110 / 139
110 人が死んでいるみたいなんです
しおりを挟む
狭い玄関ホールにその階段を使う住民たちの郵便箱が並んでいる。
ハルはダイヤル式のロックを開けて、入っていたものを無造作に取った。
見ると殆どが広告だ。
「鍵がないから、ベッカがもう来てるんです」
「え?」
「いつもどっちが先に帰ってきてもいいように、郵便受けに鍵をいれておくんです。
ないから、ベッカがもう上がっているんだと思います」
「鍵を郵便受けに置いているって?」ホークの声が大きくなった。
「なんて不用心な……」
「だって、どっちかが閉めだされたら困るから……」
「でも、今は君一人なんだろう?」
「つい習慣で……」ホークはあきれて天を仰いだ。
天井や壁の汚れ方も、傷だらけの床も、築七八十年は下らない年季が入っている。
エレベーターがないので、ハルの部屋のある最上階は家賃が安いのだ。
やせっぽちのハルだが、階段には慣れているらしく、息も切れない。
「……引っ越しが決まったみたいなこと言っちゃって」
「一刻も早く引っ越すべきだ」
「まだ何も決まっていないのに」
大きなスーパーの袋を下げて五階に辿りついた。
廊下を歩きながら足元を見た。
注射器が捨てられたりしていないとも限らない。
空き部屋で麻薬の取引が行われていても不思議はないような廊下だった。
「ここです」ペンキの剥がれかけた茶色い扉のノブをハルが回すとドアが開いた。
「あ、やっぱり帰っている」
玄関に大きなバッグが二つ置かれていた。
「ベッカ?」
ハルはコートをコートかけにかけ、ロングブーツを脱いでバレーシューズのような部屋履きに履き替えた。
壁にドライフラワーやパッチワークの壁掛けが飾られている。
玄関の敷物は柄物だが、色褪せて擦り切れていた。
レベッカの物らしきバッグを持ってみる。
まるで家財道具一切が入っているかのように重かった。
女一人でよく五階まで持って来られたものだ。
「ベッカ?」
手前のドアはバスルームだ。
ドアを押すと中に洗濯物が干してあった。
ストッキングや女物の下着類だ。
短い廊下の向こうが居間だった。
「ベッカ?」
ハルが前を横切り、寝室らしき部屋のドアを開けた。
「ベッカ? どうしたの?」
寝室のドアから中を見た。
きちんと整えられたベッドの傍らの床の上に、厚みのある女の身体が倒れていた。
ふと、ホークは微かな刺激臭を感じた。
「ベッカ?」
ハルがしゃがんで倒れている女に触ろうとしたところを、ホークがぐいと腕を掴んで引き戻した。
「触らない方がいい」
え? ハルの目が丸く見開いた。
ハルに下がっているように言い、ホークは倒れている女の傍らに片膝をついた。
また刺激臭――彼女は失禁しているのだ。
片方の手袋を取る。
うつ伏せに倒れている女は茶色い革のコートを着たままで、肉付きがよく、金髪が乱れている。
黒いタイツを履いた脚がだらりと開き、赤いハイヒールが片方脱げていた。
片手は床の上に投げ出されているが、もう片方は自分の身体の下に入っている。
手の爪は、靴と同じような赤に染まっていた。
ホークは手で女の首筋に触れた。ほんのりと体温を感じたが、脈がない。
床に手をついて頭を下げ、女の顔に近づいた。
息をしていない。
蘇生を試みるべきか。
胸の下に腕を入れて身体を持ち上げようとしたとき頭がぐらりと傾いた。
ホークは腕を引いた。駄目だ。首の骨が折れている。
「ハル、警察を呼んで」
「救急車じゃないんですか?」ホークは振り向いてハルを見た。
「警察だ。彼女は死んでいる」
「え、嘘!」ハルが駆け寄ろうとするのをホークは手で制した。
「殺されたんだ」
ハルの口が大きく開いてハッと息を吸った。膝ががくがくと震え始めた。
ホークは飛び起きてハルを支えた。
「見るな」
ハルを抱きかかえるようにして居間の布製のソファーまで行き、そっと下ろす。
隣に座ってしっかり抱きしめた。震えている。声を出すこともできないようだ。
ホークは片手で携帯を出し、警察に電話した。
「人が死んでいるみたいなんです」自分の名前とハルの住所を言った。
電話を切ったあと、カルロにメールした。
ハルがホークの胸に顔を押しつけているので、彼女の頭越しにキー操作した。
しばらくすると少し落ち着いてきたのか、ハルの震えが治まった。
しかし相変わらずホークにしがみついている。呼吸はまだ速い。
遠くサイレンの音が聞こえた。
だんだん近づいてくる。三台か四台だ。
パトカーと鑑識と遺体を運ぶ救急車。
