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1話 絶望からの始まり

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 私の物語はいつもから始まる。
 だけど知っておいてほしい。
 少しの賢さと、諦めの悪さがあれば、絶望すら武器になるってことを────




 今日は朝から霧が濃く、日暮の15時がせまるのに、窓を白く濁したままだ。
 渓谷の間を縫うように建てられたこの学園は、朧月会が運営する隠密スパイ養成学校、残月学園・央都おうと支部校だ。
 私は今日、ここを卒業する。
 16歳なる年の9月に、調査官として碧霞あおがすみ蒸気技巧高等学園へ派遣される。
 正式には、これから学長より発表される最終試験結果によるが、この学園の代表として、『ママ』も通った碧霞へ派遣されるのは間違いない。
 自己採点でもマイナス4ポイント程度。黒松という、同じく壱等調査官と席を争ったが、彼は手に怪我があった。怪我に対するハンデはない。当たり前だが、点数の差は歴然だ。

 肩を過ぎた黒紅色くろべにいろの髪をかきあげ、思わずニヤける頬を私は叩く。
 学長の部屋へ続く廊下へと入っていくと、まるで時報だ。各部屋、廊下を灯すための可燃蒸気通が走り出し、管をカンカンと鳴らしていく。

 すぐにシリンダーが作動、歯車がゆっくりと回転し、蛇腹のように並んだ小さな歯車がカチカチと動くと、廊下の天井に下がる蒸気灯のシャンデリアが降りてくる。
 クリスタルの細工も美しいが、三つのランプには月夜を模ったフレームが施されており、残月学園の名の由来でもある。
 可燃蒸気がシャンデリアに届いた瞬間、パチンと火花が上がり、ぼおと音を立てて青白い炎が上がった。
 年季の入った白い漆喰の壁に、青みがかった私の影がふわりと浮かび、足取り軽く進んでいく姿が勇ましい。

 今日で最後になる黒いセーラー服のスカートの裾をはらい、スカーフをただしてから学長室のドアの前に立つと、私はノックのあとに、名を告げた。

「壱等調査官、秘匿名《コード・ネーム》、梟《きょう》、参りました」

 私の横に、大きな影がかかった。

「壱等調査官、秘匿名《コード・ネーム》、黒松《くろまつ》、参りました」

 音もなく横に立った黒松は、右手だけで黒い詰襟のフックをかけ、少し苦しいのか襟に指を入れて襟をゆする。
 彼は冬北《とうほく》支部校から最終試験のためにここに来た生徒だ。
 180をこえる長身と、月白色《げっぱくいろ》の肌に、陽の光に溶けるような金髪を襟足でまとめ、滅紫《けしむらさき》の目をした彼は、倭国と外国のハーフだという。
 常に笑顔で物腰も柔らかく、3日前に来たにも関わらず、しっかり溶け込み、もちろん、たいへん女子にも人気だ。
 だがなにより、彼の隠密《スパイ》としての知識、技術がかなり高い。
 彼の身のこなしを見たが、しなやかさが私と全くちがう。
 私は無駄な動きがないよう最適な行動を計算しているのに対し、彼は流れるように動く。
 まるで、私が操る傀儡のようだった。

「──よし、入れ」

 数拍の間をおいて、ドア越しの学長の声に招かれた私たちは、学長室へ入った。
 学園歴代の朧月会学長の写真が見下ろすなか、机を挟んで背もたれしか見えなかった黒革の椅子が、ゆっくりとこちらを向いた。

 そこに座っていたのは、鉛色の髪を腰まで流した美麗な青年であり、最年少で学長となった秘匿名コード・ネーム・鶴を持つ学長である。年齢は23。
 端正な顔に表情を出すことなく、黒い手袋をはめた手で髪をかきあげ、視線を私たちに向ける。

「4年もの間、壱等調査官が出ていなかったが、今年は2名もいる。この豊作の年に、僕が学長を務められたことを光栄に思うよ」

 言いながら彼が手を伸ばした黒塗りの机には、機密書類や資料が散乱している。
 9月2日と書かれた今朝の朝刊すら、机に埋もれているのを見て、少しうんざりする。
 いつもと変わらない学長に、今日は特別な日なのに、と小言を言いたくなるのを、私は喉の奥で我慢した。

