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135 潜入先を離脱する時に寂しいと感じるのは初めてだった
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「マーガレットが帰って来たんです!」
デスクの電話を取るとハルがそう言った。
「やっぱり旅行に行っていたんですって。私の伝言聞いて連絡をくれました」
ホークは微笑みながら聞いていた。
「なんだ。心配して損したな」
「あのアパートは引き払って今実家にいました。で、見つかったんです」
なくなったと思っていたロニーの生命保険支払いの控えのことだ。
「マーガレットが思い出して。もしかしたら、ミケルソンさんのファイルに間違って入れちゃったかもって。そしたらあったんです、ミケルソンさんの個人ファイルの中に」
いや、それは間違いじゃない――マーガレット、やるじゃないか――ちゃんと証拠を残しておいたんだ。
「よかったな」
「監査の人に見られる前に見つかってよかったです」
ハルの声は明るかった。
退職の意志をジェイミー・トールマンに伝えに行った。「アメリカで結婚するので」という理由にした。
「おまえもボーナスもらってトンズラする口か」
ジェイミーは今日も赤いネクタイで笑っていた。ロニーとロマネスクの件でマスコミの取材申し込みが多く、広報から何度も呼び出されていた。
「すみません、婚約者が待ってくれないので」
「どうしたんだ、その顔?」にやにやしている。
「ジムでボクシングしていて、つい本気になって……」頬の痣に手をやった。
「しょうがないな。また客の振り分け表をつくるか」エディもいないし、大変だ。
ジェイミーの大きな手と握手をした。
ジェイミーはエディの代わりを探すことになるが――それはまだ言えない。でもジェイミーならきっといい人材が見つかる。彼の信条に共感して一緒に働きたいと思う人はいる。
そのあとフロアの皆に挨拶をして回った。今日ここを出る時は、アクセスカードを返してもう二度と入ることはない――そう考えて、思わず感傷に浸りそうになった。潜入先を離脱する時に寂しいと感じるのは初めてだった。
「いろいろありがとう」とパメラに言った。唇を少し突き出して眉が歪んでいる。マスカラもちょっと歪んでいる。頬にキスしようとして身を乗り出した時、彼女の大きく開いた胸元から下着が見えた。黒だった。え、黒?
「そんな顔で辞めるだなんて。まさか婚約者の人に、こっちでいろいろあったのがばれたの?」
「なにもないじゃないか、こっちでなんか」
「えーっ、結婚退職するの?」シャロンも寄ってきて目を丸くした。
「すったもんだの挙句、元の莢に戻るってパターンか」イーサンが言った。
「残念だな、おまえ、いい仕事してたのに」ジョルジオが言った。
「また新しいセールスマン、探さなきゃいけないじゃないの」とレイチェル。
「頑張れよ。あっちも景気悪いけど、おまえなら稼げる」とルパート。
電話がかかってくる度に客に退職の挨拶をしていると、パメラが「一階に面会が来ている」とメモを持ってきた。「ロバート・ダレル」とあった。
一階に降りて行くと、例の鼠に似た笑顔が一段と皺を寄せてこっちを見た。
「なんだい、その顔は?」
「ちょっと、ボクシングで……」
「そうじゃないだろ」ニヤニヤしている。
「警察から聞いたのか?」
ポンポン、とホークの背を叩いた。
「間にあってよかった」ダレルはホークが依頼した件についての報告書だと言って、封筒を差し出した。
「退職するって聞いたよ」
「あんたが別れを惜しんでくれるなんて」ちらっと封筒の中身を見た。写真と文書が入っている。
「お探しの人はそこにいるよ」
「ありがとう」ホークは言って、手を差し出し握手をした。
「親父さんが連れ戻しに行くと言っててな」
「一緒に行けるか?」
「行く?」
「彼女を連れ戻しに」
ダレルは深く息を吸い込んだ。
「うーむ、社長に訊かないと……」
「もちろん、特別料金を払うぜ」
「うむむ」
「危険手当付きだ」
「ふむふむ」
「考えといてくれ」
即答しなくてよかったので、ダレルはひとまず安心したらしい。
ダレルを送りながらホークは玄関の外まで行った。じゃあな、と手を振る彼の後ろにベージュ色のベントレーが停まっていた。後部のドアが開いて、降りた人影が走って来た。「アラン!」人影がぶつかるように飛びついて来た。
え?
走って来たのは少年――黒髪の学校の制服姿のグレンだった。
兄さんでしょう? アランでしょう?
