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060.境
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特区の端っこには空の端がある。そう、自治会の特区記録には書いてある。
特区記録は自治会長とその仲間たちが特区内を隈なく歩き回り調べたうえで報告書として記録された文書である。自治会図書館に所蔵されており、特区の住人誰にでも簡単に見ることができるようになっている本だ。
その特区記録を読んだらしいインテリタスが空の端を見たい(というような旨の主張)とせがんだため、なかなか付き添う事の出来ない保護者に変わってマナブが呼び出されたわけであった。
ここのところ、少女は自分自身で行けるようになった図書館に毎日のように通っており、その中にある本を漁るように読み耽っている。日増しに脳内に蓄積されていく知識によって、インテリタスは自分の外にある環境に目を向け始めたようだった。
「これもお友達ができたのがきっかけだなあ」
保護者が感慨深くマナブに語る。それまで、文章を読んで二文語を話し、ごく周囲の人間としか関わらなかった人であらざる者が人間の真似事しているのが面白いらしい。
特にもっともらしいきっかけも理由も目的も見当たらなかったそれの行動原理を、陣ノ目は『友達』のおかげと判断した。
――怪物に友達も糞もあるものか。
陣ノ目も他の者も知らないだろうが、インテリタスは特区か特区に侵略する異星の住人かどちらか選択しろという場面において、迷いなくどっちも壊すという提案をするような存在である。結果として、その時は特区が選択されたが選択されなかった文明を躊躇なく破壊しそれに対してなんの葛藤も抱かないのだ。人のような身体で、人のように笑うからと言って、人ではない。心なんて許してはいけない存在で……。
インテリタスがちょこちょこと早足で歩く。成人男性と就学児童(の体格を持つ年齢不詳)の歩幅では少女がすぐにへばるだろう。マナブはその様子を見ながらゆっくりと追いかけていた。
――いや、相手は化け物だし僕は歩幅を合わせる必要はないだろ。
化け物は化け物らしく移動するはずだ。インテリタスを人のように扱うのが自分の思考と矛盾するように思え、マナブはインテリタスを追い越して普段通りの速さで歩き始めた。
インテリタスが視界から見えなくなり、やがて足音も聞こえなくなる。振り返るとはるか向こう側で同じようにちょこちょこと早歩きをしている姿が見えた。自分の大人げない行動に今度は恥ずかしさを感じる。
追いついたインテリタスは何も言わない。その沈黙が居心地悪く、マナブは少女に質問を投げた。
「なんだって、空の端っこがみたいって思ったの?」
「まあるいか見たかった」
インテリタスが気になっているのは、自分の宝物だったきらきらと輝く球体の正体が本当に特区なのかという事だろう。
「あの球が特区なのか知りたいのか?」
インテリタスがそれまでにこにこと笑っていた顔を真顔に戻して、首を傾げた。一時逡巡してから、また笑みを戻す。
「ううん。本に書いてあった」
化け物とは微妙に話がかみ合わない。
インテリタスの答えとは反対に、自分の問いに自分自身が気になってしまったマナブだった。
「特区の端まで行くんだから、もっと早く歩かないと日が暮れるぞ」
「早く歩く」
***
青空の内には特区の端にはたどり着かなかった。湾曲した壁に至った時には、壁は昼と夜が混ざる赤と紫のグラデーションを作っていた。それもだんだんと明度が下がり足元からは暗闇が上方に空を侵食する。一帯の壁は上方に行くにつれ、湾曲が強くなっているようだった。今まで歩いてきた側をみるとその一番高い部分からは反対に赤い空が徐々に広がっており、全体が夜に向かって時間が流れているようだった。
その目の前にある空に触れようと手を伸ばしたインテリタス。
「あ、ちょっとまて」
マナブの制止は間に合わなかった。指は空に簡単に飲み込まれ、やがて見えなくなった。空に飲み込まれたのか、あるいは空を突き抜けてしまったのかわからない。やはり、化け物は人が恐れるような事態を考えもせずに行動する。突拍子もない行動に振り回され、憤慨し、心配するのはいつも人の方だ。
インテリタスの指が入り込んだ空は一瞬だけ崩れたようにちいさな粒子が飛び、その後素早くもとの空の色を取り戻していた。
