上 下
135 / 139

135 潜入先を離脱する時に寂しいと感じるのは初めてだった

しおりを挟む
「マーガレットが帰って来たんです!」

 デスクの電話を取るとハルがそう言った。

「やっぱり旅行に行っていたんですって。私の伝言聞いて連絡をくれました」

 ホークは微笑みながら聞いていた。

「なんだ。心配して損したな」

「あのアパートは引き払って今実家にいました。で、見つかったんです」

 なくなったと思っていたロニーの生命保険支払いの控えのことだ。

「マーガレットが思い出して。もしかしたら、ミケルソンさんのファイルに間違って入れちゃったかもって。そしたらあったんです、ミケルソンさんの個人ファイルの中に」

 いや、それは間違いじゃない――マーガレット、やるじゃないか――ちゃんと証拠を残しておいたんだ。

「よかったな」

「監査の人に見られる前に見つかってよかったです」

 ハルの声は明るかった。



 退職の意志をジェイミー・トールマンに伝えに行った。「アメリカで結婚するので」という理由にした。

「おまえもボーナスもらってトンズラする口か」

 ジェイミーは今日も赤いネクタイで笑っていた。ロニーとロマネスクの件でマスコミの取材申し込みが多く、広報から何度も呼び出されていた。

「すみません、婚約者が待ってくれないので」

「どうしたんだ、その顔?」にやにやしている。

「ジムでボクシングしていて、つい本気になって……」頬の痣に手をやった。

「しょうがないな。また客の振り分け表をつくるか」エディもいないし、大変だ。

 ジェイミーの大きな手と握手をした。

 ジェイミーはエディの代わりを探すことになるが――それはまだ言えない。でもジェイミーならきっといい人材が見つかる。彼の信条に共感して一緒に働きたいと思う人はいる。

 そのあとフロアの皆に挨拶をして回った。今日ここを出る時は、アクセスカードを返してもう二度と入ることはない――そう考えて、思わず感傷に浸りそうになった。潜入先を離脱する時に寂しいと感じるのは初めてだった。

「いろいろありがとう」とパメラに言った。唇を少し突き出して眉が歪んでいる。マスカラもちょっと歪んでいる。頬にキスしようとして身を乗り出した時、彼女の大きく開いた胸元から下着が見えた。黒だった。え、黒?

「そんな顔で辞めるだなんて。まさか婚約者の人に、こっちでいろいろあったのがばれたの?」

「なにもないじゃないか、こっちでなんか」

「えーっ、結婚退職するの?」シャロンも寄ってきて目を丸くした。

「すったもんだの挙句、元の莢に戻るってパターンか」イーサンが言った。

「残念だな、おまえ、いい仕事してたのに」ジョルジオが言った。

「また新しいセールスマン、探さなきゃいけないじゃないの」とレイチェル。

「頑張れよ。あっちも景気悪いけど、おまえなら稼げる」とルパート。

 電話がかかってくる度に客に退職の挨拶をしていると、パメラが「一階に面会が来ている」とメモを持ってきた。「ロバート・ダレル」とあった。

 一階に降りて行くと、例の鼠に似た笑顔が一段と皺を寄せてこっちを見た。

「なんだい、その顔は?」

「ちょっと、ボクシングで……」

「そうじゃないだろ」ニヤニヤしている。

「警察から聞いたのか?」

 ポンポン、とホークの背を叩いた。

「間にあってよかった」ダレルはホークが依頼した件についての報告書だと言って、封筒を差し出した。

「退職するって聞いたよ」

「あんたが別れを惜しんでくれるなんて」ちらっと封筒の中身を見た。写真と文書が入っている。

「お探しの人はそこにいるよ」

「ありがとう」ホークは言って、手を差し出し握手をした。

「親父さんが連れ戻しに行くと言っててな」

「一緒に行けるか?」

「行く?」

「彼女を連れ戻しに」

 ダレルは深く息を吸い込んだ。

「うーむ、社長に訊かないと……」

「もちろん、特別料金を払うぜ」

「うむむ」

「危険手当付きだ」

「ふむふむ」

「考えといてくれ」

 即答しなくてよかったので、ダレルはひとまず安心したらしい。

 ダレルを送りながらホークは玄関の外まで行った。じゃあな、と手を振る彼の後ろにベージュ色のベントレーが停まっていた。後部のドアが開いて、降りた人影が走って来た。「アラン!」人影がぶつかるように飛びついて来た。

 え?