レベッカが襲われたのは、自分たちが到着するほんの少し前だろう。
その時犯人はまだ近くにいたはずだ。
もしかすると、下でぶつかりそうになったあの男かもしれない。
確か人相は……二十代半ば、白人、短くまっすぐな薄茶色の髪、水色かグレーの瞳、薄い唇、背は百七十五センチくらい、中肉、黒いダウンジャケット……。
言葉を発しなかったから、どこの出身かわからない。
玄関のドアのブザーが鳴った。
「ドアを開けてくるよ」
ホークはハルの身体をそっと押しやり、クッションを当てて背もたれに寄りかからせた。
玄関のドアを開けると、制服・私服合わせて十人ほどの警察関係者が立っていた。
ハルはダイヤル式のロックを開けて、入っていたものを無造作に取った。
見ると殆どが広告だ。
「鍵がないから、ベッカがもう来てるんです」
「え?」
「いつもどっちが先に帰ってきてもいいように、郵便受けに鍵をいれておくんです。
ないから、ベッカがもう上がっているんだと思います」
「鍵を郵便受けに置いているって?」ホークの声が大きくなった。
「なんて不用心な……」
「だって、どっちかが閉めだされたら困るから……」
「でも、今は君一人なんだろう?」
「つい習慣で……」ホークはあきれて天を仰いだ。
天井や壁の汚れ方も、傷だらけの床も、築七八十年は下らない年季が入っている。
エレベーターがないので、ハルの部屋のある最上階は家賃が安いのだ。
やせっぽちのハルだが、階段には慣れているらしく、息も切れない。
「……引っ越しが決まったみたいなこと言っちゃって」
「一刻も早く引っ越すべきだ」
「まだ何も決まっていないのに」
大きなスーパーの袋を下げて五階に辿りついた。
廊下を歩きながら足元を見た。
注射器が捨てられたりしていないとも限らない。
空き部屋で麻薬の取引が行われていても不思議はないような廊下だった。
「ここです」ペンキの剥がれかけた茶色い扉のノブをハルが回すとドアが開いた。
「あ、やっぱり帰っている」
玄関に大きなバッグが二つ置かれていた。
「ベッカ?」
ハルはコートをコートかけにかけ、ロングブーツを脱いでバレーシューズのような部屋履きに履き替えた。
壁にドライフラワーやパッチワークの壁掛けが飾られている。
玄関の敷物は柄物だが、色褪せて擦り切れていた。
レベッカの物らしきバッグを持ってみる。
まるで家財道具一切が入っているかのように重かった。
女一人でよく五階まで持って来られたものだ。
「ベッカ?」
手前のドアはバスルームだ。
ドアを押すと中に洗濯物が干してあった。
ストッキングや女物の下着類だ。
短い廊下の向こうが居間だった。
「ベッカ?」
ハルが前を横切り、寝室らしき部屋のドアを開けた。
「ベッカ? どうしたの?」
寝室のドアから中を見た。
きちんと整えられたベッドの傍らの床の上に、厚みのある女の身体が倒れていた。
ふと、ホークは微かな刺激臭を感じた。
「ベッカ?」
ハルがしゃがんで倒れている女に触ろうとしたところを、ホークがぐいと腕を掴んで引き戻した。
「触らない方がいい」
え? ハルの目が丸く見開いた。
ハルに下がっているように言い、ホークは倒れている女の傍らに片膝をついた。
また刺激臭――彼女は失禁しているのだ。
片方の手袋を取る。
うつ伏せに倒れている女は茶色い革のコートを着たままで、肉付きがよく、金髪が乱れている。
黒いタイツを履いた脚がだらりと開き、赤いハイヒールが片方脱げていた。
片手は床の上に投げ出されているが、もう片方は自分の身体の下に入っている。
手の爪は、靴と同じような赤に染まっていた。
ホークは手で女の首筋に触れた。ほんのりと体温を感じたが、脈がない。
床に手をついて頭を下げ、女の顔に近づいた。
息をしていない。
蘇生を試みるべきか。
胸の下に腕を入れて身体を持ち上げようとしたとき頭がぐらりと傾いた。
ホークは腕を引いた。駄目だ。首の骨が折れている。
「ハル、警察を呼んで」
「救急車じゃないんですか?」ホークは振り向いてハルを見た。
「警察だ。彼女は死んでいる」
「え、嘘!」ハルが駆け寄ろうとするのをホークは手で制した。
「殺されたんだ」
ハルの口が大きく開いてハッと息を吸った。膝ががくがくと震え始めた。
ホークは飛び起きてハルを支えた。
「見るな」
ハルを抱きかかえるようにして居間の布製のソファーまで行き、そっと下ろす。
隣に座ってしっかり抱きしめた。震えている。声を出すこともできないようだ。
ホークは片手で携帯を出し、警察に電話した。