インテリタスはというと、驚きもせず今度はすっと指を引き抜く。同じように粒子が飛んだ。
「指、なくなってないか?」
「ない」
肯定にも否定にもとれる返事に呆れて、マナブがインテリタスの手に触れる。指はある。これで指が消えているか、なにか別の変化が起こっていたならば監督責任を問われていただろう。
果たして、この空の向こう側には何があったのか。インテリタスにはそれを表現できるとは思わない。
少女のような無頓着さを持っていないマナブにとって、空の向こう側を自分でも確かめられないのは少しだけ惜しいな、と感じた。
指が付いているかを確認するために取ったインテリタスの手に何か乗っているのをマナブが認めた。
「どうした、それ」
「外で、誰かくれた」
つぶつぶとした突起のある丸い石はそれ自体が光り、手の中で転がるたびに偏光して混ざり合った輝きを見せる。
その綺麗さに魅せられている間に、インテリタスが口にした不可解な事象にマナブは気が付かなかった。
「綺麗だね」
輝くものに興味を示すインテリタスはその塊をみて微笑んだ。少女はまるでその塊を気に入っているかのように見える。
怪物が見た目相応の反応を見せると、マナブはいつも相手が化け物だという事を忘れる。
空はすでに夕焼けから夜の闇に移行している。その黒い空にはいくつもの星が瞬いていた。
丸い石はインテリタスの手から浮き上がる。空の方へと昇り、あっという間に星にまざって見えなくなってしまった。
***
「本当に空の端っこってないんだなあ」
夕焼けの中を歩く。先を歩いていた男がため息をつきながら言った。昼間は東京の地図を眺めて、それからメルカトル図法の世界地図を眺めて、モルワイデ図法の世界地図も見て、最後は正距方位図法の地図を見て(この三種類の地図の名前を調べるのに二人でスマホを覗き込んで暫くカフェにいた)、あきらめたように空が見たいと帰りの電車から降りて近くの広い公園でこうして歩いているのであった。
「空の端っこってどういうことですか?」
「どいういう事だろう。今日、僕は変なことばかり言うよね」
今日は空の端っこが見たい気分だったんだよね、と男が言う。どんどん先に進んでいってしまう長い脚に追いつくように、少し小走りになった。
「空に端っこがあったら面白いですけれど、」
それだと、その世界は小さな箱庭みたいな世界ですね。
特区記録は自治会長とその仲間たちが特区内を隈なく歩き回り調べたうえで報告書として記録された文書である。自治会図書館に所蔵されており、特区の住人誰にでも簡単に見ることができるようになっている本だ。
その特区記録を読んだらしいインテリタスが空の端を見たい(というような旨の主張)とせがんだため、なかなか付き添う事の出来ない保護者に変わってマナブが呼び出されたわけであった。
ここのところ、少女は自分自身で行けるようになった図書館に毎日のように通っており、その中にある本を漁るように読み耽っている。日増しに脳内に蓄積されていく知識によって、インテリタスは自分の外にある環境に目を向け始めたようだった。
「これもお友達ができたのがきっかけだなあ」
保護者が感慨深くマナブに語る。それまで、文章を読んで二文語を話し、ごく周囲の人間としか関わらなかった人であらざる者が人間の真似事しているのが面白いらしい。
特にもっともらしいきっかけも理由も目的も見当たらなかったそれの行動原理を、陣ノ目は『友達』のおかげと判断した。
――怪物に友達も糞もあるものか。
陣ノ目も他の者も知らないだろうが、インテリタスは特区か特区に侵略する異星の住人かどちらか選択しろという場面において、迷いなくどっちも壊すという提案をするような存在である。結果として、その時は特区が選択されたが選択されなかった文明を躊躇なく破壊しそれに対してなんの葛藤も抱かないのだ。人のような身体で、人のように笑うからと言って、人ではない。心なんて許してはいけない存在で……。
インテリタスがちょこちょこと早足で歩く。成人男性と就学児童(の体格を持つ年齢不詳)の歩幅では少女がすぐにへばるだろう。マナブはその様子を見ながらゆっくりと追いかけていた。
――いや、相手は化け物だし僕は歩幅を合わせる必要はないだろ。
化け物は化け物らしく移動するはずだ。インテリタスを人のように扱うのが自分の思考と矛盾するように思え、マナブはインテリタスを追い越して普段通りの速さで歩き始めた。
インテリタスが視界から見えなくなり、やがて足音も聞こえなくなる。振り返るとはるか向こう側で同じようにちょこちょこと早歩きをしている姿が見えた。自分の大人げない行動に今度は恥ずかしさを感じる。
追いついたインテリタスは何も言わない。その沈黙が居心地悪く、マナブは少女に質問を投げた。
「なんだって、空の端っこがみたいって思ったの?」
「まあるいか見たかった」
インテリタスが気になっているのは、自分の宝物だったきらきらと輝く球体の正体が本当に特区なのかという事だろう。
「あの球が特区なのか知りたいのか?」
インテリタスがそれまでにこにこと笑っていた顔を真顔に戻して、首を傾げた。一時逡巡してから、また笑みを戻す。
「ううん。本に書いてあった」
化け物とは微妙に話がかみ合わない。
インテリタスの答えとは反対に、自分の問いに自分自身が気になってしまったマナブだった。
「特区の端まで行くんだから、もっと早く歩かないと日が暮れるぞ」
「早く歩く」
***
青空の内には特区の端にはたどり着かなかった。湾曲した壁に至った時には、壁は昼と夜が混ざる赤と紫のグラデーションを作っていた。それもだんだんと明度が下がり足元からは暗闇が上方に空を侵食する。一帯の壁は上方に行くにつれ、湾曲が強くなっているようだった。今まで歩いてきた側をみるとその一番高い部分からは反対に赤い空が徐々に広がっており、全体が夜に向かって時間が流れているようだった。
その目の前にある空に触れようと手を伸ばしたインテリタス。
「あ、ちょっとまて」
マナブの制止は間に合わなかった。指は空に簡単に飲み込まれ、やがて見えなくなった。空に飲み込まれたのか、あるいは空を突き抜けてしまったのかわからない。やはり、化け物は人が恐れるような事態を考えもせずに行動する。突拍子もない行動に振り回され、憤慨し、心配するのはいつも人の方だ。
インテリタスの指が入り込んだ空は一瞬だけ崩れたようにちいさな粒子が飛び、その後素早くもとの空の色を取り戻していた。
インテリタスはというと、驚きもせず今度はすっと指を引き抜く。同じように粒子が飛んだ。
「指、なくなってないか?」
「ない」
肯定にも否定にもとれる返事に呆れて、マナブがインテリタスの手に触れる。指はある。これで指が消えているか、なにか別の変化が起こっていたならば監督責任を問われていただろう。
果たして、この空の向こう側には何があったのか。インテリタスにはそれを表現できるとは思わない。
少女のような無頓着さを持っていないマナブにとって、空の向こう側を自分でも確かめられないのは少しだけ惜しいな、と感じた。
指が付いているかを確認するために取ったインテリタスの手に何か乗っているのをマナブが認めた。
「どうした、それ」
「外で、誰かくれた」
つぶつぶとした突起のある丸い石はそれ自体が光り、手の中で転がるたびに偏光して混ざり合った輝きを見せる。
その綺麗さに魅せられている間に、インテリタスが口にした不可解な事象にマナブは気が付かなかった。
「綺麗だね」
輝くものに興味を示すインテリタスはその塊をみて微笑んだ。少女はまるでその塊を気に入っているかのように見える。
怪物が見た目相応の反応を見せると、マナブはいつも相手が化け物だという事を忘れる。
空はすでに夕焼けから夜の闇に移行している。その黒い空にはいくつもの星が瞬いていた。
丸い石はインテリタスの手から浮き上がる。空の方へと昇り、あっという間に星にまざって見えなくなってしまった。
***
「本当に空の端っこってないんだなあ」
夕焼けの中を歩く。先を歩いていた男がため息をつきながら言った。昼間は東京の地図を眺めて、それからメルカトル図法の世界地図を眺めて、モルワイデ図法の世界地図も見て、最後は正距方位図法の地図を見て(この三種類の地図の名前を調べるのに二人でスマホを覗き込んで暫くカフェにいた)、あきらめたように空が見たいと帰りの電車から降りて近くの広い公園でこうして歩いているのであった。
「空の端っこってどういうことですか?」
「どいういう事だろう。今日、僕は変なことばかり言うよね」
今日は空の端っこが見たい気分だったんだよね、と男が言う。どんどん先に進んでいってしまう長い脚に追いつくように、少し小走りになった。
「空に端っこがあったら面白いですけれど、」
それだと、その世界は小さな箱庭みたいな世界ですね。
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