3 / 21
3
しおりを挟む
マンションの少し手前でタクシーを降りる。
酔いなんてもう残ってはいなかったが、フラつく足を1歩1歩踏みしめた。
――なんて事を、してしまったんだ……。
吐き気にも似た『何か』が、体の奥底からせり上がってくる。
それは羞恥か、後悔か。
呻き声が洩れそうになる口を、必死に掌で押さえた。
気を抜くと、甦る。
ベッドに横たわる彼に跨り、腰を振っていた自分の姿。
厚い胸板に手を這わせ、酒に潤んだ瞳を見下ろして、吐息を洩らす彼の姿に酔い痴れた。
「だって……!」
彼が、好きなんだ。
力が抜けて、しゃがみ込んでしまいそうになる足を必死になって前へと進める。
そんなつもりなんてなかった。酔った彼を部屋まで運んで、ベッドに寝かせて、自分も隣のベッドに入る。
たった、それだけの事だったのに……。
コートとジャケットを脱がせ、ベッドに横たえた途端、不意に彼の目が見開かれた。
間近で見つめ合って、酒の所為で掠れた声が、僕の名を呼ぶ。
引き寄せられた唇は、当然のように重なって、すぐさま熱い舌が絡み合った。奥さんの妊娠で溜まっていた彼は、欲望を吐き出す事に、 とても貪欲だった。
――いや、違う。
違う。誘ったのは……僕だ。
溜まっていたのも、欲望を吐き出すのに貪欲だったのも。
この瞳で彼を求め、酔った彼を取り込んだ。
「なんて……事……」
どんよりと重い頭でいくら考えても、埒が明かない。
置手紙を残し、部屋を出る時に見た彼の寝顔だけが、何度も脳裏に蘇った。
「あれ?」
マンション玄関の植え込みに誰かが腰掛けているのが見えて、思わず腕時計を見る。
もう深夜の3時を回っている。自分の事は差し置いて、酔っ払いかと警戒しながらゆっくりと足を進めた。
「あっ。――君は……」
なんで、こんな時間に。
黒いダウンジャケットを着た影が、振り返る。向こうも驚いた表情を浮かべ、白い息を吐き出しながら笑顔を浮かべた。
「先生。なんだよ、酷く遅くねぇ?」
スマホで時間を確認して、立ち上がる。
「藤堂君こそ、こんな遅い時間に何してるの?」
言って、彼の唇の端が腫れ、血が滲んでいるのが目に留まる。
僕の視線に気付いたのか、照れ臭そうに頭を掻き、苦笑を浮かべた。
「殴られて、家、飛び出しちゃった」
寒さで赤くなった鼻を軽く啜る。
「……あー、お父さんって、厳しい人なのか」
「――あんなの。親父なんかじゃねぇよ」
その時だけは無邪気な彼の瞳が、怒りを含み、大人びた光を放った。
「でもこんな時間だし、心配してるんじゃない?」
「……あのハゲが帰ったら、俺も帰る」
「え? 本当にお父さんじゃないの?」
「ああ、うちは『母子家庭』ってヤツなんだ。今家に上がり込んでんのは、母さんがママ任されてるスナックのオーナー。兼、不倫相手」
「あー…」
なんと答えていいか判らず、曖昧な、返事とも言えない声を発した。
「そうだ。よかったらウチで時間潰す?」
思いついて、そのままを口にする。もしかしたら、1人でいたくなかっただけなのかもしれない。
しばらく呆気に取られていた彼は、次の瞬間、嬉しそうに破顔した。
「いいの?」
そんな表情をされたら、例え口先だけで言った言葉だったとしても、「やっぱりウソ」だなんて言えない。
勿論、口先だけで言った言葉なんかではなかったけれど。
彼と本格的に言葉を交わしたのは今日が初めてだったが、今までも朝エレベーターで会うと「おはようございます」と自分から挨拶をしてくる、好青年だった。
だから印象は悪くないし、こうして『タメ口』が自然と出てくる性格も、嫌いではなかった。
