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094.果て

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 立ち退きを手伝って欲しいと依頼があった。清掃とハウスキーピングの生業には珍しい依頼だったが、知人の頼みである事、自治会から謝礼金が上乗せされるという事で案件を受けることとした。予想としては住人を立ち退かせた後にすぐ住めるように整えろといったところだろうか。あまり荷物がなく、散らかっていなければいい、そう願いながら現場に向かう。

 指示された住所に近づくにつれて異臭が強くなる。甘ったるい汗の臭い、排泄物の臭い、身体を洗っていないと思われる皮脂の臭い、泥の臭い、食用油の臭い、腐った野菜の臭い、埃臭い臭い……それらが混ぜ合わさったような、一言で表現するのが難しい、とにかく胃液がせり上がって来そうな臭いが強くなる。

 辿り着く前からとても嫌な予感がする。

 ――立ち退きの依頼だなんておかしいと思ったんだ。

 ただでさえ、環境に左右されやすい身体なのに、こんな健康に悪そうな臭いを浴びて大丈夫だろうか。

 以前、どぶ川を攫う仕事を請け負ってしまった時は間違ってヘドロを引っ被ってしまい、体内でその毒素を薄めるのに一週間もかかってしまった。そのような事態は避けたい。

 近づくことに増していく異常な空気を肌で感じつつ、無事に案件が終わることを祈る。

 現場に辿り着くとすでに立ち退きに関わっている署員たちらしき人影が集まっていた。こじんまりとした家と距離を置きながら、額を突き合わせている。……家と言うよりは、大きめの小屋と表現した方が正しいか。

 異様な臭いはその家を中心に発生していた。隣四方には隣家がなくその小屋だけがぽつんと佇む。無理もない。この小屋から発せられる汚臭に巻かれて生活をすることは無理に等しい。

 署員の中の一人、遠目でもわかるような長身の女に声をかけた。トレードマークのような藍色のライダースーツに身を包み、他の署員と同じように段取りを確認していた。

「ハウスキーパーの仕事って聞いたんですけど?」

 声に不満がにじみ出る。振り返った女はガスマスクを身に着けている。

「貴方の仕事は、私たちの仕事が終わった後」

 マスクがきちんと仕事をしている、シューっと気体が出入りする音が聞こえた。のんびりとした抑揚のない、それでもはっきりした声が返って来る。

「立ち退きをした後に、家を綺麗にしてください。……貴方、どうしてそんな軽装で?」

「あなたから何も言われてないからですよ!」

 普段よりも重装備とはいえ、着用してきたのはただの作業着である。こんなに大規模な掃除に巻き込まれるのは想定外だった。

 いくら小屋とはいえ、一人暮らしができそうな家である。しかも、この異臭。ゴミ屋敷を片付けるのと、散らかっている部屋を片付けるのは話が違うのである。

 二人の間に険悪なムードが漂う。その男女を見ていた、別のガスマスクの男がとりなすように割って入った。

「いばら君の連絡不備で申し訳ないね。近くに休憩所を立ててあるからそこでガスマスクを借りてきてくれないかな。力を貸してくれてありがとう。終わったらまた声をかけるよ」

 そうそう、と男が続ける。

「休憩所にインテリタスが待機していると思うから、連れてきて貰えないだろうか? 悪いね」

 ***

 休憩所の椅子で座る小さな影がある。野梨子や男と同じようにガスマスクを付けた姿をしているが、呆けて前を見ている様子で目当ての人物だとわかった。

「お前、呼ばれてる」

「呼ばれてる」

 ガスマスクのサイズが合っていないらしい、視界を守るゴーグルを曇らせながらインテリタスが言葉を復唱した。

 それを横目に用意されているガスマスクを被る。ヘルメット状のそれの中で、先ほどの異臭がほのかに臭った。

「あー、もう。髪とかに匂いが付いてるよ」

 これ、家に帰って水ぶっかけなきゃだめだなと独り言つ。

 少女の髪の毛も上手くマスク内に収まっていない。きっと、同じように臭いの粒子が付着しているはずだ。可愛らしい容姿が台無しなのを想像して、髪ちゃんと洗えよと忠告した。

「今日はお前は何すんだよ」

 西警備署の仕事であれば、インテリタスには関係がない。野梨子の同居人といえ、この娘は署員ではないし、一歩間違えば西警備署でも手に負えないような力を発揮する人であらざる存在である。