「結果のファイルは……これだな」

 銀色のファイルを抜き取ったとき、朝刊の一面が現れた。
 “極光姫オーロラ姫病再来か”と、白抜きの大文字が見える。
 学長は、音もなく立ち上がると、最終試験の結果が書かれたファイルをためらいなく手をかけた。

 ゆっくりと、ページがめくられる。
 今日の最終試験結果が記されたページだ。
 私、または彼が、学園の代表として、碧霞学園に行くことになる。
 まだ彼の左手は、怪我が治らないのか、指まで綺麗に巻きつけられた包帯が痛々しい。
 だが、それは、私で決まっているという意味でもある。

 私は髪を耳に掛け直して、ぐっと胸を張った。

「……最終試験の結果だが、学力筆記テスト、暗号解読において両者満点。話術試験では、学生壱等調査官・梟《きょう》、満点プラス。学生壱等調査官・黒松、マイナス3ポイント」

 私は黒松を視線だけで見ながら、また緩みそうになる唇をぐっと結ぶ。
 最後の結果は、蒸気傀儡操作試験結果になる。
 私は唇の端が上がるのを必死で抑えて耳を澄ました。

「蒸気傀儡操作試験、学生壱等調査官・黒松、満点プラス。学生壱等調査官・梟、マイナス4ポイント」

 私は黒松を見た。
 彼の手には、変わらず包帯が巻かれている。

「よって梟は、第二重要高校である桃風ももかぜ蒸気技術高等学校へ。異動は入学式後の明後日、9月4日、9時より移動、任務開始。黒松は、第一重要高校である碧霞蒸気技巧学園へ。9月2日、本日23時に任務開始。以上だ」

 黒松は髪を手のひらでなでてから、学長に敬礼した。
 出ていく際、私を振り返って、左手を軽々と動かし、手を振りながらにこりと笑う。

『みくびってくれてありがとう』

 唇が、そう、揺れた。
 彼の八重歯の端がゆっくりと吊り上がる。
 目が半月をかたどり、私を見下げて、それはまるで、

『あんたが女でよかったあ』

 たった7枚の万札を握り締めて、5歳の私を売ったあの母の笑顔といっしょだ。

 視界が狭くなる。
 あのときにできた腹の傷口がひきつるのを感じる。
 裏返りそうになる意識を、私は無理やりとどめて、学長室を出ていく。

 重い扉が閉まったと同時に抱きつかれた。
 あまりに突拍子のないことだが、胸の厚みから、ルームメイトの雀だとわかる。
 すぐに私を解放すると、確かめるように顔を覗きこんだ。

「……ね、うそ、だよね? 黒松くんが、って、うそ、でしょ……?」

 彼女の両手には小さなクラッカーが握られていた。私の合格を彼女なりに祝おうとしていたのだろう。
 それを見て、私はつまる息をそのままに、無理やり背筋を伸ばす。

「いや、本当だ。明後日から私は桃風だ。今から資料室で情報をまとめてくるよ」

 どうにか言葉にできた。口の端も笑えたと思う。
 だが雀はクラッカーを強く握り潰すと、彼女の頬にかかる桜色の髪を大きく揺らす。

「あたし、鶴学長に抗議する……!」
「バカっ」

 とっさに彼女の腕をとる。童顔の垂れ目顔に不釣り合いな大きな胸をゆらしながら、雀は悔しそうに唇を噛んだ。
 みるみる薄紅色の大きな瞳に涙がたまっていく。

「だって……! 梟はいつもみんなを小馬鹿にして、そりゃあいつも偉そうにしてるけど、誰よりも、ずっとずっとずぅーっと努力してたもん! あたし、知ってるもんっ!」

 私とルームメイトになって4年、見てくれているのは感謝するが、調査官にとって、気持ちで情報の比重を変えることは絶対にしてはならない。
 彼女はいつもここが欠けている。
 だから、最低ランクの伍等調査官なのだ。

「……誰よりも努力しても、報われないこともある。それに、……結果は、間違いなく、私の落ち度だから」
「でも、」 

 雀の声をさえぎるように、私は背を向けた。
 雀は追ってこなかった。
 なにか言いたげな吐息だけが、背中で聞こえた。



 資料室は地下になる。
 3階の学長室から螺旋階段を降り、エントランスの奥へ向かうと、重い鉄扉を開き、延々と続く石階段を降りていく。
 細い階段は地下へと伸びており、アーチ状の壁に点々と蒸気灯が並んでいる。
 空気は常に循環しているのもあり、湿気ったカビ臭さもない。
 不規則にボウと音を立てて強く光る音を聞きながら、今頃、碧霞学園に行くのは黒松だと話が広まっている頃だと想像していた。
 あのクラスメイトたちなら手を叩き、いない私に大笑いしていることだろう。