「いいよ。散らかってるけどね」
言いながらオートロックの鍵を開け、エレベーターへと乗り込む。そうして6階のボタンを押した。
「そう言えば、藤堂君は何階に住んでいるの?」
「12階」
ぶっきらぼうに答えられたそれは、このマンションの最上階で、3つしか住宅がないフロアだった。
「へえ……」
――お金持ちなんだな。
素直な感想は、心の中だけで呟いておく。それを口に出してしまえば、一瞬にして彼に嫌われてしまう程の威力を、その言葉は持っている気がした。
コの字型の廊下。その1番奥の自宅に鍵を差し込む。開けた玄関内は、勿論真っ暗だった。
電気を付けると、彼は物珍しげに質素な玄関から廊下にかけてをグルリと見回した。
「お邪魔します」
好奇心にニヤニヤと笑いながら、靴を脱ぐ。そうしてすでに脱いでいた僕の靴と自分の靴を、揃えて置き直した。
「躾がちゃんとされてるんだなぁ」
感心して呟くと、驚いた表情を浮かべた彼は「違うね」と吹き出した。
「中学ん頃、遊びに行った女の家でさ、そいつがしてたんだよなぁ。そいつん家はいつも玄関が綺麗でさ、整頓されてて、スゲェ気に入ってたんだ」
そう言いながら、僕の靴の埃を手で撫でるように掃った。
「うちの母親はそんなの全然気にしねぇの。服も脱いだら脱ぎっぱなしって感じ。俺が毎日靴揃えてんのにも気付いてねぇよ」
「――僕も、そっち派かも」
呆れられるかと思ったが、意外にも彼は笑って同意した。
「実は俺も。あいつとは、住む世界が違ってたんだよなぁ」
懐かしむような声は、きっと彼の初恋の相手だったからに違いない。
そう思ったからなのかどうか。見下ろしている彼の背中が、突然自分の初恋の相手と重なって見えてドキリとした。
――雅臣?
呆っとしている間に、立ち上がった藤堂君が僕を見上げていた。
どうしたの? とその瞳が問いかけている。曖昧に微笑み返して、僕はリビングへと向かった。
酔いなんてもう残ってはいなかったが、フラつく足を1歩1歩踏みしめた。
――なんて事を、してしまったんだ……。
吐き気にも似た『何か』が、体の奥底からせり上がってくる。
それは羞恥か、後悔か。
呻き声が洩れそうになる口を、必死に掌で押さえた。
気を抜くと、甦る。
ベッドに横たわる彼に跨り、腰を振っていた自分の姿。
厚い胸板に手を這わせ、酒に潤んだ瞳を見下ろして、吐息を洩らす彼の姿に酔い痴れた。
「だって……!」
彼が、好きなんだ。
力が抜けて、しゃがみ込んでしまいそうになる足を必死になって前へと進める。
そんなつもりなんてなかった。酔った彼を部屋まで運んで、ベッドに寝かせて、自分も隣のベッドに入る。
たった、それだけの事だったのに……。
コートとジャケットを脱がせ、ベッドに横たえた途端、不意に彼の目が見開かれた。
間近で見つめ合って、酒の所為で掠れた声が、僕の名を呼ぶ。
引き寄せられた唇は、当然のように重なって、すぐさま熱い舌が絡み合った。奥さんの妊娠で溜まっていた彼は、欲望を吐き出す事に、 とても貪欲だった。
――いや、違う。
違う。誘ったのは……僕だ。
溜まっていたのも、欲望を吐き出すのに貪欲だったのも。
この瞳で彼を求め、酔った彼を取り込んだ。
「なんて……事……」
どんよりと重い頭でいくら考えても、埒が明かない。
置手紙を残し、部屋を出る時に見た彼の寝顔だけが、何度も脳裏に蘇った。
「あれ?」
マンション玄関の植え込みに誰かが腰掛けているのが見えて、思わず腕時計を見る。
もう深夜の3時を回っている。自分の事は差し置いて、酔っ払いかと警戒しながらゆっくりと足を進めた。
「あっ。――君は……」
なんで、こんな時間に。
黒いダウンジャケットを着た影が、振り返る。向こうも驚いた表情を浮かべ、白い息を吐き出しながら笑顔を浮かべた。
「先生。なんだよ、酷く遅くねぇ?」
スマホで時間を確認して、立ち上がる。
「藤堂君こそ、こんな遅い時間に何してるの?」
言って、彼の唇の端が腫れ、血が滲んでいるのが目に留まる。
僕の視線に気付いたのか、照れ臭そうに頭を掻き、苦笑を浮かべた。
「殴られて、家、飛び出しちゃった」
寒さで赤くなった鼻を軽く啜る。
「……あー、お父さんって、厳しい人なのか」
「――あんなの。親父なんかじゃねぇよ」
その時だけは無邪気な彼の瞳が、怒りを含み、大人びた光を放った。
「でもこんな時間だし、心配してるんじゃない?」
「……あのハゲが帰ったら、俺も帰る」
「え? 本当にお父さんじゃないの?」
「ああ、うちは『母子家庭』ってヤツなんだ。今家に上がり込んでんのは、母さんがママ任されてるスナックのオーナー。兼、不倫相手」
「あー…」
なんと答えていいか判らず、曖昧な、返事とも言えない声を発した。
「そうだ。よかったらウチで時間潰す?」
思いついて、そのままを口にする。もしかしたら、1人でいたくなかっただけなのかもしれない。
しばらく呆気に取られていた彼は、次の瞬間、嬉しそうに破顔した。
「いいの?」
そんな表情をされたら、例え口先だけで言った言葉だったとしても、「やっぱりウソ」だなんて言えない。
勿論、口先だけで言った言葉なんかではなかったけれど。
彼と本格的に言葉を交わしたのは今日が初めてだったが、今までも朝エレベーターで会うと「おはようございます」と自分から挨拶をしてくる、好青年だった。
だから印象は悪くないし、こうして『タメ口』が自然と出てくる性格も、嫌いではなかった。
「いいよ。散らかってるけどね」
言いながらオートロックの鍵を開け、エレベーターへと乗り込む。そうして6階のボタンを押した。
「そう言えば、藤堂君は何階に住んでいるの?」
「12階」
ぶっきらぼうに答えられたそれは、このマンションの最上階で、3つしか住宅がないフロアだった。
「へえ……」
――お金持ちなんだな。
素直な感想は、心の中だけで呟いておく。それを口に出してしまえば、一瞬にして彼に嫌われてしまう程の威力を、その言葉は持っている気がした。
コの字型の廊下。その1番奥の自宅に鍵を差し込む。開けた玄関内は、勿論真っ暗だった。
電気を付けると、彼は物珍しげに質素な玄関から廊下にかけてをグルリと見回した。
「お邪魔します」
好奇心にニヤニヤと笑いながら、靴を脱ぐ。そうしてすでに脱いでいた僕の靴と自分の靴を、揃えて置き直した。
「躾がちゃんとされてるんだなぁ」
感心して呟くと、驚いた表情を浮かべた彼は「違うね」と吹き出した。
「中学ん頃、遊びに行った女の家でさ、そいつがしてたんだよなぁ。そいつん家はいつも玄関が綺麗でさ、整頓されてて、スゲェ気に入ってたんだ」
そう言いながら、僕の靴の埃を手で撫でるように掃った。
「うちの母親はそんなの全然気にしねぇの。服も脱いだら脱ぎっぱなしって感じ。俺が毎日靴揃えてんのにも気付いてねぇよ」
「――僕も、そっち派かも」
呆れられるかと思ったが、意外にも彼は笑って同意した。
「実は俺も。あいつとは、住む世界が違ってたんだよなぁ」
懐かしむような声は、きっと彼の初恋の相手だったからに違いない。
そう思ったからなのかどうか。見下ろしている彼の背中が、突然自分の初恋の相手と重なって見えてドキリとした。
――雅臣?
呆っとしている間に、立ち上がった藤堂君が僕を見上げていた。
どうしたの? とその瞳が問いかけている。曖昧に微笑み返して、僕はリビングへと向かった。
0
お気に入りに追加
20
あなたにおすすめの小説
思い出して欲しい二人
春色悠
BL
喫茶店でアルバイトをしている鷹木翠(たかぎ みどり)。ある日、喫茶店に初恋の人、白河朱鳥(しらかわ あすか)が女性を伴って入ってきた。しかも朱鳥は翠の事を覚えていない様で、幼い頃の約束をずっと覚えていた翠はショックを受ける。
そして恋心を忘れようと努力するが、昔と変わったのに変わっていない朱鳥に寧ろ、どんどん惚れてしまう。
一方朱鳥は、バッチリと翠の事を覚えていた。まさか取引先との昼食を食べに行った先で、再会すると思わず、緩む頬を引き締めて翠にかっこいい所を見せようと頑張ったが、翠は朱鳥の事を覚えていない様。それでも全く愛が冷めず、今度は本当に結婚するために翠を落としにかかる。
そんな二人の、もだもだ、じれったい、さっさとくっつけ!と、言いたくなるようなラブロマンス。
琥珀いろの夏 〜偽装レンアイはじめました〜
桐山アリヲ
BL
大学2年生の玉根千年は、同じ高校出身の葛西麟太郎に3年越しの片想いをしている。麟太郎は筋金入りの女好き。同性の自分に望みはないと、千年は、半ばあきらめの境地で小説家の深山悟との関係を深めていく。そんなある日、麟太郎から「女よけのために恋人のふりをしてほしい」と頼まれた千年は、断りきれず、周囲をあざむく日々を送る羽目に。不満を募らせた千年は、初めて麟太郎と大喧嘩してしまい、それをきっかけに、2人の関係は思わぬ方向へ転がりはじめる。
学院のモブ役だったはずの青年溺愛物語
紅林
BL
『桜田門学院高等学校』
日本中の超金持ちの子息子女が通うこの学校は東京都内に位置する野球ドーム五個分の土地が学院としてなる巨大学園だ
しかし生徒数は300人程の少人数の学院だ
そんな学院でモブとして役割を果たすはずだった青年の物語である
日本一のイケメン俳優に惚れられてしまったんですが
五右衛門
BL
月井晴彦は過去のトラウマから自信を失い、人と距離を置きながら高校生活を送っていた。ある日、帰り道で少女が複数の男子からナンパされている場面に遭遇する。普段は関わりを避ける晴彦だが、僅かばかりの勇気を出して、手が震えながらも必死に少女を助けた。
しかし、その少女は実は美男子俳優の白銀玲央だった。彼は日本一有名な高校生俳優で、高い演技力と美しすぎる美貌も相まって多くの賞を受賞している天才である。玲央は何かお礼がしたいと言うも、晴彦は動揺してしまい逃げるように立ち去る。しかし数日後、体育館に集まった全校生徒の前で現れたのは、あの時の青年だった──
モテる兄貴を持つと……(三人称改訂版)
夏目碧央
BL
兄、海斗(かいと)と同じ高校に入学した城崎岳斗(きのさきやまと)は、兄がモテるがゆえに様々な苦難に遭う。だが、カッコよくて優しい兄を実は自慢に思っている。兄は弟が大好きで、少々過保護気味。
ある日、岳斗は両親の血液型と自分の血液型がおかしい事に気づく。海斗は「覚えてないのか?」と驚いた様子。岳斗は何を忘れているのか?一体どんな秘密が?
キミの次に愛してる
Motoki
BL
社会人×高校生。
たった1人の家族である姉の由美を亡くした浩次は、姉の結婚相手、裕文と同居を続けている。
裕文の世話になり続ける事に遠慮する浩次は、大学受験を諦めて就職しようとするが……。
姉への愛と義兄への想いに悩む、ちょっぴり切ないほのぼのBL。
恋した貴方はαなロミオ
須藤慎弥
BL
Ω性の凛太が恋したのは、ロミオに扮したα性の結城先輩でした。
Ω性に引け目を感じている凛太。
凛太を運命の番だと信じているα性の結城。
すれ違う二人を引き寄せたヒート。
ほんわか現代BLオメガバース♡
※二人それぞれの視点が交互に展開します
※R 18要素はほとんどありませんが、表現と受け取り方に個人差があるものと判断しレーティングマークを付けさせていただきますm(*_ _)m
※fujossy様にて行われました「コスプレ」をテーマにした短編コンテスト出品作です
坂木兄弟が家にやってきました。
風見鶏ーKazamidoriー
BL
父と2人でマイホームに暮らす鷹野 楓(たかの かえで)は家事をこなす高校生、ある日再婚話がもちあがり再婚相手とひとつ屋根の下で生活することに、相手の人には年のちかい息子たちがいた。
ふてぶてしい兄弟たちに楓は手を焼きながらも次第に惹かれていく。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる