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110 人が死んでいるみたいなんです

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 狭い玄関ホールにその階段を使う住民たちの郵便箱が並んでいる。

 ハルはダイヤル式のロックを開けて、入っていたものを無造作に取った。

 見ると殆どが広告だ。

「鍵がないから、ベッカがもう来てるんです」

「え?」

「いつもどっちが先に帰ってきてもいいように、郵便受けに鍵をいれておくんです。

 ないから、ベッカがもう上がっているんだと思います」

「鍵を郵便受けに置いているって?」ホークの声が大きくなった。

「なんて不用心な……」

「だって、どっちかが閉めだされたら困るから……」

「でも、今は君一人なんだろう?」

「つい習慣で……」ホークはあきれて天を仰いだ。

 天井や壁の汚れ方も、傷だらけの床も、築七八十年は下らない年季が入っている。

 エレベーターがないので、ハルの部屋のある最上階は家賃が安いのだ。

 やせっぽちのハルだが、階段には慣れているらしく、息も切れない。

「……引っ越しが決まったみたいなこと言っちゃって」

「一刻も早く引っ越すべきだ」

「まだ何も決まっていないのに」

 大きなスーパーの袋を下げて五階に辿りついた。

 廊下を歩きながら足元を見た。

 注射器が捨てられたりしていないとも限らない。

 空き部屋で麻薬の取引が行われていても不思議はないような廊下だった。

「ここです」ペンキの剥がれかけた茶色い扉のノブをハルが回すとドアが開いた。

「あ、やっぱり帰っている」

 玄関に大きなバッグが二つ置かれていた。

「ベッカ?」

 ハルはコートをコートかけにかけ、ロングブーツを脱いでバレーシューズのような部屋履きに履き替えた。

 壁にドライフラワーやパッチワークの壁掛けが飾られている。

 玄関の敷物は柄物だが、色褪せて擦り切れていた。

 レベッカの物らしきバッグを持ってみる。

 まるで家財道具一切が入っているかのように重かった。

 女一人でよく五階まで持って来られたものだ。

「ベッカ?」

 手前のドアはバスルームだ。

 ドアを押すと中に洗濯物が干してあった。

 ストッキングや女物の下着類だ。

 短い廊下の向こうが居間だった。

「ベッカ?」

 ハルが前を横切り、寝室らしき部屋のドアを開けた。

「ベッカ? どうしたの?」

 寝室のドアから中を見た。

 きちんと整えられたベッドの傍らの床の上に、厚みのある女の身体が倒れていた。

 ふと、ホークは微かな刺激臭を感じた。

「ベッカ?」

 ハルがしゃがんで倒れている女に触ろうとしたところを、ホークがぐいと腕を掴んで引き戻した。

「触らない方がいい」

 え? ハルの目が丸く見開いた。

 ハルに下がっているように言い、ホークは倒れている女の傍らに片膝をついた。

 また刺激臭――彼女は失禁しているのだ。

 片方の手袋を取る。

 うつ伏せに倒れている女は茶色い革のコートを着たままで、肉付きがよく、金髪が乱れている。

 黒いタイツを履いた脚がだらりと開き、赤いハイヒールが片方脱げていた。

 片手は床の上に投げ出されているが、もう片方は自分の身体の下に入っている。

 手の爪は、靴と同じような赤に染まっていた。

 ホークは手で女の首筋に触れた。ほんのりと体温を感じたが、脈がない。

 床に手をついて頭を下げ、女の顔に近づいた。

 息をしていない。

 蘇生を試みるべきか。

 胸の下に腕を入れて身体を持ち上げようとしたとき頭がぐらりと傾いた。

 ホークは腕を引いた。駄目だ。首の骨が折れている。

「ハル、警察を呼んで」

「救急車じゃないんですか?」ホークは振り向いてハルを見た。

「警察だ。彼女は死んでいる」

「え、嘘!」ハルが駆け寄ろうとするのをホークは手で制した。

「殺されたんだ」

 ハルの口が大きく開いてハッと息を吸った。膝ががくがくと震え始めた。

 ホークは飛び起きてハルを支えた。

「見るな」

 ハルを抱きかかえるようにして居間の布製のソファーまで行き、そっと下ろす。

 隣に座ってしっかり抱きしめた。震えている。声を出すこともできないようだ。

 ホークは片手で携帯を出し、警察に電話した。

「人が死んでいるみたいなんです」自分の名前とハルの住所を言った。

 電話を切ったあと、カルロにメールした。

 ハルがホークの胸に顔を押しつけているので、彼女の頭越しにキー操作した。

 しばらくすると少し落ち着いてきたのか、ハルの震えが治まった。

 しかし相変わらずホークにしがみついている。呼吸はまだ速い。

 遠くサイレンの音が聞こえた。

 だんだん近づいてくる。三台か四台だ。

 パトカーと鑑識と遺体を運ぶ救急車。

 レベッカが襲われたのは、自分たちが到着するほんの少し前だろう。

 その時犯人はまだ近くにいたはずだ。

 もしかすると、下でぶつかりそうになったあの男かもしれない。

 確か人相は……二十代半ば、白人、短くまっすぐな薄茶色の髪、水色かグレーの瞳、薄い唇、背は百七十五センチくらい、中肉、黒いダウンジャケット……。

 言葉を発しなかったから、どこの出身かわからない。

 玄関のドアのブザーが鳴った。

「ドアを開けてくるよ」

 ホークはハルの身体をそっと押しやり、クッションを当てて背もたれに寄りかからせた。

 玄関のドアを開けると、制服・私服合わせて十人ほどの警察関係者が立っていた。
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