 だが、お前たちに、この秘匿名コード・ネームが背負えたのか?
 『ママ』が学生時代に与えられた名を、私は12歳から背負って、誰よりも1番でいるよう踏ん張ってきたん……

「あ……」

 気づけば漆喰壁を殴っていた。
 軽くヒビが壁を走る。
 私は血がにじみはじめた拳でもう一度殴り、階段に座り込んだ。

 悔しさが涙になって落ちてくる。
 笑われるのは当然だ。
 自分の油断の結果なのだから……

「……足掻け、梟。絶望を燃料にしろ……! 大丈夫……お前は、ママが自慢できる賢さがある……大丈夫、だっ……!」

 膝を抱えて、私は絶叫した。
 反響し、跳ね返る声が地下へと沈んでいく。



 資料をまとめ終えた私は、夕食も摂らず、シャワーも入らず、ただベッドに潜った。
 夜中、黒松の見送りに数人の生徒が出ていく音を聞きながら、私はこれほどの人たちに見送られたのだろうかと思う。
 改めて蔑められたようで、目頭が熱くなるのを私は歯を食いしばって耐えていた。
 気づけば朝6時の鐘が聞こえ、ほとんど眠れなかった状況に舌打ちする。

 私は何気なく枕元においてある猫型傀儡のカイを撫でた。
 冷たいふわふわの毛が柔らかく、少しだけ落ち着ける。
 カイは灰色の長毛猫を模った蒸気糸で操ることができる人形で、この土地の子どもなら誰もが一度は通る遊び道具と言ってもいい。

 朧月会に入ったとき、『ママ』から貰った唯一のプレゼントでもある。
 だが10年のつきあいで、だいぶん、綻びが見えてきた。
 一度、メンテナンスに出したいが、構造が普通とは異なるため、碧霞蒸気技巧学園に行くことができれば、傀儡の仕組みを学べるし、手入れもしてあげられると思っていたのだが……
 桃風にいくと決まったのだから、切り替えるしかない。

 私は改めて薄くカーテンを開く。
 晴れていれば見える渓谷も、森林の温度差と蒸気灯の熱排出もあり、霧で辺りが満ちている。昨夜ならもっと濃い霧だったはずだ。
 スパイの門出として、とても素晴らしかったに違いない。

 私は静かに起き上がると、私の机に置かれたリンゴとクラッカーを見つけた。
 これは雀の気遣いだ。
 大口を開けて眠る雀を起こさないよう、リンゴをかじりつつ、身支度を整えていく。

(……よし)

 姿見の鏡で身なりを確認した。
 少し、目が腫れているが、大した変化ではない。

 私はカイを小脇に抱え、りんごをかじりながら部屋をでた。
 向かう場所は裏の庭園だ。
 朝から晩まで人が来ることのない裏庭だ。
 カイを起こすと色々面倒があるため、人目がつかないこの場所はカイと私のお気に入りでもある。

 いつも休むベンチに腰を下ろし、傀儡操者用の手袋をはめる。
 砂状にされた蒸気石を手の甲にセットすると、指先からしゅるしゅると無数の蒸気の糸が伸びていく。
 カイの全身にからみつくが、それぞれのポイントにつながっていく。
 蒸気が彼の血液だ。体に注ぎ込まれる蒸気が、ゆっくり循環しだすと、くたりとしおれていたカイが、生気を帯びていく。

 蒸気の音が止まった。
 カイに十分に蒸気が充填されたからだ。
 彼の黄金色の目が重たそうに開いていく。

『……ふおあぁ。あー、おはようさん』

 庭園のベンチでもこもこの顔を持ち上げ、猫らしく背伸びをする。
 カイは辺りを見回し、髭を揺らした。

『今日は蒸気がキツいな。オレ様の自慢の毛がぺしゃんこだぜ』

 ベロベロと毛繕いを始めたカイの頭を撫でてやると、気持ちよさそうに眼を細めた。
 はたから見ると、私がそうやってカイを動かしている、と思う人がほとんどだ。
 だが、カイはどういうわけか自我がある。
 操者と繋がることで動き出す仕組みだが、私が起動するスイッチであるだけで、あとは彼が判断、行動し、会話をしている。
 昔は丁寧にこの仕組みを話していたが、ほぼ全員が不思議そうに、むしろ面白い冗談だと笑うため、カイとの会話は人のいないところですることをずいぶん昔に決めた。
 ただ雀は信じてくれている。
 もしかすると、私に『信じている』と思わせているだけかもしれないが。

『そうだ、梟、試験の結果どうだったよ?』

 詳しく答えたくない私は、首を横に振るだけにした。
 何か言えば100倍は皮肉にして返してくる猫だ。

『マジかよ? ……まあ、オレ様を使えなかったからな』

 カイなりに私の気持ちを汲んでくれたようだ。珍しく茶化してこない。
 いや、彼にとっては、私が碧霞学園に行こうが行くまいが関係がないからだ。
 カイはベンチに二本足で立ち上がると、霧の奥をじっと見つめて、指をさした。

『あれ、鶴学長だな』

 カイの特技の一つだ。
 私にはただの木にしか見えないが、カイには判別できるという。
 見える理屈までは教えてくれないが、相棒としてはかなり優秀だ。
 もちろん聴覚もかなり鋭く、音で相手の位置など簡単にわかるのも、心強い。

『鶴学長、頭に赤いベレー帽でもかぶりゃ、もっと鶴らしくなると思わね?』

 私はその言葉に頷かなかった。
 学長になった時点で、鶴という秘匿名コード・ネームが与えられる。
 鶴らしくしろ、なんて、かなり乱暴では?

 だが、カイは名案だとばかりに腕を組んでご満悦だ。
 10mほど奥の学長の影を見ながら、私は3回、瞬きをした。

「赤いベレー帽とはどういうことだ、カイ」

 ベンチの端に腰を下ろしている学長がいる。
 鉛色の髪に乱れすらなく、優雅に足すら組んでいる姿に、カイは垂直に飛び上がった。

『のわぁ! ななななんだよ! 座ってんじゃねぇよっ!』

 目も耳も良いカイだが、鶴学長の移動だけは見えないという。
 今日もいつものように驚かされ、毛をぼわりとふくらませている。ちなみに、私もこっそり驚いているのは、内緒だ。

「赤いベレー帽を被った方が、学長らしいってことかな」

 カイは太くなった尻尾を振り回しながら、学長に肉球をつきつけた。

『悪口じゃない。提案だ! だって、学長、鶴だろ? 服は黒いから、本当は白がいいけどよ、頭だけでも赤にしたら、めでたい感じになるだろ? な? な!』
「それだと冬北《とうほく》の丹頂になれる、か。いいかもしれない」

 蝋人形のように表情を変えずに鶴学長はカイの頭をなでて、私に視線を向けた。 

「梟、おはよう」
(おはようございます)

 言ったつもりだった。
 なのに、音が聞こえない。
 いや、自分の声が、出ていない……?

 首元を押さえて戸惑いに目を泳がせる。
 ただ学長はふうんと頷き、そのまま去っていった。

 私は自分の身に起きたことがわからなかった。
 わからない。
 声が出ない。
 どうやっても、声が出ない。
 いや、出せない。
 出るのは、ひゅーひゅーと唸る空気だけだ。

『梟、どうしたよ? いつもなら鶴にひでぇこと言い返すのに。つまんねーじゃん』

 そんなことは言わない、そう言い返したいのに!
 私がいつになく焦りながら、大きな口パクで(こえがでない)と言うと、カイの毛がさっきよりは控えめにボッと膨れた。

『はぁ?』

 カイは何かに気付いたのか、二本足で立ち上がり、ポンと肉球を合わせた。

『お前、一番の隠密スキル、話術だったよな? もう能無しスパイになったんじゃね?』

 ひとりベンチを叩いて爆笑するカイに、私は

『……誰か来たな』

 背後からの足音に、私は座りながらも身構えた。
 ……いや、足音は雀だ。
 だが、かなり焦った足取りに感じる。

「……いた!」

 ベンチから振り返ると、大きな胸を揺らし、寝癖の治っていない姿で私の前に駆けつけると、

「梟! 聞いて、黒松くんが……!」

 涙目で雀から伝えられた言葉に、私はうなずくこともできなかった。

 黒松を乗せた蒸気自動車が、移動中、崖から転落。
 運転手含め、全員、死亡したという。
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