抱き着いたまま離れない。
彼の後ろにもう一人――大判のショールをゆったり肩に掛けて歩いて来る人影は――母だった。母がグレンの後ろから腕を回して……。
最後に母に抱きしめられた時、自分はまだやせっぽちの少年だった。今では自分の方が母を抱き寄せるようになっていた。耳元で母が「おかえりなさい」と何度も囁いた。
ダレルがまだ手を振っている。鼠め。母からいくらふんだくったんだ。
しばらくそうしていたが、ポケットのブラックベリーがしきりに振動する。メールを見ると、パメラとハルからだった。
「アラン、どこにいるの? 人事部の退職面接の時間よ!」
「キャンベルさん、時間です」
もう一つは営業部全員に送られたメールで、
「アランのお別れ会は七時から。皆でアランと一緒に並ぼう!」
場所は例の客を選ぶクラブだった。
「もう戻らないと」
母とグレンは、つい昨日も同じように頬笑みを交わしたような気がする笑顔を向けた。
デスクの電話を取るとハルがそう言った。
「やっぱり旅行に行っていたんですって。私の伝言聞いて連絡をくれました」
ホークは微笑みながら聞いていた。
「なんだ。心配して損したな」
「あのアパートは引き払って今実家にいました。で、見つかったんです」
なくなったと思っていたロニーの生命保険支払いの控えのことだ。
「マーガレットが思い出して。もしかしたら、ミケルソンさんのファイルに間違って入れちゃったかもって。そしたらあったんです、ミケルソンさんの個人ファイルの中に」
いや、それは間違いじゃない――マーガレット、やるじゃないか――ちゃんと証拠を残しておいたんだ。
「よかったな」
「監査の人に見られる前に見つかってよかったです」
ハルの声は明るかった。
退職の意志をジェイミー・トールマンに伝えに行った。「アメリカで結婚するので」という理由にした。
「おまえもボーナスもらってトンズラする口か」
ジェイミーは今日も赤いネクタイで笑っていた。ロニーとロマネスクの件でマスコミの取材申し込みが多く、広報から何度も呼び出されていた。
「すみません、婚約者が待ってくれないので」
「どうしたんだ、その顔?」にやにやしている。
「ジムでボクシングしていて、つい本気になって……」頬の痣に手をやった。
「しょうがないな。また客の振り分け表をつくるか」エディもいないし、大変だ。
ジェイミーの大きな手と握手をした。
ジェイミーはエディの代わりを探すことになるが――それはまだ言えない。でもジェイミーならきっといい人材が見つかる。彼の信条に共感して一緒に働きたいと思う人はいる。
そのあとフロアの皆に挨拶をして回った。今日ここを出る時は、アクセスカードを返してもう二度と入ることはない――そう考えて、思わず感傷に浸りそうになった。潜入先を離脱する時に寂しいと感じるのは初めてだった。
「いろいろありがとう」とパメラに言った。唇を少し突き出して眉が歪んでいる。マスカラもちょっと歪んでいる。頬にキスしようとして身を乗り出した時、彼女の大きく開いた胸元から下着が見えた。黒だった。え、黒?
「そんな顔で辞めるだなんて。まさか婚約者の人に、こっちでいろいろあったのがばれたの?」
「なにもないじゃないか、こっちでなんか」
「えーっ、結婚退職するの?」シャロンも寄ってきて目を丸くした。
「すったもんだの挙句、元の莢に戻るってパターンか」イーサンが言った。
「残念だな、おまえ、いい仕事してたのに」ジョルジオが言った。
「また新しいセールスマン、探さなきゃいけないじゃないの」とレイチェル。
「頑張れよ。あっちも景気悪いけど、おまえなら稼げる」とルパート。
電話がかかってくる度に客に退職の挨拶をしていると、パメラが「一階に面会が来ている」とメモを持ってきた。「ロバート・ダレル」とあった。
一階に降りて行くと、例の鼠に似た笑顔が一段と皺を寄せてこっちを見た。
「なんだい、その顔は?」
「ちょっと、ボクシングで……」
「そうじゃないだろ」ニヤニヤしている。
「警察から聞いたのか?」
ポンポン、とホークの背を叩いた。
「間にあってよかった」ダレルはホークが依頼した件についての報告書だと言って、封筒を差し出した。
「退職するって聞いたよ」
「あんたが別れを惜しんでくれるなんて」ちらっと封筒の中身を見た。写真と文書が入っている。
「お探しの人はそこにいるよ」
「ありがとう」ホークは言って、手を差し出し握手をした。
「親父さんが連れ戻しに行くと言っててな」
「一緒に行けるか?」
「行く?」
「彼女を連れ戻しに」
ダレルは深く息を吸い込んだ。
「うーむ、社長に訊かないと……」
「もちろん、特別料金を払うぜ」
「うむむ」
「危険手当付きだ」
「ふむふむ」
「考えといてくれ」
即答しなくてよかったので、ダレルはひとまず安心したらしい。
ダレルを送りながらホークは玄関の外まで行った。じゃあな、と手を振る彼の後ろにベージュ色のベントレーが停まっていた。後部のドアが開いて、降りた人影が走って来た。「アラン!」人影がぶつかるように飛びついて来た。
え?
走って来たのは少年――黒髪の学校の制服姿のグレンだった。
兄さんでしょう? アランでしょう?
抱き着いたまま離れない。
彼の後ろにもう一人――大判のショールをゆったり肩に掛けて歩いて来る人影は――母だった。母がグレンの後ろから腕を回して……。
最後に母に抱きしめられた時、自分はまだやせっぽちの少年だった。今では自分の方が母を抱き寄せるようになっていた。耳元で母が「おかえりなさい」と何度も囁いた。
ダレルがまだ手を振っている。鼠め。母からいくらふんだくったんだ。
しばらくそうしていたが、ポケットのブラックベリーがしきりに振動する。メールを見ると、パメラとハルからだった。
「アラン、どこにいるの? 人事部の退職面接の時間よ!」
「キャンベルさん、時間です」
もう一つは営業部全員に送られたメールで、
「アランのお別れ会は七時から。皆でアランと一緒に並ぼう!」
場所は例の客を選ぶクラブだった。
「もう戻らないと」
母とグレンは、つい昨日も同じように頬笑みを交わしたような気がする笑顔を向けた。
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