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【清掃日誌38】 塹壕戦

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今は昔。
かつて男達は甲冑や騎馬を出来得る限りに飾り付け、高々と名乗りを上げて剣やスキルで正々堂々と戦った。
敗者すらも雄々しく散華する美しい光景は、未だに数多の騎士物語に記されている。


無論、そんな牧歌的な情景はどこにも残っていない。
この現代社会では、無限に続く塹壕とそれを支える為に投下される巨大資本だけが戦場を支配しているのだ。
聞けば最北の辺境にあるエルフ領や最貧困国の魔界ですら、最近はせっせと塹壕を掘るらしい。


俺達が生まれ落ちたこの現代社会は。
由緒正しき騎士一族が保有する名剣などよりも、最新型のシャベルの方が余程に価値のある時代なのだ。


俺が物心付いた頃には既に塹壕戦の概念は定着していた。
我が国では騎兵は花形としての地位をとっくに剥奪されていたし、戦場工事を請け負う建設会社の経営者達はまるで英雄にでもなったかのように傲然と振る舞っていた。
いや、きっと実質的には英雄なのだろう。

今時の勝利の女神は、ただ塹壕を早く長く掘れる国に微笑むのだから。



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人質は解放され、流通センターも奪回された。
異例極まりないのだが、捕虜交換や遺品返却を名目とした20日間の停戦協定が帝国側と結ばれた。
現在、親衛師団を引き連れてこちらに急行しているルイ18世陛下の強い意向とのこと。
どうやら、人質の中に相当な大物(というより陛下の旧知の友人?)が混ざっていたらしい。


奪回作戦に参加した首長国軍はそのままこの地に駐屯し、街道防衛施設の拡充作業に従事する。

そう。
俺の前を淡々と行軍する彼らは、これから街道に沿って塹壕を掘らされるのだ。
辛く苦しく終わりのない塹壕掘削。
外交情勢が少し変われば、今度は埋め立て作業を強いられる。
そんな作業に彼らは今から従事する。
せめて祖国の為であればまだ救いはあったかも知れない。
だが、彼らが掘らされる塹壕はどちらかと言えば、ロクに援軍も寄越さない自称友好国の世論にPRする為のものなのだ。


首長国側は事態収拾の遅れを陳謝する声明を発表。
更には、従来の食糧支援に加えて義援麦50万石を拠出する事を御前会議で決定した。
これで、我が国の食糧事情改善の目処が少しは立った事になる。



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「俺とオマエが組めば、すぐにシェアを独占しちまうな(笑)」


並走するギリアム・ギアが馬上で軽口を叩く。
俺が横目でシャベルを担いで行軍している部隊を眺めていたからであろう。

消滅の俺、土系万能のギリアム。
俺達のスキルはまるで塹壕掘削会社を起ち上げる為に授かったようなものである。



『そりゃあ、確かにボロ儲けだろうさ。
軍需はケタが違うからな。
産団連の中核メンバー入り間違いなしだ。』



「ってことは却下か?(笑)」



『塹壕を掘り終わった兵士の任務は…
敵の塹壕に突撃させられる事だけだからな。』



そう。
塹壕整備が完了し余った兵士は、敵塹壕への突入作戦に組み込まれるのだ。
そして。
降り注ぐバリスタの雨、毒が塗りたくられた逆茂木、塹壕内に配備されているCQC要員によって惨殺される。
兵士に救いは無い。



『だから、塹壕事業には参入しない。』



「それはそれは高潔な事でw」



俺は高潔でも何でも無いが、そうでない奴は嫌という程見かける。
大人になるまで、世の大人達がこんなに低劣で無思慮だとは思っていなかっただけに、残念極まりない。


「慰労会。
無視して良かったのか?
どう考えてもオマエが今回のヒーローだろ?」



『戦場で慰労も糞もあるかよ。
あの老人達は、前線でどれだけ多くの貧乏人が殺されてるのか分かってないんだよ。』



倉庫に軟禁されていた連中は、見張り氏達から日頃どれだけ搾取しているのかを絶対に自覚していない。
彼らが奪われたと嘆いている所持金にしたって、それは元来貧民から奪い続けて来たカネなのだ。
全てを奪われた者は軍隊にでも身売りするしかないし、入った軍すらも困窮していれば、命を懸けて越境略奪に走る事もあるだろう。

