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077.告白
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酷く暑い。座っているだけでも額に玉のような汗が浮くほど。室温計は二十五度を示しているのにこんなにも暑いのは湿度が高いからだろうか。
年々、季節が歪になっていくのは外も特区も同じらしい。唯一、特区の外の出来ごとを放送するテレビ番組で猛暑のニュースが流れている。地図の上に表示されている数字はどれも赤く、天気予報を読むキャスターは夜までこの気温が続くだろうと話す。
外に少女が立っていた。この暑さの中、長袖のワンピースを着てこちらをぼんやりと見つめ、佇む。顔と手以外のものを人間に見せまいとするかのような頑なさを感じた。
「どうしたの? そんなところで立っていないで、中に入って良いのよ」
声をかけると、警備署内にとことこと入って来た少女はカウンター越しに野梨子に巾着を突き出した。
「陣ノ目が、お弁当だって」
家人から使いを頼まれたらしい。
汗の一粒もなく、白い肌には赤みも差さない。暑さを感じていないようだった。差し出された物を貰う時に、少女の指に触れた。
――冷たい。
やはりこの少女は人間であらざるものなのだと認識する。
***
夜。インテリタスは家の隣の空き地で月をぼんやりと眺めていた。昼間に好き勝手に掘った穴が月明かりに照らされ、クレーターのある月の表面のようだ。
月明かりの夜は全てが美しい。
太陽は自らが輝いていると本に書いてあった。人間の肉眼で観察しようとしても、その輝きは眩しすぎて確認することができない。人間の眼球でなかったならばどうだっただろうか。人間の姿に規定されてしまった以上、考えても仕方がないことだが、インテリタスには少し惜しい。
月は反対に自分では輝かず、太陽に照らされて反射が光っているように見えるのだと書いてあった。その弱い光の為か、特区を照らす白い球体を人間の目でもはっきりと確認することができた。
昼間は明るく、発光しているようには見えない特区が月ほどの輝きではぼんやりと輝いて見えるのが不思議だ。その輝き見たさに、満月の日は夜中こっそり寝床を抜け出してしまう。
夜に男と会ったのは初めてだった。
月の灯りはスポットライトだ。長い睫毛に彩られた青い瞳。あばた一つない白い顔。頭の先からつま先まで均整の取れた身体。人間ならば幻か、夜に棲む怪異か、あるいはモンスターだと思っただろう。美しい男が夜歩く。インテリタスに気が付くと驚いた顔をした。
「なんだお前、不良少女だったのか」
昼間、インテリタスに対してあれこれ指図しながら年甲斐もなく遊びに興じる姿とは少し違う表情。
お子様は寝てろよ、背ぇ伸びなくなるよ、と口にしながらも、昼間と同じようにインテリタスの隣に座り込む矛盾した行動をとる。
聞いてもいないのに男はただの散歩だとしきりに言い張った。男が不眠症だというのは昼間に会っているときに聞いている。言及はしなかった。口に出すほど、不眠に関する知識と表現を会得してもいない。
「涼しいのは良い。不快じゃないから」
その日以降、昼間でなくとも、満月の夜には時折密会する。
だんだんと夏に近づいていく。気温が上がるにつれて昼間に男が現れる頻度は少なくなり、たまに姿を現したかと思えばインテリタスの遊びを塀の陰に座り込んで眺めていた。反対に、満月の夜は必ず現れる。とりとめのない話をしてはインテリタスに寝床に戻るよう促して去っていく。
この夜も男は月明かりに愛されていた。少しやつれた顔も美しさを引き立てる化粧にしかならない。
昼間から続くうだるような暑さ。男の顔には汗が流れていた。この美しい男も人間だったのか。
「今日は不快だ」
インテリタスはそれを感じない。
「今日で散歩は最後だよ。――汗かかないんだな」
男がインテリタスに向かって手を伸ばし、額に触れる。以前、野梨子の指が触れた時のような感覚があった。柔らかく、圧力があり、額の皮膚とは何か差を感じる。