「壊しに来た」

「何を?」

「いなくなってくれなかったら、壊すんだって」

 小首を傾げながら、少女が抑揚なく返事をした。

 ***

 インテリタスを伴って小屋に戻ると、何人かの署員がメガホンを片手に声を張り上げていた。

 その呼びかけに大きな唸りが答える。小屋の住人はモンスターか、あるいは実体のある怪異だろうか。いずれにしろ立ち退きの説得に応じるような意思の疎通ができるかは怪しい。

「立ち退きに応じなければ、家を吹き飛ばす許可を自治会から得ています」

 野梨子が淡々と説明する。

 その言葉に動揺したように、家の中から待て、待て、と野太い声が聞こえた。

「聞いてないぞ! 俺の家だぞ!」

「貴方の家ですが、近隣住民から苦情が出ています」

 容赦ない。西警備署のエースを新人だと思われる署員が羨望のまなざしでみつめる。与えられた任務を遂行しようという姿勢は普段の緩慢な動きからは想像がつかないほど凛としていた。

「俺の家だ! 俺の! 俺が家なんだよ!」

 落ち着いた野梨子の声に反比例するように家の中の声は荒れていく。家全体が揺れた。轟音、揺れと共に異様な匂いも波に乗り、ガスマスクを付けていても微かににおう。

 バキ、と大きく折れる音が鳴り、ドアを破って何かが飛び出す。その場にいた全員が住人だと思った。違った。土煙が収まるのを待って、出てきた物体を凝視する。

 それは肥大した足の裏だった。

 生まれて数か月の赤子のように肉のくびれが見られる足がドアを突き破り外に出ていた。皮脂が詰まった、長年洗浄されていない臭いがあたりを襲う。

 頭痛に見舞われ両手で額を抑える。目の前がチカチカと光り、思わずしゃがみ込んでいた。

「これ、絶対だめなやつ……っ」

 その匂いにも動じていないかのように、相変わらず野梨子が住人に呼びかけを続ける。異常な臭い、それと共に起こっている足の怪異にものともせず。

「どっちが化け物かわからないな!」

 他の署員の気持ちを代弁するように男が豪快に笑った。

「……あの巨大な足は、モンスターですか?」

「いや、ここに住んでいるのは普通の人間だと聞いているがなあ」

 家を突き破ったのは足だけに留まらなかった。

 二階の窓からは脂肪のついた脂ぎった乳房が張り出す。大きく引き攣れた傷がうねった。何かに千切られたような跡も見られる。

 そのうち、家が雄叫びをあげた。屋根が落ち、土埃が舞う。さすがに野梨子も後ずさった。

 屋根から出てきたのは肥大した頭だった。頭にも頬にも瞼にも顎にも脂肪がついて、顔のパーツが見えない。その生き物が雄叫びをあげるたび吐く息で周囲が湿り、濃霧に包まれたかのような不快な感触がそこにいた人間を襲った。

 物ともしていないのはインテリタスも同じだった。

 野梨子に壊していい? と聞いた。

「やむを得ないわね。家から出して連行を――」

 野梨子の話を聞きながらインテリタスが家に向き合う。彼女の視界の中で、小さな手が家を捉えた。――家と、そこに住む住人も一緒に。

 少女がぐ、と力を込めて拳を作った。

 彼女の視界で家を握った通りに家と住人が爆散する。体液と瓦礫があたりに飛散した。

 ***

 白い天井が見える。

 規則的な高い機械音と何かが回転しているような音。身体を起こすと身体に数本の紐が巻き付いていた。点滴と何かわからない線。とにかく病院だった。

 ナースコールで職員を呼びいくつかのチェックを受ける。

 インテリタスが家と住人を破裂させ、もちろん周囲にいた人間はその体液を被った。多くの人間は一週間程度、身体から異臭が取れない被害をこうむっていたが、代謝能力が著しく低い一人は病院に担ぎ込まれて浄化療法を受けていたわけだ。

 面会に野梨子と壮年の男がやって来た。

「壊すのは家のはずだったんだけど」

 インテリタスは勘違いしたのだろう。勘違いと言うよりも、適切な指示を与えられなかったため、自己解釈として丸ごと破壊したと言うべきか。

「あいつの言ってること、なんかおかしいと思ってたんですよ」

「住人は人間だったけどね、食べすぎ運動不足でとにかく身体が肥大していったらしいんだ……。驚いたよ。骨格は普通の人間よりもちょっとだけ背が高かっただけなんだよ」

 暴飲暴食の果てに家から出ることができなくなった男はもちろん、家の中で生活をすることなど不可能だった。それでも生きていたのは、自分の身体を食べて凌いでだそうだ。

 男の左半身はほとんどただの塊だった。

「なにごとも、ほどほどがちょうどいいってとだねぇ」
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