罪が欠乏を産むのだろうか? 
欠乏が罪を産むのだろうか?
俺にはもうわからない。

ただ一つだけ理解している事は
ドナルド・キーンの帝国窮乏化作戦に加担している俺も同罪という事だけだ。
どうか全ての咎人に罰あらんことを。



「でも、チャリティー団体だぜ?
色々な所に寄付も積極的だと聞く。
あの爺さん達は、まだマシな連中なんじゃないか?」



『信用出来ないね。
どんな汚い手を使えば寄付する位に稼げるんだろうな。
俺は帝国軍の連中の方が余程人間として信用出来るけどな。』



「オマエだってあちこちでタダ働きしてるじゃねーか。
労力もカウントするなら、オマエよりも寄付している奴なんか居ないと思うぞ?
建国の父祖達が言い残した所の、《公助の精神》。
まさしくオマエが体現している。」



『あのなあ。
何度も説明しただろう。
今回の俺は、100%の私利私欲で動いている。
利敵罪で処刑されても不思議じゃあないくらいだ。』



「じゃあ、やっぱり今までのは義挙だったと認めるんだな?

ははっ、そう怖い顔をするなってww」




『もしも俺が逮捕されたら、アンタは知らぬ存ぜぬで通してくれ。
俺を売ってくれても構わない。』



「だーめだめ、治安局の連中は俺を憎んでるもの。
売ろうが売るまいが理由を付けて始末されるよ。

利敵罪…
充分、あり得るな。
何せ軍の撤退工作だからな。

なあ?
オマエ、正気なのか?」



『本気だ。』



「はっw
このボスなら退屈せずに済みそうだ。

で?
そんな事、個人でどうにかなるのか?
どうにかしていいものなのか?」



『さあな。

でも街道封鎖は突破してやっただろう?
人質も救ってやった。
もう義理は十分果たしている。
ここから先は好きにさせて貰うだけの話さ。』



キーン派との取引。
街道の封鎖解除と人質の救出という要望には、独断専行の形になったとは言え両方応えてやった。
次はあの男が約束を守る番だ。 


《平和維持軍の即時撤退。》


無理難題では無いはずだ。
当初公約されていた派兵期限はとっくに終わっている。
将兵達は存分に義務を果たした。
俺はただ公約の履行を要求しているだけなのだ。

外交事情などは知った事ではない。
契約を遵守しないなら、今後一切の協力は行わない。



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さて、民間人が近づけるギリギリまでやって来た。
最前線に最も近い名もなき村落。
大盛況である。
各国の報道会社や観戦武官が詰めかけた事で、皮肉な事にこの村は過去最高の外貨を獲得した。
村中に出店が並び、百姓達が団子やピクルスを売っている。
自由都市からも幾つかの出版社が押し寄せており住民達にチップを配って取材合戦を繰り広げていた。



「さて…
普通なら、ここが最終地点になるのだが…。」



『スマンがここは中継地点だ。
当然更に進む。
帰りたければ帰ってくれても構わないぞ?』



「演目の途中で帰る馬鹿が居るかよw
ポールソン劇場、最高に楽しませて貰ってるぜ。
願わくば、ハッピーエンドで締めくくって欲しいものだがな。」



ハッピー?
この男は何を言っている?
俺の目的が達成されるという事は、それだけ多くの人間が死ぬことを意味するんだぞ?


《平和維持軍の即時撤退。》


隊員の家族は喜ぶだろうさ。
その代償が大きすぎるから、政府も口実を設けて派兵期間を伸ばし続けているのだ。


自由都市からの援軍が抜ければ、外交的圧力から解放された帝国軍が一気に戦線を拡大してくるだろう。
千人? 万人? それ以上?
どれだけ犠牲が増えるか想像が付かない。


何が《公助の精神》だよ。
俺は無辜の人民の数多の犠牲を代償にして、私的な願望を叶えようとしているに過ぎないのに。



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「え!?
ポールソンさんが御自身で来られたのですか!?
幾ら停戦中とは言え…  流石に…」


