戻らないのだとわかるまでやった。
――母さんは?
家じゅうを探し回る。
家の中は荒れている。棚は倒され、カーテンは引き裂かれている。
テーブルの上には、茶色い液体が注がれたティーカップがソーサーもなく放置されており、その脇にブランデーの瓶が倒れていた。
ティーカップは父親が母親に買ったもので、母親は花柄模様のそのティーカップを眺めては嬉しそうにしていた。ブランデーは父親の顧客がくれたもので、客が喜んだと父親は得意そうにしていた。
その大切なものが、どうしてそんな乱雑に扱われているのか、エミーユには不思議だった。
――母さん?
荒れた家の中をくまなく探した。
結局、母親の姿は見つからなかった。連れ去られたのだ。
母親は叫び声をあげなかった。もしも母親の叫び声を聞いていれば、エミーユは戸棚から飛び出していただろう。
母親はそれを避けるために声も出さずに連れ去られていった。
夜が明けて通りに出ると、残された人々がいた。妖人は狩られ、抵抗する男や獣人は殺され、女は犯された。
ところどころで煙が上がっていた。
三軒隣の靴屋の店主と目が合った。店主の後ろから店主の孫娘が出てきた。エミーユの幼馴染だ。
エミーユを見ると、エミーユに駆け寄って、わっと泣き出した。
――お兄ちゃんが連れて行かれちゃった。
その娘の両親は数年前に亡くなっている。エミーユは何も発することができなかった。
店主が言った。
――あいつらは妖人を判定する薬を嗅がせて、反応があったものを連れて行った。この子の兄は妖人だったんだ。まだ15歳だったのに。きみのところは無事かい?
エミーユは喉から絞り出すような声を出した。
――父さんが死んで、母さんがいなくなってた。ぼ、ぼく、ずっと戸棚に隠れてた。
店主は同情の目を向けた。
――そうかい。第二性は遺伝の影響を受ける。きみも獣人か妖人かもしれない。この町までグレンが来たということは、おそらくエルラントはグレンの支配になった。獣人も妖人も、まともに生きていかれる国ではなくなった。一刻も早く北に逃げたほうがいいかもしれない。私もこの孫娘を北方の親戚のところに預けるつもりだ。
そのときのエミーユはまだ二次性徴を迎えておらず、獣人や妖人には分化してなかった。
このままグレンの支配下にいると、獣人に分化すれば兵士として、妖人に分化すれば怪我のゴミ入れにされるに違いなかった。
――何もしてあげられなくてごめんよ。
靴屋の店主はそう言いながら、店の奥から取ってきた路銀をエミーユのポケットに詰め込んだ。
夕暮れ、南の丘が一面黒い兵団に覆われたかと思うと、瞬く間に騎兵が町へ乗り込んできた。
石畳の通りを蹄が打つ轟音が鳴り響く。
通りの家の戸口は片っ端から開けられて、ずかずかと兵士が入り込む。そして、住人の叫び声に、兵士の怒声。
やがて叫び声は聞こえなくなり、残されるのは泣き声に呻き声。
異変に気付いたときにはもう逃げる時間はなかった。父親が母親とエミーユに地下の工房に入るように指示した。
工房に降りればドア向こうから物音がしていたから、おそらく父親は家具を動かして地下室の入り口を何とか隠そうとしていたのだろう。
工房では母親が血相を変えて戸棚の中身を出した。エミーユに戸棚に入るように言ったので、エミーユは震えながら体を折って入り込んだ。
母親は「物音が聞こえなくなるまで出てきてはいけません」と怖い顔で言った。
そのあと、忘れられない微笑をエミーユに向けた。
――エミーユ、愛しているわ、またあとでね。
それが生きた父親と母親を見た最後だった。
足音に怒声、ものをぶつける音に空気を切る音、いろんな暴力的な音が聞こえた。それらが途絶えると、長く暗い夜があった。
やがて蹄の轟音が遠ざかっていった。
エミーユがそろそろと地下室から出ると、錆のような匂いが鼻を突いた。
階段を上り切ると、父親の――かろうじてその衣服で父親だと認識できる父親の体が横たわっていた。顔だった部分はぐちゃぐちゃになっていた。
エミーユは声も出せなかった。
――父さん………。
ガクリと膝を突けば、父親の形を取り戻そうとするかのように肉片を集めた。無我夢中でもう元に戻らないのだとわかるまでやった。
――母さんは?
家じゅうを探し回る。
家の中は荒れている。棚は倒され、カーテンは引き裂かれている。
テーブルの上には、茶色い液体が注がれたティーカップがソーサーもなく放置されており、その脇にブランデーの瓶が倒れていた。
ティーカップは父親が母親に買ったもので、母親は花柄模様のそのティーカップを眺めては嬉しそうにしていた。ブランデーは父親の顧客がくれたもので、客が喜んだと父親は得意そうにしていた。
その大切なものが、どうしてそんな乱雑に扱われているのか、エミーユには不思議だった。
――母さん?
荒れた家の中をくまなく探した。
結局、母親の姿は見つからなかった。連れ去られたのだ。
母親は叫び声をあげなかった。もしも母親の叫び声を聞いていれば、エミーユは戸棚から飛び出していただろう。
母親はそれを避けるために声も出さずに連れ去られていった。
夜が明けて通りに出ると、残された人々がいた。妖人は狩られ、抵抗する男や獣人は殺され、女は犯された。
ところどころで煙が上がっていた。
三軒隣の靴屋の店主と目が合った。店主の後ろから店主の孫娘が出てきた。エミーユの幼馴染だ。
エミーユを見ると、エミーユに駆け寄って、わっと泣き出した。
――お兄ちゃんが連れて行かれちゃった。
その娘の両親は数年前に亡くなっている。エミーユは何も発することができなかった。
店主が言った。
――あいつらは妖人を判定する薬を嗅がせて、反応があったものを連れて行った。この子の兄は妖人だったんだ。まだ15歳だったのに。きみのところは無事かい?
エミーユは喉から絞り出すような声を出した。
――父さんが死んで、母さんがいなくなってた。ぼ、ぼく、ずっと戸棚に隠れてた。
店主は同情の目を向けた。
――そうかい。第二性は遺伝の影響を受ける。きみも獣人か妖人かもしれない。この町までグレンが来たということは、おそらくエルラントはグレンの支配になった。獣人も妖人も、まともに生きていかれる国ではなくなった。一刻も早く北に逃げたほうがいいかもしれない。私もこの孫娘を北方の親戚のところに預けるつもりだ。
そのときのエミーユはまだ二次性徴を迎えておらず、獣人や妖人には分化してなかった。
このままグレンの支配下にいると、獣人に分化すれば兵士として、妖人に分化すれば怪我のゴミ入れにされるに違いなかった。
――何もしてあげられなくてごめんよ。
靴屋の店主はそう言いながら、店の奥から取ってきた路銀をエミーユのポケットに詰め込んだ。
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