 走って来たのは少年――黒髪の学校の制服姿のグレンだった。

 兄さんでしょう? アランでしょう?

 抱き着いたまま離れない。

 彼の後ろにもう一人――大判のショールをゆったり肩に掛けて歩いて来る人影は――母だった。母がグレンの後ろから腕を回して……。

 最後に母に抱きしめられた時、自分はまだやせっぽちの少年だった。今では自分の方が母を抱き寄せるようになっていた。耳元で母が「おかえりなさい」と何度も囁いた。

 ダレルがまだ手を振っている。鼠め。母からいくらふんだくったんだ。

 しばらくそうしていたが、ポケットのブラックベリーがしきりに振動する。メールを見ると、パメラとハルからだった。

「アラン、どこにいるの? 人事部の退職面接の時間よ!」

「キャンベルさん、時間です」

 もう一つは営業部全員に送られたメールで、

「アランのお別れ会は七時から。皆でアランと一緒に並ぼう!」

 場所は例の客を選ぶクラブだった。

「もう戻らないと」

 母とグレンは、つい昨日も同じように頬笑みを交わしたような気がする笑顔を向けた。
しおりを挟む
感想 19

あなたにおすすめの小説

後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~

菱沼あゆ
キャラ文芸
 突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。  洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。  天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。  洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。  中華後宮ラブコメディ。

桜ケ丘高校の秘密

廣瀬純一
ミステリー
地震の後に体が入れ替わった咲良と健太か通う桜ケ丘高校の秘密の話

夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました

氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。 ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。 小説家になろう様にも掲載中です

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

王女の中身は元自衛官だったので、継母に追放されたけど思い通りになりません

きぬがやあきら
恋愛
「妻はお妃様一人とお約束されたそうですが、今でもまだ同じことが言えますか?」 「正直なところ、不安を感じている」 久方ぶりに招かれた故郷、セレンティア城の月光満ちる庭園で、アシュレイは信じ難い光景を目撃するーー 激闘の末、王座に就いたアルダシールと結ばれた、元セレンティア王国の王女アシュレイ。 アラウァリア国では、新政権を勝ち取ったアシュレイを国母と崇めてくれる国民も多い。だが、結婚から2年、未だ後継ぎに恵まれないアルダシールに側室を推す声も上がり始める。そんな頃、弟シュナイゼルから結婚式の招待が舞い込んだ。 第2幕、連載開始しました! お気に入り登録してくださった皆様、ありがとうございます! 心より御礼申し上げます。 以下、1章のあらすじです。 アシュレイは前世の記憶を持つ、セレンティア王国の皇女だった。後ろ盾もなく、継母である王妃に体よく追い出されてしまう。 表向きは外交の駒として、アラウァリア王国へ嫁ぐ形だが、国王は御年50歳で既に18人もの妃を持っている。 常に不遇の扱いを受けて、我慢の限界だったアシュレイは、大胆な計画を企てた。 それは輿入れの道中を、自ら雇った盗賊に襲撃させるもの。 サバイバルの知識もあるし、宝飾品を処分して生き抜けば、残りの人生を自由に謳歌できると踏んでいた。 しかし、輿入れ当日アシュレイを攫い出したのは、アラウァリアの第一王子・アルダシール。 盗賊団と共謀し、晴れて自由の身を望んでいたのに、アルダシールはアシュレイを手放してはくれず……。 アシュレイは自由と幸福を手に入れられるのか?

カフェ・シュガーパインの事件簿

山いい奈
ミステリー
大阪長居の住宅街に佇むカフェ・シュガーパイン。 個性豊かな兄姉弟が営むこのカフェには穏やかな時間が流れる。 だが兄姉弟それぞれの持ち前の好奇心やちょっとした特殊能力が、巻き込まれる事件を解決に導くのだった。

今夜は帰さない~憧れの騎士団長と濃厚な一夜を

澤谷弥(さわたに わたる)
恋愛
ラウニは騎士団で働く事務官である。 そんな彼女が仕事で第五騎士団団長であるオリベルの執務室を訪ねると、彼の姿はなかった。 だが隣の部屋からは、彼が苦しそうに呻いている声が聞こえてきた。 そんな彼を助けようと隣室へと続く扉を開けたラウニが目にしたのは――。

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

処理中です...