「人が死んでいるみたいなんです」自分の名前とハルの住所を言った。
電話を切ったあと、カルロにメールした。
ハルがホークの胸に顔を押しつけているので、彼女の頭越しにキー操作した。
しばらくすると少し落ち着いてきたのか、ハルの震えが治まった。
しかし相変わらずホークにしがみついている。呼吸はまだ速い。
遠くサイレンの音が聞こえた。
だんだん近づいてくる。三台か四台だ。
パトカーと鑑識と遺体を運ぶ救急車。
レベッカが襲われたのは、自分たちが到着するほんの少し前だろう。
その時犯人はまだ近くにいたはずだ。
もしかすると、下でぶつかりそうになったあの男かもしれない。
確か人相は……二十代半ば、白人、短くまっすぐな薄茶色の髪、水色かグレーの瞳、薄い唇、背は百七十五センチくらい、中肉、黒いダウンジャケット……。
言葉を発しなかったから、どこの出身かわからない。
玄関のドアのブザーが鳴った。
「ドアを開けてくるよ」
ホークはハルの身体をそっと押しやり、クッションを当てて背もたれに寄りかからせた。
玄関のドアを開けると、制服・私服合わせて十人ほどの警察関係者が立っていた。
1
お気に入りに追加
94
あなたにおすすめの小説
夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました
氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。
ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。
小説家になろう様にも掲載中です
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
最近、夫の様子がちょっとおかしい
野地マルテ
ミステリー
シーラは、探偵事務所でパートタイマーとして働くごくごく普通の兼業主婦。一人息子が寄宿学校に入り、時間に余裕ができたシーラは夫と二人きりの生活を楽しもうと考えていたが、最近夫の様子がおかしいのだ。話しかけても上の空。休みの日は「チェスをしに行く」と言い、いそいそと出かけていく。
シーラは夫が浮気をしているのではないかと疑いはじめる。
失った記憶が戻り、失ってからの記憶を失った私の話
本見りん
ミステリー
交通事故に遭った沙良が目を覚ますと、そこには婚約者の拓人が居た。
一年前の交通事故で沙良は記憶を失い、今は彼と結婚しているという。
しかし今の沙良にはこの一年の記憶がない。
そして、彼女が記憶を失う交通事故の前に見たものは……。
『○曜○イド劇場』風、ミステリーとサスペンスです。
最後のやり取りはお約束の断崖絶壁の海に行きたかったのですが、海の公園辺りになっています。
王女の中身は元自衛官だったので、継母に追放されたけど思い通りになりません
きぬがやあきら
恋愛
「妻はお妃様一人とお約束されたそうですが、今でもまだ同じことが言えますか?」
「正直なところ、不安を感じている」
久方ぶりに招かれた故郷、セレンティア城の月光満ちる庭園で、アシュレイは信じ難い光景を目撃するーー
激闘の末、王座に就いたアルダシールと結ばれた、元セレンティア王国の王女アシュレイ。
アラウァリア国では、新政権を勝ち取ったアシュレイを国母と崇めてくれる国民も多い。だが、結婚から2年、未だ後継ぎに恵まれないアルダシールに側室を推す声も上がり始める。そんな頃、弟シュナイゼルから結婚式の招待が舞い込んだ。
第2幕、連載開始しました!
お気に入り登録してくださった皆様、ありがとうございます! 心より御礼申し上げます。
以下、1章のあらすじです。
アシュレイは前世の記憶を持つ、セレンティア王国の皇女だった。後ろ盾もなく、継母である王妃に体よく追い出されてしまう。
表向きは外交の駒として、アラウァリア王国へ嫁ぐ形だが、国王は御年50歳で既に18人もの妃を持っている。
常に不遇の扱いを受けて、我慢の限界だったアシュレイは、大胆な計画を企てた。
それは輿入れの道中を、自ら雇った盗賊に襲撃させるもの。
サバイバルの知識もあるし、宝飾品を処分して生き抜けば、残りの人生を自由に謳歌できると踏んでいた。
しかし、輿入れ当日アシュレイを攫い出したのは、アラウァリアの第一王子・アルダシール。
盗賊団と共謀し、晴れて自由の身を望んでいたのに、アルダシールはアシュレイを手放してはくれず……。
アシュレイは自由と幸福を手に入れられるのか?