「つめた。やっぱ、化け物だな、お前」
そう言い捨てた割に、男はインテリタスの額に手の甲を触れさせたままにいる。その感覚を楽しむように。
冷たいの反対は熱い、だ。男が冷たいと感じているならば、インテリタスが感じているのは熱いだろうか。インテリタスがその感覚に集中しようとしたときだった。
べしゃり。
突如、男の身体が溶けて空き地にぶちまけられ、空き地の砂と混ざって泥と一体化する。男だったものがインテリタスの頬に跳ね、頬を汚した。足元にゆっくりと人間だった者――否、人間の形を模した者が沁み込んでいく。
「人間じゃない、感覚」
人間ではなかった男はインテリタスの身体に触れて冷たい、と表現した。
人間でなく、しかし、人間の感覚を持つ。
インテリタスもそれに近づくだろうか。
***
インテリタスが寝床にいなかったため、野梨子は家の周囲を歩き回っている。昼間に空き地で何やら遊びに興じているのは知っていたが、まさか朝にも活動しているとは知らなかった。
インテリタスは空き地にいた。うずくまる姿を見て少なからず動揺したのは、この人であらざる者が倒れているからか。
揺する。身体の冷たさは死体と言っても過言ではなく、本当に死んでいるのかと思ってたじろいだ。
「インテリタス、インテリタス」
名前を呼ぶと少女は気だるげに目を覚ました。頬も顎もよく見ると手から夜具から泥まみれで、傍らには湿った泥を詰め込んだバケツ
がある。
「びっくりするじゃない――」
野梨子の言葉を遮って、インテリタスがその手に触れる。
「……どうしたの」
「人間の、感覚」
インテリタスは離さない。その手からほんのりと熱が移ってくるのを、野梨子は感じていた。
***
雨が降っている。空き地には泥が詰め込まれたバケツが放置されていた。雨粒が泥を溶かし、泥がバケツから溢れ出る。やがて、溢れ出た泥は重力に逆らい、空に向かって伸び始めた。
泥は人間の形になったかと思えば、頭から足先に向かって、泥が流れていく。
澄んだ水でできた人型が現れた。
「あー、つめた」
空き地を去っていく透明な人影は月夜に消えた男の声をしていた。
年々、季節が歪になっていくのは外も特区も同じらしい。唯一、特区の外の出来ごとを放送するテレビ番組で猛暑のニュースが流れている。地図の上に表示されている数字はどれも赤く、天気予報を読むキャスターは夜までこの気温が続くだろうと話す。
外に少女が立っていた。この暑さの中、長袖のワンピースを着てこちらをぼんやりと見つめ、佇む。顔と手以外のものを人間に見せまいとするかのような頑なさを感じた。
「どうしたの? そんなところで立っていないで、中に入って良いのよ」
声をかけると、警備署内にとことこと入って来た少女はカウンター越しに野梨子に巾着を突き出した。
「陣ノ目が、お弁当だって」
家人から使いを頼まれたらしい。
汗の一粒もなく、白い肌には赤みも差さない。暑さを感じていないようだった。差し出された物を貰う時に、少女の指に触れた。
――冷たい。
やはりこの少女は人間であらざるものなのだと認識する。
***
夜。インテリタスは家の隣の空き地で月をぼんやりと眺めていた。昼間に好き勝手に掘った穴が月明かりに照らされ、クレーターのある月の表面のようだ。
月明かりの夜は全てが美しい。
太陽は自らが輝いていると本に書いてあった。人間の肉眼で観察しようとしても、その輝きは眩しすぎて確認することができない。人間の眼球でなかったならばどうだっただろうか。人間の姿に規定されてしまった以上、考えても仕方がないことだが、インテリタスには少し惜しい。
月は反対に自分では輝かず、太陽に照らされて反射が光っているように見えるのだと書いてあった。その弱い光の為か、特区を照らす白い球体を人間の目でもはっきりと確認することができた。
昼間は明るく、発光しているようには見えない特区が月ほどの輝きではぼんやりと輝いて見えるのが不思議だ。その輝き見たさに、満月の日は夜中こっそり寝床を抜け出してしまう。
夜に男と会ったのは初めてだった。
月の灯りはスポットライトだ。長い睫毛に彩られた青い瞳。あばた一つない白い顔。頭の先からつま先まで均整の取れた身体。人間ならば幻か、夜に棲む怪異か、あるいはモンスターだと思っただろう。美しい男が夜歩く。インテリタスに気が付くと驚いた顔をした。
「なんだお前、不良少女だったのか」
昼間、インテリタスに対してあれこれ指図しながら年甲斐もなく遊びに興じる姿とは少し違う表情。
お子様は寝てろよ、背ぇ伸びなくなるよ、と口にしながらも、昼間と同じようにインテリタスの隣に座り込む矛盾した行動をとる。
聞いてもいないのに男はただの散歩だとしきりに言い張った。男が不眠症だというのは昼間に会っているときに聞いている。言及はしなかった。口に出すほど、不眠に関する知識と表現を会得してもいない。
「涼しいのは良い。不快じゃないから」
その日以降、昼間でなくとも、満月の夜には時折密会する。
だんだんと夏に近づいていく。気温が上がるにつれて昼間に男が現れる頻度は少なくなり、たまに姿を現したかと思えばインテリタスの遊びを塀の陰に座り込んで眺めていた。反対に、満月の夜は必ず現れる。とりとめのない話をしてはインテリタスに寝床に戻るよう促して去っていく。
この夜も男は月明かりに愛されていた。少しやつれた顔も美しさを引き立てる化粧にしかならない。
昼間から続くうだるような暑さ。男の顔には汗が流れていた。この美しい男も人間だったのか。
「今日は不快だ」
インテリタスはそれを感じない。
「今日で散歩は最後だよ。――汗かかないんだな」
男がインテリタスに向かって手を伸ばし、額に触れる。以前、野梨子の指が触れた時のような感覚があった。柔らかく、圧力があり、額の皮膚とは何か差を感じる。
「つめた。やっぱ、化け物だな、お前」
そう言い捨てた割に、男はインテリタスの額に手の甲を触れさせたままにいる。その感覚を楽しむように。
冷たいの反対は熱い、だ。男が冷たいと感じているならば、インテリタスが感じているのは熱いだろうか。インテリタスがその感覚に集中しようとしたときだった。
べしゃり。
突如、男の身体が溶けて空き地にぶちまけられ、空き地の砂と混ざって泥と一体化する。男だったものがインテリタスの頬に跳ね、頬を汚した。足元にゆっくりと人間だった者――否、人間の形を模した者が沁み込んでいく。
「人間じゃない、感覚」
人間ではなかった男はインテリタスの身体に触れて冷たい、と表現した。
人間でなく、しかし、人間の感覚を持つ。
インテリタスもそれに近づくだろうか。
***
インテリタスが寝床にいなかったため、野梨子は家の周囲を歩き回っている。昼間に空き地で何やら遊びに興じているのは知っていたが、まさか朝にも活動しているとは知らなかった。
インテリタスは空き地にいた。うずくまる姿を見て少なからず動揺したのは、この人であらざる者が倒れているからか。
揺する。身体の冷たさは死体と言っても過言ではなく、本当に死んでいるのかと思ってたじろいだ。
「インテリタス、インテリタス」
名前を呼ぶと少女は気だるげに目を覚ました。頬も顎もよく見ると手から夜具から泥まみれで、傍らには湿った泥を詰め込んだバケツ
がある。
「びっくりするじゃない――」
野梨子の言葉を遮って、インテリタスがその手に触れる。
「……どうしたの」
「人間の、感覚」
インテリタスは離さない。その手からほんのりと熱が移ってくるのを、野梨子は感じていた。
***
雨が降っている。空き地には泥が詰め込まれたバケツが放置されていた。雨粒が泥を溶かし、泥がバケツから溢れ出る。やがて、溢れ出た泥は重力に逆らい、空に向かって伸び始めた。
泥は人間の形になったかと思えば、頭から足先に向かって、泥が流れていく。
澄んだ水でできた人型が現れた。
「あー、つめた」
空き地を去っていく透明な人影は月夜に消えた男の声をしていた。
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