詰所の管轄役人が驚愕する。

そっか。
幾ら掃除屋とは言え、普通は跡取り息子は来ないのか。
いつもドナルド·キーンを見ている所為で感覚が鈍ってしまっていたよ。



運の悪い事に、この役人とは面識がある。
何せ園遊会で随分親しく話してしまったからな。
そしてその時はギリアムも混じって普通に談笑していた。



「ああ、ギア社長もおられたのですね…
御無沙汰しております。」



役人は俺とギアのやや物々しい旅装を見て何事かを察したのだろう。
トーンを落として彼の権限で許される限りの状況を教えてくれた。
特に平和維持軍が陥っている苦境についての情報はかなり助かる。



「首長国側は《後方陣地での待機を依頼》と強弁しているのですが…」



『まさしく、そこが最前線であると?』



「ええ。
明らかに帝国側に突出した位置に布陣させられております。

首長国さん、完全にウチを殺しに来てます。」



だろうな。
派遣部隊が壊滅したとなれば、自由都市世論は帝国への敵意を高めるだろう。
少なくとも親帝国企業も経済制裁に参加せざるを得なくなる。



「この不自然な配置については当初から相当問題視されているんです。
何せ司令官が2人連続で戦死している程ですからね。
先月は1個中隊が文字通り全滅しました。
それくらい帝国の猛攻に晒され続けております。

幸い、今の司令官が戦時昇進の形で就任してからは被害が最小限に抑えられてますが。
それでも多勢に無勢ですからね。」




『…そんな情報。
聞いておりません。』



「どうやら執行部がストップを掛けてるみたいなんです。
維持軍からもう少し死者を出したいらしい。
そうすれば首長国への顔が立つと考えておられるようで。」




…残念ながら正しい。
俺が彼らでもそう決断したであろう程には正しい。

我が国が一定数の戦死者を出さなければ、首長国世論は納得しないからである。
(絶対王政だからこそ民意への配慮は我々共和制国家よりも真剣になされる。)
そして何より、タカ派の論客で知られるテオドール・グレゴワール両殿下が御前会議で我が国と協力関係に時限性を持たせる法案を提出したという情報も確認されている。
両名とも3位9位と国内序列が非常に高い人物であるだけに可決も現実的である。

なので。
自由都市がせめて一個師団でも生贄として差し出さない限り、彼らの自制心は本当に決壊してしまうだろう。


執行部は平和維持軍の壊滅を望んでいる。
さもなくば、流血のバランスが取れない。
派兵期間が無限に延長されているのは、その為だ。
帝国、首長国、そして母国である筈の自由都市が平和維持軍を脅かしている。
そう。
もはや、世界が彼らを殺そうとしているのだ。




=========================



「で?
散々状況を聞かされた上で最前線の塹壕に飛び込むのか?
停戦協定だって守られる保証はないんだぞ。
正気の沙汰じゃないな。」



『清掃業者は慢性的に募集されているからね。
俺は自国民でかつ清掃業者なんだから、徴募に応じても不自然ではないだろう?』



「不自然に決まってるだろう。」



『あっそ。
別について来いとは言わないよ。
流石に最前線までの同行は契約にないからな。
安全なルートを通って帰国してくれ。
経費の残りはそのまま収めて欲しい。
今まで世話になったな。』



「…。」



『おい?
本当にいいんだぞ?
アンタは十分働いてくれた。
俺、受付が受理され次第、そのまま味方の陣地に入るからさ。』



「…勘違いするな。
別に義侠からじゃねえ。

オマエの側が一番安全だと確信しているだけだ。
ボス。」



…アンタ正気の沙汰じゃないよ。



「ボス。
そんなに勇ましい表情するのはやめろ。
首長国に見られたら、意図を悟られるぞ。

そんなふてぶてしい清掃業者が居る訳ないんだからさ。」



『俺はただの臆病者だよ。』



「で?
その臆病者さんはこれからどうするんだ?」



『準備は終わっている。
後は単なる作業だ。』



「ははは、異常者めww」



この数か月、俺なりに撤兵の筋道は考え抜いて来た。
即興ながら準備もしてきている。
僅かながらも成算があるから、俺はここに立っている。



=========================



噂には聞いていた通り、新任の司令官は冷徹極まりない男だった。
氷の様な瞳、機械の様に無機質な口調。

到着報告を述べ終わった直後の俺が彼から命令されたのは、殺害された帝国捕虜の死体隠蔽だった。
遺骸は4体。
いずれも全身に激しい拷問の形跡が見られた。

3体はまぎれもなく帝国人。
骨格から推察するに恐らくは貴族階級。

問題は残りの1体。
…断言は出来ないのだか。
身体的特徴が首長国人のそれに近いように感じた。
加えて、帝国軍服を着せられているが、僅かに袖寸が短かった。
ドレスコードに厳格な帝国軍ではやや考えにくい。

その時の司令官はサーベルの柄に指を掛けたまま、表情なく俺を見下していた。
きっとその顔で拷問の場にも居たのだろう。

無論、清掃(クリーンアップ)したさ。
どうせこの司令官には手の内を知られているしな。

何より。
真相がどうあれ、あの死骸が物証として抑えられた場合に我が国が蒙る被害は想像もつかないからである。




=========================




停戦期間と言っても、塹壕から出る訳にはいかない。
手薄だと悟れば帝国軍は嬉々として協定を破って強襲してくるからである。

首長国軍兵士には外出許可が与えられたらしいが、我が国の平和維持軍には関係ない。
許可が下りたとして、出て行く場所などないからである。

俺達は塹壕内の業者区画に割り当てられたマットレスの上で眠った。
毛布の割り当てがやや後日になった為、到着後の数日は騎走用のマントに包まって寝た。


食料不足はやはり深刻だった。
いや、あるのだ。
賞味期限切れの固形レーションは山積みされている。
仮に帝国軍がこの塹壕を攻め落としたとしても、この山にだけは手を付けないかも知れない。
それ程に劣化したレーションを皆が嘔吐を堪えながら胃に流し込んでいた。
俺とギリアムも流石に初日は吐いてしまったほどである。



厳密には犯罪だが、レーションの山に清掃(クリーンアップ)を掛けさせて貰った。
最初は怪訝な表情をしていた皆も、腐敗味が単なる不味さに変化したことを理解すると喜悦の涙を流した。
ああ犯罪だよ。
常識で考えて軍の食料に無断で手を入れて良い訳がない。
例え俺が炊事業者許可を得ていたとしても何らかの罪には問われるだろう。


場は珍しく明るい雰囲気になったが、監視兵に呼ばれた司令官が到着すると皆が怯えた表情で足元に目線を落としてしまった。


「ポールソン清掃会社。
この状況についての説明を要求する。」


情緒はおろか抑揚すらない声。
まるでブティックのマネキンと話している様な錯覚に陥る。



『司令官閣下。

軍用糧食の腐敗が進行しているようでしたので
アク抜きを行いました。』



「それは越権行為である。
御社に付与されている資格は清掃であって炊事ではない。」



『申し訳御座いません、閣下。
ですが弊社の業務内容には厨房の清掃も含まれております。
業務上、軍用糧食を清めなくては厨房の清掃に取り掛かれなかったのです。』



「本分を全うされたし。」



『それは食料保全作業の許可を頂けるということでしょうか。』



「本分を全うされたし。」



『…大変申し訳御座いませんでした。

ただ、こちらはアク取り後のレーションです。
どうか司令部の皆様で…』



司令官は俺の言葉を遮ると、腐敗した方のレーションを拾い上げて退室した。
数分後に入室した彼の幕僚が布告する。



「何人の越権も認めない。
如何なる違法行為も見逃される事はない。

との中佐殿のお言葉です!

これに加えて通達。
司令部は多忙の為、業者区画の保全にまで手は回りません。

ポールソン清掃会社。
今回の越権行為へのペナルティーとして、区画保全を命じます。
これを怠った場合、強制帰国処分もあり得るので覚悟しておいて下さい。
またその場合、全ての業者に連帯責任を課します!」


それだけ言い終わると幕僚氏は敬礼して退出した。



なるほど。
確かに学校と軍隊では習う国語が異なる。




=========================




到着から2日を掛けて、念入りに塹壕を清掃(クリーンアップ)した。
言うまでもなく惜しげなくスキルを使わせて貰った。
俺に合わせたつもりなのか、ギリアムも土系スキルの妙技を惜しげなく披露した。
改めてその怪物ぶりに度肝を抜かされる。


「おい、塹壕業者の件を少しは真剣に考えておけよ(笑)」


何が楽しいのか、ギリアムは飽きもせずに塹壕を補修し続ける。
きっと国有林の盗伐もこんな調子で行っていたのだろう。


3日目からはサービスで塹壕を左右に2キロ程度ずつ伸ばしてやった。
俺は軍事のことなど全く分からないのだが、戦術的な見地から見ればかなりの貢献だったらしい。
生涯に一度位は兵隊さんの役目に立ってやりたいとは思っていたので、これで悔いもなくなった。


並行して、シーツや軍服の清掃(クリーンアップ)を行う。
塹壕中に漂っていた死臭や敵軍の投擲兵器の破片も消す。




「なあ!」



『何だよ?
今、仕事中なんだから邪魔をするな。
区画に戻って休憩していろ。』



「…すまない。
俺としたことがずっと見逃し続けていた。

オマエ、触媒はどうした?
あれだけ膨大なスキルを…
触媒も無しに使っているのか?
いや、それは物理的にあり得ない。」



『触媒ならあるさ。
量が量だからね、厳重に収納してある。』



「いや!
収納って!
俺はオマエとずっと一緒に!

…身体か!?
オマエ、身体を弄ったのか!?」



『そんな大袈裟なものじゃない。
隙間に少し触媒を埋め込んでいるだけさ。』



「隙間ってオマエ。」



『今さあ。
ソドムタウン女性の間では豊胸手術が流行しているんだ。
俺の先輩でそういう裏の遊びに詳しい人が居て
その人に医者を紹介して貰ったんだ。』



「俺だって豊胸ブームくらいは知っている!
でもあれは身体の外部を嵩増しするだけだろう?
オマエ、明らかに体内に…」



『俺もその時知ったんだけどさ。
人間、無くても困らない臓器は幾つかあるんだよ。
前に説明しただろ?
俺はなんでも消せる。
おかげでスペースが確保出来た。』



「…正気じゃねえよ。」



正気?
目的を達成するには一番不要だろ?



=========================



途中、脱柵事件が一度だけ発生した。
若い兵士が逃亡しようとして憲兵に逮捕されたのだ。

薄々予想していた事ではあるが、処刑は司令官自身の手で行われる事になった。
臨時の刑台に乗せられた兵士は泣き叫び、あらんかぎりの呪詛を司令官にぶつけ続けた。
司令官は若者を見据えながら全ての憎悪を受け止めると、無言で首を刎ね飛ばした。
あまりの剣速だったので、首を落とされた当人ですら斬られた事実は認識出来なかったに違いない。
少なくとも俺の足元に転がってきた彼はそんな表情をしていた。
恐らくはまだ10代。
少年の面影を色濃く残した兵士だった。



誰も少年を責めない。
蔑まない、嘲らない、憎まない。
安全な後方に居る連中は「脱柵してどこに行くのだ」と笑うかも知れないが。
少なくとも彼は塹壕でない場所に行けた。
最後に言いたい事を言えた。

その場に居る誰もが少年の首級にやや羨まし気な目線を向けていた。
兵士も、業者も、司令官の周囲に居る幕僚も、逮捕した憲兵すらも、自分達より先に解放された少年を羨望していた。


皆が重く呻く中で、俺と司令官はただ静かに互いを視界に収めていた。



=========================



数時間後には脱柵事件は過去のものとなっていた。
帝国側が斥候を飛ばし始めたからである。
(言うまでもなく停戦協定に著しく抵触している。)

兵士達は慌ただしく迎撃シフトに戻る
バリスタへの装填こそ自重しているものの、狙撃櫓には死番の者がとっくに待機済である。




これが塹壕の極めて平凡な日常。
世界はあまりにもこの異常に慣れ過ぎてしまったし、戦争がこの堅牢な地獄を発明したおかげで後方に位置する都市の安全性は飛躍的に向上した。

軍隊が本当に前線を抜けなくなったのだ。
ほんの100年前までは、王都も帝都もジェリコもソドムタウンも、敵軍の軍靴は迫る事が出来たのに。
塹壕戦術の発達が都市の安全と兵士の痛苦を飛躍的に向上させてしまった。



貧民が軍隊に身売りし地獄の塹壕戦で若い命を散らせる。
金持ちは都市で安全と繁栄を享受する。

利口な人々は、この現象を平和と呼んでいるらしい。
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