冤罪! 全身拘束刑に処せられた女
ジャン・幸田
ミステリー
刑務所が廃止された時代。懲役刑は変化していた! 刑の執行は強制的にロボットにされる事であった! 犯罪者は人類に奉仕する機械労働者階級にされることになっていた!
そんなある時、山村愛莉はライバルにはめられ、ガイノイドと呼ばれるロボットにされる全身拘束刑に処せられてしまった! いわば奴隷階級に落とされたのだ! 彼女の罪状は「国家機密漏洩罪」! しかも、首謀者にされた。
機械の身体に融合された彼女は、自称「とある政治家の手下」のチャラ男にしかみえない長崎淳司の手引きによって自分を陥れた者たちの魂胆を探るべく、ガイノイド「エリー」として潜入したのだが、果たして真実に辿りつけるのか? 再会した後輩の真由美とともに危険な冒険が始まる!
サイエンスホラーミステリー! 身体を改造された少女は事件を解決し冤罪を晴らして元の生活に戻れるのだろうか?
*追加加筆していく予定です。そのため時期によって内容は違っているかもしれません、よろしくお願いしますね!
*他の投稿小説サイトでも公開しておりますが、基本的に内容は同じです。
*現実世界を連想するような国名などが出ますがフィクションです。パラレルワールドの出来事という設定です。
私が愛しているのは、誰でしょう?
ぬこまる
ミステリー
考古学者の父が決めた婚約者に会うため、離島ハーランドにあるヴガッティ城へと招待された私──マイラは、私立探偵をしているお嬢様。そしてヴガッティ城にたどり着いたら、なんと婚約者が殺されました!
「私は犯人ではありません!」
すぐに否定しますが、問答無用で容疑者にされる私。しかし絶対絶命のピンチを救ってくれたのは、執事のレオでした。
「マイラさんは、俺が守る!」
こうして私は、犯人を探すのですが、不思議なことに次々と連続殺人が起きてしまい、事件はヴガッティ家への“復讐”に発展していくのでした……。この物語は、近代ヨーロッパを舞台にした恋愛ミステリー小説です。よろしかったらご覧くださいませ。
登場人物紹介
マイラ
私立探偵のお嬢様。恋する乙女。
レオ
ヴガッティ家の執事。無自覚なイケメン。
ロベルト
ヴガッティ家の長男。夢は世界征服。
ケビン
ヴガッティ家の次男。女と金が大好き。
レベッカ
総督の妻。美術品の収集家。
ヴガッティ
ハーランド島の総督。冷酷な暴君。
クロエ
メイド長、レオの母。人形のように無表情。
リリー
メイド。明るくて元気。
エヴァ
メイド。コミュ障。
ハリー
近衛兵隊長。まじめでお人好し。
ポール
近衛兵。わりと常識人。
ヴィル
近衛兵。筋肉バカ。
クライフ
王立弁護士。髭と帽子のジェントルマン。
ムバッペ
離島の警察官。童顔で子どもっぽい。
ジョゼ・グラディオラ
考古学者、マイラの父。宝探しのロマンチスト。
マキシマス
有名な建築家。ワイルドで優しい
ハーランド族
離島の先住民。恐ろしい戦闘力がある。
人狼ゲーム『Selfishly -エリカの礎-』
半沢柚々
ミステリー
「誰が……誰が人狼なんだよ!?」
「用心棒の人、頼む、今晩は俺を守ってくれ」
「違う! うちは村人だよ!!」
『汝は人狼なりや?』
――――Are You a Werewolf?
――――ゲームスタート
「あたしはね、商品だったのよ? この顔も、髪も、体も。……でもね、心は、売らない」
「…………人狼として、処刑する」
人気上昇の人狼ゲームをモチーフにしたデスゲーム。
全会話形式で進行します。
この作品は『村人』視点で読者様も一緒に推理できるような公正になっております。同時進行で『人狼』視点の物も書いているので、完結したら『暴露モード』と言う形で公開します。プロット的にはかなり違う物語になる予定です。
▼この作品は【自サイト】、【小説家になろう】、【ハーメルン】、【comico】にて多重投稿されております。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる